さらには、僕の印象では、脳の活性化も、どこかパソコンやOSのバージョンアップと重なってしまいます。確かにそれらのバージョンアップは行いたいのですが、創作のアイデアそれ自体は、もっと全く別次元の所から発生するように思えてなりません。今更面倒かも知れませんが、五線紙と筆記具さえあれば作曲は出来ますよね。ハードウェアやOSをバージョンダウンしたとしても、それでもなお生き続ける源泉が、今の社会には不足しているような気がします。
・・・だからと言って、ハードウェアが無かったら困りますので、「ハード」と「発想」の両方が充実していて欲しいですね。これを社会の問題として捉えた場合、やはり難しい問題ですね。
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今はどうなのか知らないし、あるいは学校によっても違うのかもしれないが、私の小学生のころは、毎日日記を書かされていた。
学校に登校したら、先ず新しく書いた部分を開いて逆さにして先生の机の上に置いていく。
担任の先生がそれを全員分空き時間などに見て、必ずコメントを書いてくださる。
自分達はそれが当たり前だと思っていたから当時は何も思わなかったが、今になって思ってみれば、先生も大変だったなぁ、と思う。
まあ、その日記を通してその子の情報や状態が、ある程度わかっただろうから個人のケアもやりやすかった、かもしれないが、その他に小学校の先生はほとんどの科目を教えないといけない訳だから、やっぱり大変だったと思う。
しかし、毎日日記を出す方も大変で、その日その日で書くネタに困っていたなぁ、と毎日ブログを書くようになって思い出した。
そしてこんなことも思い出した。
四年生の時だったと思う。
うちの田舎は積もらないが、雪が時々舞うことがあったのだが、その風景を見て感動したので、その感動を詩にして日記にしたため、何時ものように提出した。
そうしたらやたら褒められて、皆の前で発表させられた。
そんなことがあって時々、詩の日記を出していたのだが、そのうちにそれこそ書くネタがなくなって苦し紛れに詩を書いて出したら、先生に、「詩もいいが、ちゃんと日記を書いて出しなさい」とコメントされた。
詩にすると文字数が少なくてすむ、ということを利用した私の心理を見事見破られていたわけだ。
でも強制的にでも毎日書かされていたのは今となっては決して悪いことではなかったな、と、毎日ブログを書いていて思うのであった…
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今日はこれからカインズによる、老人ホームでのコンサートです。
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