指揮者 神尾昇の一言

日々の生活の中でちょっとした事などがあったら、ちょろっと書き留めて行く、そんなブログです。

いよいよ明日でとりあえず終わりです。

2010年07月30日 | Weblog

 火曜に体調不良でできなかった「冬の旅」の合わせを昨日やった。
 面白いもので私も鈴木美苗女史も、一度本番をやった、という「余裕」のようなものが感じられ先週までの合わせとは違うものになった。
 音楽が「身体で」理解できていれば練習ではそのクオリティを下げないようにしておけば本番で爆発的な力でる、ということは今までの経験で分かっている。だから練習では深さを追求する感覚は薄らいで、言葉は悪いかもしれないが「起爆剤」のようなものを埋め込んでいく。それが本番で爆発する、という仕掛け。
 しかし先週までの合わせでは「頭」では「冬の旅」を理解できていても「身体」ではできていなかったのだろう、何回か通していくうちに体に沁み込んでいく感覚があった。
 それが昨日の合わせでは起爆剤のセット、のような感覚があった。いつもの練習で指揮をしているような感覚だ。明日のリサイタルがどのようなものになるかがイメージできてきた。

 さて、明日のリサイタルにおいでいただける方にお知らせです。
演奏終了後、ホールのご協力を得て、同じ場所でリセットしてクロージング・パーティを行うことになっています。会費は2000円で飲み放題、食べ放題です。
 パーティの中で「冬の旅」について簡単なレクチャーも催したいと思っています。本来なら聴く前に行うべきかもしれませんがハッキリ言ってそういう余裕もありませんので(笑)他に質問コーナーなども設けたいと思っています。
 チケットが手に入らず、または午後の時間に何かある、という方でもパーティのみのご出席も大歓迎です。

 それでは明日、会場でお会いしましょう!!
 

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土曜日はリサイタルだというのに

2010年07月29日 | Weblog
こうも暑い日が続くと思考能力は著しく低下します。
ヨーロッパではバカンスシーズンに入り皆仕事を休みます。とても合理的です。
しかし全員休めるわけではなく、所謂サービス業や、公共事業は休めません。
だから、8月にイタリアなどに行くと最悪で、鉄道や飛行機は時間どおりには動かないし、下手をすると勝手に運休したりもします。
もともとユダヤ教、またはキリスト教の教えの中で「安息日」を取ることを「義務」としてきたから仕方ありません。休日に働くと罪になった時代、国、地域もあったそうです。
日本は休み、という感覚はまだまだ江戸時代から抜け出せていないように思います。江戸時代には休みは村単位で決められて、勝手に休むと罪になったそうです。つまりヨーロッパと逆です。
だから休んでいい日ではないと、休む、というと罪の意識に駆られます。
私は火曜のCollaVoceを「体調不良」で休みました。日曜の無理が祟ったのか昨日珍しく病院に行ったら「食あたり」と診断されました。メンバーは快く私が休むことを受けれいてくれましたが、いつもピアノのみで練習していて月に一回のみ私が行く、という体制を取っていたからだと思うのですが毎週行っている団体では軽々しく「休む」とは指揮者としてなかなか言えるものではありません。
 幸い昨日病院で薬を処方されて良くなりましたが、本当に健康第一です。

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今日も猛暑日?

2010年07月26日 | Weblog
昨日、柏交響楽団の練習が14時からあり、柏ではお祭りがあるということで車では自由に動けない可能性がある、ということで、自転車で練習場所に向かった。
距離約20キロ、ルートは江戸川を流山まで北上し、県道47号を東へ。
新宿のトロイカ練習場まで行くには25キロあるので、飲料水をタンクに入れていくのだが、江戸川を通るルートだから涼しいだろう、一時間未満で着くからついてから水分補給をすればいいだろう、と思ってタンクを持たずに出発した。
これが大間違い。
川は風は吹いているが南風、つまり追い風。スピードは乗ったが時速40キロを超えないと風が感じられないくらい強い風。
しかも照り返しが厳しく思っていたより過酷だった。さらに県道に入ったら車からの熱と道路からの熱で恐らく周囲温度は40度を超えていたのではないか。
とにかく大変だった。
昨日の仕事はそれだけだったので帰りはゆっくり目に帰ったのだが、どうやら軽い熱中症になったようで、調子が上がらない。
帰ってから夕べは早めに就寝した。
ということで、皆さんもこの暑さを甘くみないで熱中症にはくれぐれも気をつけましょう。

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何とか一回目終わりました。

2010年07月25日 | Weblog
昨日私の初リサイタルに猛暑の中、おいでくださった皆さま、本当にありがとうございました。
私も何度か小岩アーバンに行きましたが日中だと道中殆ど影らしい影がないので歩いてこられた方は本当に大変だったと思います。
お陰さまでたくさんの方にご来場いただき、そして歌の方も私としては決して最上の出来ではなかったことは悔しいですし、恥ずかしい限りですが何とか終えることができました。
そしてさらに磨きをかけて31日に臨みたいと思います。
昨日のホールは響きのかえり、つまり残響が無く私が常に歌や合唱を教えるときに言っている「残響も自分で作る」技術を駆使しないといけなかったので大変神経を使いました。
リサイタル終了後市川オペラの練習があったのですが練習前に普段は殆ど口にしないフローズンヨーグルトなどを飲み、脳の栄養補給をしました。
一夜明けて今日も、これからオーケストラの指揮をしなければならないのに頭はまだボーっとしています。
しかし指揮の本番をした翌日とは違って身体はピンピンしているのは自分として面白い発見だと思います。
あらためて、ご来場いただいた皆様、お手伝いいただいた皆様、本当にありがとうございました。

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いよいよ、明日一回目の本番。

2010年07月23日 | Weblog

先程、プログラムも到着しました。
いよいよ明日に迫りましたが、この暑さです。クーラーを使いたいのだけれど使いたくもない。
困りました。

24. Der Leiermann  ライアー弾き
http://www.youtube.com/watch?v=pze4NxCOjg0
村のはずれに一人のライアー回しが立っている。
かじかんだ指で 一心にライアーを回している。

はだしで氷の上をあちこちよろよろと歩きながら。
しかし彼の小さな皿はいつまでも空っぽだ。

誰もその音を聴こうとしない、 
誰もその姿を見ようとしない。
だた老人の周りでは 
犬たちがうなり声を上げているだけだ。

それでも彼はすべてをなすがままに任せている。
自分のライアーを回してその音がやむ事は無い。

風変わりな老人よ、
僕もあなたと共に行っていいだろうか?
僕の歌に合わせて
ライアーを回してはもらえないだろうか?

 まずこの曲に出てくる「ライアー」という楽器。ハンドルを回す、という表現から手回しオルガンを連想する人が多いが実際はハーディー・ガーディーという楽器。一番下のクランクを回すとホイールが回り、弦をこすって音が出る。そしてキーを押すとその高さが出る、という仕組。日本の大正琴にちょっと似ている。
 この曲はハーディ・ガーディーの完全五度の音形がずっと最初から最後まで鳴っている。イングランドのバグパイプと同じ。一度聞いたら忘れられない曲であり、響きである。
http://www.youtube.com/watch?v=uvdmEwQx5lo


 このライアー弾きの老人は完全に「僕」のドッペルゲンガーである。自分の「成れの果て」を描いている。カラスにも言ったように「風変わりな老人」と言っている。つまり自分自身である、という事に間違いはないだろう。
 しかし救いなのは「それでも彼はすべてをなすがままに任せている。」点だ。それ故に「僕」は自分と老人を重ね合わす事である種の幸せを感じる。感じるがゆえに歌を歌うのである。

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いよいよ、終盤。

2010年07月22日 | Weblog


22. Mut  勇気
http://www.youtube.com/watch?v=LIBAlZXHI80
雪が顔に吹きつけてきても
僕はそれを払い落としてやろう。 
心が胸の中でぶつくさ言っても  
僕は明るく元気に歌おう。 

心が僕に言うことなど聞かない、 
耳を貸したりはしない。
心が僕に嘆くことなど感じない、
嘆きは愚か者のものだ。
  
陽気に世の中へ出て行こう、 
風や嵐に負けないで。 
神がこの地上にいないなら、  
僕ら自身が神になろう! 

 この詩の最後の行が大きなポイントである。「僕ら自身が神になろう!」かなり大胆な発言である。その前の「神がこの地上にいないのなら」という行は日本的に見ると「神も仏もいない=救いがない」と取りがちだが、やはりこれは宗教も含め、反体制の歌である。様々な経緯を経て、「僕」は体制の主そのものを目指そう、と言っているのである。
 そこまで誇大解釈をせずとも「自分の力で生きていこう」、そういう人間を目指そう、と言っているのである。
 この曲も出版時に全音下げた調にされてしまった。最高音が高すぎるという事だろう。しかしこの曲も元の調で今回は演奏する。最高音になる所は「selber=自分自身で、自分達で」という意味の単語でシューベルトはその意味が印象深くなる事を狙っていたはずだからである。

23. Die Nebensonnen  幻の太陽
http://www.youtube.com/watch?v=M0pGl8GqYog
三つの太陽が空にあるのを見た、
長い間じっとそれを見つめていた。 
太陽もそこに無表情に動かずにいた、
まるで僕から離れたくないかのように。
ああ、おまえたちは僕の太陽ではないんだ、
他の人の顔を照らせ!
ああ、以前は僕には確かに太陽が三つあったが、
今はその中の最良の二つが沈んでしまった。
三つめも更に沈んでくれさえすれば、
暗闇の中で僕は気分よくいられるのに。

 この詩の解釈は難解である。「三つの太陽」が何を指しているか文面からは分からないからである。
 諸説あり、しかしそれぞれの理由は何となく説得力に欠ける。それは「今はその中の最良の二つが沈んでしまった」からだ。解釈の中にキリスト教の「三つの徳」ではないか、というものがあり、私もこれを支持したいと思っている。
「信仰、希望、愛」
 しかし問題が二つ。そもそも「僕」には信仰があったのかということ。今までの言動をみているとむしろ「反宗教」的な部分もある。最初はあったが無くなってしまった、だからこそ、「沈んでしまった」と言えなくもないが・・・
 もう一つの問題点は「信仰」と「希望」が沈んで今は娘への「愛」だけが残ったという事。確かにそうすると 「三つめも更に沈んでくれさえすれば、
暗闇の中で僕は気分よくいられるのに。」というのは納得がいく。しかしではそれまでは「信仰」と「希望」が最良の二つだったのか、「愛」は三番目だったのか、という疑問が残る。
 いずれにしても「今はその中の最良の二つが沈んでしまった」の部分から間奏に至るまで太陽が沈んでいく様をシューベルトは見事に描いている。
 そしてミュラーの詩はやはり「まぼろし」と同じように段落がない。

 

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「死」への道しるべ

2010年07月21日 | Weblog

20. Der Wegweiser  道しるべ
http://www.youtube.com/watch?v=Byo1zj560vE
どうして僕は避けるんだろう? 
他の旅人が行く道を
どうして隠れた小道を探すんだろう?
雪に覆われた岩山の中の。
 
別に罪を犯した訳でも、
人目を憚らなければならない訳でもないのに。
どんな愚かな望みが
この荒れた地へ僕を追いやってしまうのだろう?

路上に道しるべが立っていて
あの街への道を示している。
だけど僕はあてど無く歩いて行く、 
安らぎは無いが、しかし安らぎを求めて。

僕は身じろぎもせずに立ち
一つの道しるべを目の前に見ている。 
僕はこの道を行かなければならない、
だれ一人戻ってきた事がないこの道を。 

 「冬の旅」全体を「絶望の旅」と捉えがちだが実際にはどうだろう。「僕」は葉っぱに望みをかけてみたり、「まぼろし」を追いかけたり、まだまだ人生に未練を、しかも人一倍持っている一人の若者、と私は思う。
 この道しるべ、「だれ一人戻って来た事がないこの道」を、つまり「死への道」を指していて、僕は「行かねばならない」のだが、わざわざ厳しい道を通ってここまでやってきて結局は次の「宿」、つまり墓場には居場所がないと行って立ち去る。「死」に憧れていて、しかし「死」を選ぶ事はしない。
 シューベルトがこの曲を書いた時は健康状態が非常に悪かった。しかも30歳になったばかり。実際には翌年亡くなるのだが、死にたくなかったに違いない。人一倍生きる事に望みをかけたに違いない。しかし見えてくるのは「死」なのである。
 この「僕」をそれこそドッペルゲンガーとして見ていたのではないかと思う。この辺りの曲からシューベルトの「叫び」が私には感じられる。

21. Das Wirtshaus  旅宿
http://www.youtube.com/watch?v=Ne7XAws_dTc
ある墓場へと僕の道しるべは導いてくれた。
是非ここを訪れたいと僕は心の中で思っていたんだ

緑の葬儀の環よ、 
おまえたちはきっと看板なのだろう、 
疲れた旅人を涼しい宿へと
招き入れてくれるんだろうね。

この宿の部屋はすべてふさがっているのかい?
僕は倒れんばかりに疲れて、
死にそうなほど傷ついているというのに。

ああなんと無慈悲な宿だ、
どうしても僕を受け入れてくれないのか?
それなら更に先へ、ただ先へと進むしかない、
僕の誠実な旅杖よ。
「墓場」には「緑の葬儀の環」が掛けられている。旅宿というのは居酒屋も兼ねており新しいワインが入ると入り口に緑の葉の環をつける。ここからも「僕」はワイン職人の徒弟だったのではないか、と連想できる。つまりもうワイン職人の親方の家には帰れない、自分のだった部屋も別の徒弟が入っている。という暗喩として捉えられる。
 もっと解釈するなら、「今の体制」からの脱却を意味している。これは「村にて」「朝の嵐」でも述べた。
 いずれにせよ「僕」は死ぬ事なく先へ足を進める。この後奏が非常に美しい。

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曲は後半へ、「僕」自身も錯綜?

2010年07月20日 | Weblog


18. Der stürmische Morgen  嵐の朝
http://www.youtube.com/watch?v=t3dWNlDzzgM
嵐が空を覆う灰色の衣を引き裂いてしまったように
ちぎれた雲が風に翻弄されながら
あちこちへふらついている。

そして真っ赤な炎がその間を引き裂いている。
これこそ僕の気持ちには
うってつけの朝といえよう。

僕の心はこの空に自分の姿が
描かれているのを見て取る。
それこそまさに冬、冷たく荒々しい冬。

 「村にて」は反体制であるが、一見平和な音形で描かれているのに対して詩も音楽も「革命」的である。
 激しいままあっという間に曲が終了し、次の「まぼろし」に引き継がれる。

19. Täuschung  まぼろし
http://www.youtube.com/watch?v=29LRFonIlSs&feature=related
光が一つ僕の前を親しげに躍って行き、 
僕はそれをあっちへこっちへ追いかけまわした。
僕はすすんでその後を追いかけたけれど、
それが旅人を惑わすものだと分かっていたんだ。
ああ、僕みたいに惨めなものは 
こんな色とりどりの誘惑には
身を任せてしまうものだ。
それは氷と夜と恐怖の背後に、 
明るく、温かい家を旅人に見せてくれる 
そしてその中の一つの愛らしい人を。
僕の得られるものはまぼろしだけなのだ。

 この曲の題名は「まぼろし」としたが、実際の意味は「欺瞞、詐欺、錯覚」というもの。
 この辺りから「僕」の精神性は一見相当均衡を失っていくようにみえる。「光」を「かつて好きになった娘に似ている娘」と置き換えると詩全体が解釈しやすい。しかしその娘もよその家庭の人。一種の「気の迷い」なのであろうか。ミュラーもこの詩には段落を付けていない。全体が本当にまぼろしのように流れていく。

 

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何を「希望」していたのかは定かでなはいが。

2010年07月18日 | Weblog

16. Letzte Hoffnung  最後の希望
http://www.youtube.com/watch?v=TBD4KBJuq1g&feature=watch_response
あちこちの木々にたくさんの色づいた葉が見える。
僕はその木々の前に立ち止まり
しばしば物思いにふけってみる。

ある一枚の葉っぱを眺め、それに僕の希望を託す、
すると風が僕の葉をもてあそび、
恐ろしさで身体の震えが止まらない。

ああ、そしてその葉は地面に落ち、 
一緒に希望も消えてしまった。 
僕自身も地面に倒れ伏して
僕の希望を葬った墓の上に涙を流す。

 同じくミュラー=シューベルトの作品の「水車小屋の美しい娘」は「粉屋」の徒弟であるが、「冬の旅」の「僕」は何の徒弟だったのかはこの曲全体を見渡しても答えがない。しかし幾つかの断片をつなぎ合わせるとワイン職人ではないか、と思わせる節がある。
 この曲の最初で「あちこちの木々」とあるから一本の木ではない。それから「色づいた葉」はbunteとなっているが、これは一枚の葉に使う言葉。しかも元の詩は「一枚の色づいた葉」となっていることからぶどうの木ではないかと予測を付ける事が出来る。
 曲の最後の方で「ヴァーイン」と連呼するところがある。ドイツ語の「ワイン、ワイン」と聞こえなくもない。「宿屋」などでも暗示がされているが、しかしワイン職人の徒弟だったかどうかは決定的な事ではないし、物語にはそう大きく影響しない。

17. Im Dorfe  村にて
http://www.youtube.com/watch?v=gs6v74XvfgY
犬たちが吠え、鎖がガチャガチャ音を立てている。
人々は自分たちのベッドで眠りにつき、
自分には無い、いろいろな夢を見ると
良い夢でも悪い夢でも元気をとりもどす、
そして翌朝になると全て消え去ってしまっている。
まあいい、人々はそれを楽しんでいるし、
それにまだ手に入れてないものを 
枕の上で得ようと望んでいるんだ。 

僕に吠え続けてくれ、起きている犬よ、 
眠りの時刻にも僕を休ませないでくれ! 
僕はすべての夢を見果ててしまったんだ、
眠る人々のもとで
何をぐずぐずしている事があるだろう?

 一見あまり特徴のない旋律によって書かれているこの曲は、明らかに「体制批判」である。よその者を受け入れない、しかし番犬がいる事でうるさく番犬が吠えているのに自分たちは安眠をむさぼっている。
 もっと身近な言い方に換えると、「村の人」は夢を見る事で人生に満足している。自分はそんな事では満足できない、ということを述べているのである。
 途中までずっと続く伴奏の形は吠えている犬と、鎖の音と、そして「沈黙」が描かれている。
 そして「まあいい、」から後は非常に皮肉っぽく書かれている。シューベルトの描写はやはり素晴らしい!

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極上に美しい「カラス」

2010年07月17日 | Weblog

14. Der greise Kopf  白髪の頭
http://www.youtube.com/watch?v=n18_7IMnv2c
霜が白い輝きを 僕の髪の毛の上に撒き散らした。
それで僕は早くも老人になれたと思って 
とても喜んだんだ。

だけどそれはすぐに融け去って
また黒髪に戻ってしまった、
僕は自分の若さが恐ろしくなる。
棺桶までなんと遠いことだろう!

夕焼けから朝日が昇るまでに 
頭が真っ白になった人が何人もいるという。
誰が信じられるんだ?
僕の頭はそうはならなかったのに、
この長い旅路でも!
 
 直訳すると「年寄りの頭」だが、それではあまり詩的ではない。
「郵便馬車」と違って非常に暗い曲だ。そして時間枠も急激に変わっている。先ほど郵便馬車のラッパを聞いて街中で色めき立ったのにこの曲では内容から、寝て起きた所からスタートしている。順番としては「春の夢」の後が適切ではないか、とも思える。
 しかし「黒髪」ということにポイントがある。「おやすみ」でも述べたように黒髪であるという事は「よそ者」である、ということを再認識しているのである。
 「郵便馬車」で自分は恋
に破れたということを暗に繰り返しており、「白髪の頭」で自分は若者で、「よそ者」であるという事を繰り返しているのである。そして第二部の内容へと展開していくのである。見事な構成である。

15. Die Krähe  からす
http://www.youtube.com/watch?v=_uUlnsBuLn4&feature=related

一羽のカラスが僕と一緒にあの街からついて来て、
今日までずっと僕の頭の上を飛び廻っている。

カラスよ、風変わりな獣よ、
僕から去って行かないのか? 
きっとすぐに餌として  
僕のからだをここでついばむつもりなんだろう?

もはや、これ以上杖をついて
歩き続ける旅も長くないだろう。 
カラスよ、墓に入る最期まで
僕に誠実さを見せてくれ。

 この曲の前奏も「春の夢」と同じくとても美しい。そしてカラスが飛んでいる様を実にうまく表している。前奏の旋律が旋回している様、歌が入ってくるとピアノの右手は羽音を表している。
 しかしそれにしても美しい。カラスというものの表現としては美しすぎる。
 それは、これは実際のカラスを描いているのではなくて、自分自身を投影しているからである。いわゆるドッペルゲンガーである。前の曲で自分の髪は黒い事をわざわざ歌い、「カラスよ、風変わりな獣よ」と言っているのは「よそ者」である自分に向けている。私は終曲の「ライアー弾き」もドッペンゲンガーと捉えている。
「頭」という言葉を前の曲ではKopfを使っているが、ここではHauptとなっている。Hauptは自分の頭には使わない。キリスト教徒にとってはキリストの頭を指す。この事から「僕」はキリスト教徒であることがわかる。更に「僕の身体をここでついばむつもりなんだろう?」という表現は明らかに「聖体」を表している。
 この事は後の「勇気」にとって大きな布石になるので覚えておきたい。

 

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