指揮者 神尾昇の一言

日々の生活の中でちょっとした事などがあったら、ちょろっと書き留めて行く、そんなブログです。

友が皆 我より偉く見ゆる日よ...

2012年09月30日 | Weblog
演奏会をする時、実は私は「なぜ演奏会をするか」
いつも疑問に思いながらやっています。
昔は、演奏会をする事で報酬ももらえるし、
何より、ステージに立つ、ということが快感で、
その快感を得るためにやっていました。
でも今はそういう感覚はありません。
かと言って、嫌になったのか、というとそういうわけでもないのですが、
じゃあ、なぜ舞台に立つのか、実はわからないまま、舞台に立っています。
プロなら、やはり仕事として、入場料を頂き、報酬を得る手段、
としてステージに立っている人もいるだろうし、
アマチュアなら、日頃練習を重ねて来た成果を発表、
ということでステージに立っているでしょう。
 
私はこの事を考える時に、「花屋さん」を意識します。
商店街に行き、パン屋さんや、肉屋さんや、八百屋さんや、衣料品店や、雑貨店、
それぞれ生活に必要なものを売っているお店が並んでいますが、
その中で花屋さんは、生活必需品を売っているわけではありません。
極端に言うと、全く必要ない、といっても過言ではありません。
でも人は花を買って来て飾ります。
私もネコの花子ちゃんが家にくるまでは、毎日欠かさず花を活けていました。
なぜでしょうか…
 
生活の中の潤い、とひと言で言ってしまえば終わりでしょうが、
そんなに簡単なものでもない、とも思います。
啄木の歌で私の好きな一句。
「友が皆 我より偉く見ゆる日よ 花を買い来て 妻と親しむ」
花を買うお金があるんだったら、パンの一つも買う、
というところを花を買って家に飾る。
 
演奏会に出かける、ということも同じような事が言えるのではないでしょうか。
何千円も、時によっては何万円も出す、のなら、
レストランで美味しい料理を食べる、美味しいワインを飲む、
でも演奏会に出かける。
 
だから結局は、わざわざ足を運んでくださるお客様に対して、
真心を込めて、一音一音に「精神」を込めて、「情熱」を込めて、
演奏しなければいけないな、
と自分に言い聞かせて、結局は舞台へ上がります。 
 
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「精神」の無限性

2012年09月29日 | Weblog
昨日まで、今やっている曲に関しての解釈、
というか、それを踏まえた解釈を超えて、考え方などを書いてきました。
そして、きっかけとなった、「死をもって、死を滅ぼす」
というくだりについて、さまざまな議論が沸き起こりました。
 
夕べ、有賀画伯が我が家に訪れ、いろいろな話をする中で、その話になり、
私が言った、「死んだら無になる」という事に議論が移ってきました。
私は死んだら、感覚も思考も全て無くなってしまう、
つまり何も認識できなくなる、という意味で「無」
と言っています。
でも精神、魂、英語で言うところの、spiritは残る、と思っています。
それは、その人の精神、という意味で。
例えば画家であれば、その人が描いた画の中に精神が残っています。
精神そのものが残っている、と言ってもいいと思います。
昨日は有賀さんの画を納入してもらったのですが(これについては後日記述します)
その画は正に有賀さんの精神そのものです。
 
私も弟子がいたりしますが、私の精神はその弟子たちに受け継がれています。
演奏会を聴きに来て下さったお客様にも引き継がれています。
こうやってブログを書き残す事でも精神を残しています。
 
さて、その「精神」ですが、これがまた摩訶不思議、というか、謎のもの。
その人が語った言葉や、作ったものや、肉体として存在するその顔や姿。
それらの根底を成しているものが「精神」
そして、死んだ時には「自分」という存在を超えて、大きな精神の中のひとつ、
というか、ひとつの精神の中に混ざっていく、
何か、そういう感覚で捉えています。
宗教や、もっと言うなら人によってその感覚はちがっているでしょうが、
その瞬間、死をも超える。
つまり「死をもって、死を滅ぼす」
 
ちょっと話はズレますが、「ゾンビ」というのはその辺を上手く捉えているな、
と思います。
彼らには「個」がなく、何かしら全体のような感じ、
一つの精神で動いているような感じ、がします。
 
そしてその精神がひとつの大きな精神に取り込まれ、
それが次に生まれてくる命に受け継がれていく。
だから、人間は太古からの記憶をしょったまま生まれてくる。
なんか、大雑把ですがそういう感じがします。
 
だから私は演奏をする時に、「精神」を込めるようにしています。
それは受け継がれるもの、であるから。
受け継いで欲しい、と思っているから。
 
 
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Open thou mine eyes

2012年09月28日 | Weblog
昨日までのブログに登場した、ジョン ラターの曲で、
他にOpen thou mine eyesという曲も練習しています。

Open thou mine eyes and I shall see:
私の目を見開かせてください そうすれば見えてくるでしょう

この曲の最初の部分をやっていて、ある曲を思いだしました。
それは「Amazing Grace」

I once was lost but now am found,
Was blind but now I see.

今まで見えなかったものが見えてくる。
これは生きていれば結構体験する事です。

昨日の喜び、や、感謝、ということもそうですが、
普段「当たり前」と思っていると見えて来ない。
「親孝行、したい時に親はなし」
という言葉がありますが、失って初めて分かるものが結構多い様な気がします。

だからこの曲をやるときは、自分の周りを見つめる事にしています。
いま周りにあって、当たり前だと思っているものはないか。
そしてそれを失った時にどう感じるのか。
そうすると、結構いっぱいある、ということに気付きます。
そして、それらに感謝し、
そして、それらを大事にしよう、
と思います。

私もそれなりに人生を歩んで来たので、今まで失ってしまったものは、
本当にたくさんあります。
そして失ったものはもう取り返すことはできない。
そして、そんなことは分かっている筈なのに、それを繰り返す。
それが人間の弱さだと思います。

だからせめて、自分の一番身近な存在である、「音楽」を通して、
それを再認識できるチャンスがある、ということは幸せな事だ、
と思いつつ、この曲を指揮しています。
この曲の頭は、今回の演奏会では五人のソリ(ソロの複数形)で始まります。
そこでは私は指揮しないのですが、
だからこそ、いつも何か「戒められている」という気がしています。
だからそのソリの間は、自分にとって「大切なもの」を思いだすようにしています。

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O be joyful in the Lord.

2012年09月27日 | Weblog

お祈りである曲を演奏する、ということはもちろん神への感謝、
引いては、この世に存在する、ということへの感謝である、
と私は思うのですが、
今練習しているジョン ラターの曲の多くは、
それを「喜び」という表現で表わしているとおもいます。
 
「この世に存在する喜び」
「喜」という漢字の成り立ちは、正に神への感謝から始まったのです。
まず、「喜」の上の部分は、打楽器を現しているそうです。
ちなみに太鼓の鼓の左の部分もそうらしいです。
そして下の部分が口、
つまり太鼓を打ち鳴らしながら神への祈りを唱える、
という行動が、「喜」という漢字になったわけです。
これは非常に興味深い事で、洋の東西を問わず、
「喜び」は神への感謝の祈りなのです。
 
O be joyful un the Lord という曲の中には、題名にもある、
"joyful"という文字と、"gladness"という文字が入っています。
和英辞書で調べると、
joy; delight; rapture; pleasure; gratification; rejoicing; congratulations; felicitations 
など、他にも「喜び」を現す単語はたくさんあります。
日本語、というか、漢字でも
歓び、慶び、悦び、など。
 
私達は生きているからこそ、色々な事を体験したり、
またその体験から、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、泣いたり、
という感情が生まれます。
生きている人間の特権、と言ってもいいかもしれません。
 
でも現代の人間はその事を少し忘れているのではないか、
という気になる事があります。
まあ、昔の人もそうだったかもしれませんが、
毎日を迎える事が当たり前、食べられることが当たり前、生きている事が当たり前、
もちろんそのための努力は日々しているでしょうが、
感謝の気持ちというか、「喜び」という気持ちをもって毎日を迎えているでしょうか。
実は当たり前だ、と思っている事がとてつもない謎だったりもするのです。
 
だからこの歌を歌うときは、大いなる「喜び」、またその「奇跡」を表現できればいいな、
と思います。
 
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This is the day which the Lord hath made.

2012年09月26日 | Weblog
昨日のブログの記事を受けて、幾つかご意見を頂きましたので、
今日も引き続き、「生き死に」について語ってみたいと思います。
キリスト教における「死」は、「無」ではなく、最後の審判の時に全てのものが「復活」する、
とされています。
つまり、キリストの死をもって、人々の死は免れた、と。
そして最後の審判の時に全員が復活して、善行を行った者は生命の復活をし、
悪行を行った者は裁きを受けるために復活する、と。
もちろん、この部分を否定するつもりは全くありませんし、
コメントのシメオン爺さんのご意見のように、「復活」に関心を持たれて
キリスト教徒になられた方も多い事だと思います。
 
ただ、私はこのくだりによって、自分の中で「死」について考えてみようと思ったのです。
これは全ての宗教に関連することでしょうし、
そもそも宗教の出発点でもあるからだと思うのです。
どうしてさっきまで生きていた人が突然死ぬのか、
誰かどうにかできないのか、
誰しも一度は考えた事がある事だと思います。
だからこそ、「復活」という概念も必要なのだと思います。
私は私なりに見出した答えの一つは「死」は「無」である。
ということ。
だから死を恐れる必要がない、という考えです。
「復活する」という事があるのであれば、やはり死を恐れる必要はありません。
そして最後の審判で審判を下されるのであれば、善行を行って生きよう、
と思えるのも間違いはありません。
「死をもって、死を滅ぼした」その先がある。
ということが、一つの答えでしょうか。
 
さて、今練習している中で別の曲があります。
This is the day which the Lord hath made.
今日こそ神が作られた日。
 
今日、あるいは、今、という時間は神が作られた。
だから今日を(あるいは今を)喜び、祝おう。
 
この詩編は私は好きです。
人間は過去を見ながら生きることはできません。
未来に向かってしか。
しかし、それを意識する事は少ないでしょう。
 
でもそれは感謝すべき事でしょうし、感謝しなければなりません。
誰に?
だから、主にです。
私の場合は、両親も入ります。
周りの、私を取り巻く全ての人もです。
人は生きているのではなく、「生かされている」
いや、「生きさせて頂いている」
のです。
 
という気持ちを込めながら、この曲が演奏できたらいいな、
といつも思っています。
 
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死をもって、死を滅ぼす。

2012年09月25日 | Weblog
昨日、合唱の練習をしていて、セルゲイ ラフマニノフの「晩祷」の10番を歌った時に、
最後の歌詞、「キリストは死をもって死を滅ぼした」
という部分を私は、「考えれば考える程、理解が不能」
と言いました。
昨日に引き続きになりますが、私は結構、「生死」について考えています。
この10番の前の9番は、イエス キリストが復活してくる場面を描いています。
とても劇的で、
香油をもった女性が、キリストの遺骸がない事に驚き取り乱したところに、
天使が来て、救い主が復活したので、驚く必要はない
と言います。
 
そしてこの10番になるわけですが、大雑把に訳すと、
「救世主の復活を見て、ただ一人罪なき者イエスを拝み奉ろう
 何故ならただ一人の我らの神であるから
 全世界の信者よ、聖なる救世主の復活を拝もう
 何故なら十字架によって全世界に歓喜が齎されたのだから
 主は磔刑を耐える事によって、死をもって死を滅ぼした」
 
という内容のものです。
で、この死をもって死を滅ぼす、
ということがどういうことなのか、分かりません。
単純に復活したのだから、死から逃れた、
と言えばいいのかもしれませんが、
死、というものは「ない」ものだ、と私は考えています。
生、は「ある」もの。
死は「ない」ものなのであるから、恐れるに足らず。
無に帰す、ということです。
「無」という概念も難しく、「無」と言った時点で実は「有」に転じています。
本来は「無」を現す言葉は存在しないのです。
なぜなら、「無」だから。
だから「無神論」と言った時点で、「神」の存在を認めている事になります。
話は逸れましたが、だから「無」をもって「無」を制す、
ということは、0×0=0ということ?
「有」を「無」にする事はできます。
どんな大きな数字も0をかけた途端、「無」になります。
ということは、「無」から「有」を生み出すのが、つまり「神」である、
ということか?
ということです。
 
宇宙の存在する前は「無」だった、といいます。
「無」という「謎」が解けない限り、その状態を説明するのは無理でしょうが、
その謎を解くためには137億年前に遡らなければなりません。
私の理解を遥かに超えています・・・ 
 
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細胞シート

2012年09月24日 | Weblog
昨日、混声合唱団ショコラの「むしの音」コンサートにお越し頂いたみなさま、
ご来場誠にありがとうございました。
昨日は本当にここ数ヶ月ない、一日雨でご来場も大変だったのではないでしょうか。
おかげさまでショコラはショコラらしく、
新都心は新都心らしい、良い演奏ができたと思います。
私のカホンは、何年も前に買っていたのですが、
実際には別の人が叩いたりしていました。
私自身はよく考えたら前日22日に初めて叩いて、
昨日の本番で初本番、という後から考えたらビックリものでした!
 
さて、今朝のNHKあさイチで、「細胞シート」に関してやっていました。
心臓病や、歯周病、膝の関節などの再生に日本では使われていて、
海外では角膜の再生などに使われているそうです。
自分の細胞を培養し、細胞シートを作り、それを患部に貼ると、
そこが再生し完治する、というもので、
ビックリしたのは、細胞シートに血管を通す事によって、
臓器も作り出す事ができる、というところまで今来ているそうです。
 
人間の病気が治る、とか人間が長生きする、
ということは喜ばしい事だ、とは思います。
私も時々健康を害した時に、本当に健康の大事さを実感します。
しかし、薬を投与したり、自然治癒で治るものだったら良いですが、
手術が必要、という病気になってくると手術を受けた事のない私としては、
結構大変だし、嫌だなぁ・・・と思ったりもします。
でもシートを貼るだけで治るんだったら大歓迎ですね。
 
しかし懸念もあります。
臓器まで作れる、となった時にそれを突き詰めていけば、
結局老化をしない、ということになっていくんでしょうね。
ということは「死なない」という選択肢も遠い将来にはできてしまうんじゃないか、
ということに当然行き着くでしょうね。
「死なない」ということになったら、どうなるのか、
色々想像するだけで、空恐ろしい感じがします。
人は「死ぬ」という前提があるから、逆に前向きに生きられるのではないかと思うのです。
「死」のみは全員に与えられた平等のものです。
そしていつかは死ぬ、と頭のどこか隅っこの方で考えているからこそ、
その時まで一生懸命生きよう、と思えるんだ!
と昨日の打ち上げで偉そうに話してしまいましたが、
それが違ってくると、どうなるのか、想像もつきません。
 
そうでなくても日本は「死」について避けているような感覚が私にはあります。
例えば、テレビでは一切「死体」を映しません。
まあ、遺族の事を考えて、とかもあるのでしょうけれど、
「死」というものが実はいつも隣にある、という事をもう少し考えても良い、
考える環境があっても良い、と私は思います。
自虐的になって自殺する人や、酷い人になると、
死刑にして欲しかったから事件を起こした、
という人がいますが、死んだら全て終わりなのです。
もちろん、苦しみや悲しみからは解放されるかもしれませんが、
その解放された事も感じられないのです、死んでしまえば。
 
まあ本当に老化しなくなったらそれはそれで違う問題が色々出てくるでしょうね。 
 
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有賀画伯、個展終了。

2012年09月23日 | Weblog
有賀さんの個展が終わりました。
有賀さんの画について、今回は本人とも良く話をしましたし、
第三者とも色々話をしました。
私は失礼ながら、「有賀さんの画を買って、リビングに飾る人は少ないでしょうね」
と言ったのですが、ご本人も認めて下さったので、ここに書いておきます(笑)
有賀さんの画には、眺めて心癒やされる、と言う事が正直少ないと思います。
むしろ心を乱される。
心を乱して、「なんだこれは!」と思って画の中に没頭していく。
パッと見て、「ああ、綺麗だな・・・」とは思いにくい画なのです。
私の敬愛する岡本太郎画伯もそういう傾向です。
ピカソもそうだと思います。
ピカソに限らずキュビスムはそうかも知れませんが、
有賀さんの画はキュビスムとは違います。
誰とも似ていない、独特な画です。
そして、気を衒ったり、人に対して媚びる事は全くありません。
だから企画展などで有賀さんの画が数点出ている展覧会などにいくと、
私は真っ先に、「あれが有賀さんの画」と当てる事が出来ます。
ご本人は「凄いですね」と言われますが、それくらい個性が強烈な画なのです。
今回の個展である人と意見を交わしたのですが、
その方は最初は「展覧会の画を通して、有賀さんに会いにいく」
と仰っていました。
私は、それに対し、それは非常に正しい意見だが、私もそうだけれど、
本当は「自分」に会いに行っているんだ、
と答えました。
例えば、ピカソだけの展覧会や、フェルメールだけの展覧会にいくと、
それは本人たちに会いにいく、という感覚は強いでしょう。
岡本太郎もそうです。
青山の岡本太郎記念館に行く、ということは、
岡本太郎の作品を観に行く、
ということより、岡本太郎の息づかいを感じにいく、
という感覚です。
しかし有賀さんの作品は、「自分に会いにいく」
私が今回の作品の中で最も気に入ったのは、
「振り返れば 生まれた日」
という作品でしたが、そこに私は宇宙の誕生、
つまり「ビッグバン」を感じました。
有賀さんの一つの特徴は、作品名が先にあって、
あるいはテーマが先にあって描き始めるのではなく、
描き上がってから題名をつける、
という点にありますが、
だからこそこの作品は、ご本人の中に「ビッグバン」があったのかな、
と思いました。
人は当たり前に思っているかもしれませんが、
私は宇宙の誕生、というのは物凄く神秘的で、物凄く謎で、
考えれば考える程、むしろ恐ろしくなってきます。
宇宙の誕生が謎、ということは、「自分の誕生も謎」
なのです。
なぜ私はこの宇宙に生きているのか、生かされているのか・・・
これを考え始めると止める事が出来ません。
私はこの画を通して、さらにその謎に迫る、
そんな気持ちになります。
だからリビングに飾っておいて癒やしになる筈がありません(笑)
この画に限らず、有賀さんの他の作品も多かれ少なかれ、観た人に問うてくる事があります。
「あなたはどんな生き方をしていますか? その生き方は満足ですか?」
と。
 
 
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良く話題に上る話ですが・・

2012年09月22日 | Weblog
昨日の夜も料理をしました。
まず、トマトソースを作ってからそれを使ってラタトゥイユ。
トマトソースは、タマネギ、ニンジン、セロリをオリーブオイルで炒めてから、
トマトの水煮と塩を入れ、ニンジンにクシが通るまで煮込む。
それをムーランで濾して出来上がりです。
 
ラタトゥイユは、ズッキーニとナスをオリーブオイルで炒め、タマネギ、パプリカと足していき、
ある程度火が通ったところでトマトソースとバーブ数種類をいれ、
パプリカの食感を残したところで火を止め、余熱で煮ていきます。
 
次は舌平目のムニエル、キノコソース。
舌平目に塩をふり、一時間くらいしたところで出て来た水気を拭き取る。
臭みが取れます。
コショウをふり、小麦粉をまぶしたらオリーブオイルで表面がカリッとするまで焼く。
焼けたら取り出し、同じフライパンで白ワインを加えたところにきのこ数種類、
コンソメを加えてアルコールが飛んだら、生クリーム、牛乳、バターで仕上げます。
付け合わせはマッシュポテト。
ジャガイモを柔らかくなるまで煮て、マッシャーでつぶしたら牛乳を加え、
水分を飛ばします。
塩、コショウで味を整え、最後にパルメザンチーズをサクッと混ぜ合わせて完成。
 
続いて牛肉の赤身ステーキ、赤ワインソース。
牛肉に下味をつけたら、熱したフライパンで焼く。
同時にベーコンも焼きます。
焼けたら取り出し、同じフライパンに赤ワインを投入、
アルコールが飛んだら、コンソメ、バターで仕上げ。
付け合わせはクレソン。
同時に提供するために、二つのフライパンで同時に調理をしました。
 
長々とレシピを書いたのは、今朝ある事に感動したからです。
夕べの舌平目のムニエルに使ったキノコソースが若干残ったので、
牛乳を加え、そしてこれまた残ったマッシュポテトを加えてスープにしました。
これが絶品でした!
 
そこで思った事は、音楽と一緒だな、と思ったのです。
ソースは舌平目を焼いた後のフライパンで作ったので、
魚のエキスも含まれています。
そしてキノコもイタリアで買って来た乾燥キノコを戻したものに、
しめじ茸を加えています。
それらのエキスが混ざり合い、とても複雑な味わいでした。
そして今朝、それにマッシュポテトを加えた事で、更に複雑な味に。
コクもあり、パンにピッタリのスープになりました。
 
で、何が音楽と一緒かと言うと、音楽の中の要素がたくさんあればあるほど、
複雑で、コクのある、美味しい料理のような、音楽になるのだな、と。
先ず、材料を全てに於いていいものを選ばないと、折角他の材料が良くても台無しになってしまいます。
それからその調理段階で何かちょっと失敗、例えばちょっと焦がしてしまったとか、
火の通りが浅かったとか、ということで料理の仕上がり具合は大きく違ってきます。
そして料理を作っているときの気持ちも大事。
私は偉そうに「大事な事は食材との対話」と言っていますが、
火を止めるタイミングや、塩加減は全てフィーリングでやっています。
それを食材が教えてくれる、と信じているからです。
提供して美味しく食べてもらう事を想像しながら作る事も大事。
で、結果が今朝のスープだったのだな、と思いました。
 
料理は他にも、全体のバランスや、出すタイミングや、合わせるお酒や、
その人の好き嫌いや、食事を摂る部屋の雰囲気や、テーブルコーディネートなど、
全てのコーディネートが必要です。
 
それは演奏会をする、という事も同じ。
といつも思っています。
ひとつひとつの過程に手を抜いてはいけない。
 
もっともっと突き詰めていきたいと思います。 
 
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あなたは漢字、書けますか?

2012年09月21日 | Weblog
今朝の読売新聞の一面に、こんな記事が出ていました。
「漢字書く力 衰えた」66%
メール普及10年で急増
記事によると、10年前より25.2ポイントも増えたらしいです。
同じく、「手で書くのが面倒」と感じる人は42.0%で同じく10.1ポイント増えたそうです。
確かに今では何かの申し込み用紙などでしかペンを使いませんし、
以前は革張りのA5の手帳を持ち歩いていたのですが、カレンダーは2009年より更新されていません。
そして、ペンを持ち歩く事がかなり減りましたね。
代わりにメモはiPhoneか、打ち合わせの時にはMacBook Air。
あと気になったのは、メールの普及に伴い、
「直接人と会って話す事」を面倒くさいと思う人も18.6%、
10年前より7.3ポイント増えた、らしいです。
私も正直言うと、昔から電話はあまり好きではありません。
こちらの都合とか関係なくかかってくる、ということもそうですが、
やはり私は相手の表情が見えない、というのは苦手です。
 
それはともかく私も漢字が書けないというのは非常に自覚していて、
合唱の指導中に板書する時にちょっと緊張したりしています。
封筒の宛名書きは筆ペンで書く事が多いですが、ちょっとした漢字が書けなくて、
パソコンやiPhoneの画面を見ながら書く事も珍しくないことです・・・
 
一番困るのは、合唱の講評を頼まれた時、審査員になったときです。
曲が終わるとさっさと書かないと、次の曲を聴きながら書く、
ということに、結局はなっているのですが、下手をすると次の曲を演奏している間に書いているはずが、
そのまた次の曲が始まったりしてしまう事もあります。これは慌てます。
だから、奇麗、という漢字が書けなくて、キレイでした、とか仮名を使ってしまう・・・
 
何年か前に書道の道具も一式揃えたのですが、今では年賀状の季節しか使われていません・・・
 
ということで、この記事を読んだ事をきっかけに、書道もたまにはやってみよう、
と思ってしまいました。
ウチには何にでも興味津々のネコが二匹も居るので、集中して書くのは大変かもしれませんが、
より集中力を高めるのには丁度いいでしょう。
 
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