らいむらいと、今年2度目の関西方面での演奏をしてきました。
大阪の白塗りアングラパンクグループ 即ち性。にお声かけていただき この度我々参加となった。
お会いした皆さんどうもありがとう。
ブランニュー。西九条 大阪環状線高架下にあるライブハウスなのだが。かつてヤンタ鹿鳴館という名前で営業していた頃、何度もお世話になった場所。友達のバンド観るのにも よく足を運んだ。
実にあれから30年近い月日が流れていて。色んな思い抱えて東京から西九条へと向かった。
今回大阪1本のみという遠征だったので 少しでも経費抑えましょうと、宿泊なし 往復夜間高速バス移動というプランを立てた。2日間堀野くんと2人 車泊での旅。
みっちゃんは例によって「シニアだから」と、往復新幹線での移動となった。
しかし 梅雨も明け いよいよ本格的な夏到来という時期だったので、この暑さに流石の堀野くんも少々参った様子。早朝なんばに着いたらぐったりしていました。・・バスだとなかなか寝れないしな。
あたしは いまも母親の元へ帰る際 夜行バスをよく利用するので、わりと元気だった。西九条駅前の喫茶店でモーニングと一緒にビール身体に流し込むくらい元気だった。
個人的には初出場のブランニューだったが。楽屋など至るところにまだ前営業のままの作りが残っており、懐かしい匂いがした。
1. 八月の濡れた街
2. 堕落を憐れむ唄
3. この世の果て
4. 希望の花
そして かつてヤンタの時は舞台がフロア後方側にあり。この日、20歳そこそこだった自分の幻影に向けて 希望の花 を唄う事となった。
舞台でも言ったが。まさかあの頃の自分が 20数年後いまもこうしてまだライブハウスで音楽続けているなどと夢にも思わなかっただろう。
あれから 決して誇りに思えるような立派な人生を送ってきたわけではないが。あの頃の自分に「おれ 後悔してないからな」と言ってやりました。
それからこの日。ヤンタに出ていた頃に知り合った大阪の音楽仲間や、当時のバンド・スタッフの子(あの時はまだ10代だったけれど 今はもう立派な大人の女性)、弟夫婦、嶋田さんのどん底でのイベントを通して知り合った大阪の音楽仲間も応援に駆けつけてくれた。本当に嬉しかった。。
大阪で堀野くんと一緒にやっていた時のメンバーにも物凄く久し振りに会えました。
このバンドの時 自分はギタリストという立場だった。
だけど、観にきてくれた当時のボーカル担当の彼とは70年代フォーク、歌謡曲をお互い好み 意気投合するところがあり。スタジオ練習終わってから よくメンバーのアパートで夜な夜なフォークギター爪弾きながらフォーク、歌謡曲談義をしました。つい昨日の事のように思い出されます。
また、いつか一緒にフォークギター爪弾きながら2人で唄いたい。いつの間にやら自分、唄い手になってたから。あの頃より 少しは上手にハモれるかも。です。
あの頃機材車を路駐していた西九条 線路脇の景色は、30年前と殆ど変わらなかった。
帰りも夜行バスだったので 終演後ばたばたと身支度する事となったが。バスに飛び乗る前、懐かしい金龍ラーメンも食す事ができた。
今回もよき旅となりました。呼んでいただいた 即ち性。の皆さん、どうもありがとう。
この日 会場でお会いした皆さん、どうもありがとう。
大阪の白塗りアングラパンクグループ 即ち性。にお声かけていただき この度我々参加となった。
お会いした皆さんどうもありがとう。
ブランニュー。西九条 大阪環状線高架下にあるライブハウスなのだが。かつてヤンタ鹿鳴館という名前で営業していた頃、何度もお世話になった場所。友達のバンド観るのにも よく足を運んだ。
実にあれから30年近い月日が流れていて。色んな思い抱えて東京から西九条へと向かった。
今回大阪1本のみという遠征だったので 少しでも経費抑えましょうと、宿泊なし 往復夜間高速バス移動というプランを立てた。2日間堀野くんと2人 車泊での旅。
みっちゃんは例によって「シニアだから」と、往復新幹線での移動となった。
しかし 梅雨も明け いよいよ本格的な夏到来という時期だったので、この暑さに流石の堀野くんも少々参った様子。早朝なんばに着いたらぐったりしていました。・・バスだとなかなか寝れないしな。
あたしは いまも母親の元へ帰る際 夜行バスをよく利用するので、わりと元気だった。西九条駅前の喫茶店でモーニングと一緒にビール身体に流し込むくらい元気だった。
個人的には初出場のブランニューだったが。楽屋など至るところにまだ前営業のままの作りが残っており、懐かしい匂いがした。
1. 八月の濡れた街
2. 堕落を憐れむ唄
3. この世の果て
4. 希望の花
そして かつてヤンタの時は舞台がフロア後方側にあり。この日、20歳そこそこだった自分の幻影に向けて 希望の花 を唄う事となった。
舞台でも言ったが。まさかあの頃の自分が 20数年後いまもこうしてまだライブハウスで音楽続けているなどと夢にも思わなかっただろう。
あれから 決して誇りに思えるような立派な人生を送ってきたわけではないが。あの頃の自分に「おれ 後悔してないからな」と言ってやりました。
それからこの日。ヤンタに出ていた頃に知り合った大阪の音楽仲間や、当時のバンド・スタッフの子(あの時はまだ10代だったけれど 今はもう立派な大人の女性)、弟夫婦、嶋田さんのどん底でのイベントを通して知り合った大阪の音楽仲間も応援に駆けつけてくれた。本当に嬉しかった。。
大阪で堀野くんと一緒にやっていた時のメンバーにも物凄く久し振りに会えました。
このバンドの時 自分はギタリストという立場だった。
だけど、観にきてくれた当時のボーカル担当の彼とは70年代フォーク、歌謡曲をお互い好み 意気投合するところがあり。スタジオ練習終わってから よくメンバーのアパートで夜な夜なフォークギター爪弾きながらフォーク、歌謡曲談義をしました。つい昨日の事のように思い出されます。
また、いつか一緒にフォークギター爪弾きながら2人で唄いたい。いつの間にやら自分、唄い手になってたから。あの頃より 少しは上手にハモれるかも。です。
あの頃機材車を路駐していた西九条 線路脇の景色は、30年前と殆ど変わらなかった。
帰りも夜行バスだったので 終演後ばたばたと身支度する事となったが。バスに飛び乗る前、懐かしい金龍ラーメンも食す事ができた。
今回もよき旅となりました。呼んでいただいた 即ち性。の皆さん、どうもありがとう。
この日 会場でお会いした皆さん、どうもありがとう。