昨日、撮りためた中からスウェーデン放送合唱団演奏会の模様を聴きました。
2012年6月19日にオペラシティで行われたものです。
ヤン・サンドストレム作曲の「ヘラジカの歌」
は、さすがスウェーデン放送合唱団だな、と思わせる演奏でした。
曲が北欧という事もあり大平原を走り抜けるヘラジカが目に浮かんできました。
アンサンブル、バランス、声質、どれをとってもさすが一級品です。
フーゴ・アルヴェーン作曲の「夕べ」
も、同じくさすがの演奏です。
夕日が大地に沈んでいく様子が目に浮かびます。
他にスヴェン・ダーヴィッド・ヴィカンデル作曲「春の夕べ」、
スウェーデン民謡の「そして乙女は輪になって踊る」
言葉は全然わかりませんが、どれも北欧の大地、自然が目に浮かびます。
ホールで聴いた人は、そこが日本ではないという錯覚に陥ったのではないでしょうか。
さて、後半は「スモレンスキーを記念する夕べのミサ曲」となっていましたが、
要は、私が良く取り上げるセルゲイ・ラフマニノフの「晩祷」です。
これに関しては一見解を述べたいと思います。
ハーモニーや、アンサンブル、テクニックは抜群なんですが、
私には正直「晩祷」に聞こえませんでした。
理由は、まず、「演奏会」として歌っている、ということ。
私がミサ曲をやるときは、その曲が「祈り」である、ということを念頭において演奏しています。
美しい曲である、ということは当然間違いはないのですが、
美しさのみの表現だと、ミサ曲である、という本質から外れます。
指揮者の指揮ぶりは、演奏会のそれ、でした。
それから合唱団員が楽譜を見すぎている、ということ。
それまでの曲は楽譜は「チラ見」ですし、民謡は暗譜で歌っていました。
だから、表情も非常に豊かだったし、非常に訴えてくるものがありました。
楽譜を見ているから、といってアマチュアのコーラスの様にアンサンブルが崩れる、
ということはもちろん全くないのですが、
何か伝わってくる気持ちや、生命観のようなものが若干希薄に思いました。
それから教会スラブ語の意味をどこまで理解しているのか、
ということに若干疑問がある、という点。
もちろん、ヨーロッパの国ですので団員のほとんどがキリスト教徒だと思いますし、
その詩編の「教会スラブ語訳」なのですから意味は理解しているとは思いますが、
一語一語の伝わってくる意味の重さとか、深さに欠けているような気がしました。
発音はヨーロッパ人という事で、やはり日本人が発音するよりしっかりとした発音なんですが・・・
ということで、この公演模様からはたくさんの事を感じ、学ぶことができました。