FBなどで父が急死し、小豆島へ行くことを掲載しましたら、
たくさんの方からお悔やみのお便りをいただきました。
お気遣い、本当にありがとうございました。
昨晩戻ってきましたので状況などをここに記載しておこうと思います。
母が2013年の3月に、やはり急に亡くなり、そこから父は一人で生活をしていました。
私の実家は小豆島の坂手というところの山奥にあります。
お寺がちょっと登った所にありますが、今では住職もいませんので、本当に孤立しています。
その山奥でまだ当時は酪農を続けていまして、母の葬儀、法事などに関しても私たち子供に任せっきりでした。
母が亡くなったということもあり、乳牛を二頭に減らし一人で頑張ってきましたが、
そのうちの一頭が死んでしまった時にさすがに気弱になったのか、私のところに電話をしてきました。
母が亡くなる前も自分から電話するということはほとんど無く、
亡くなってからも父から電話があったのは、
私が送った荷物が届いた時と、この時だけでした。
そして一緒に住むことを初めて提案したのですが、二日後に電話があり、
やはり都会に行って孫の世話だけするのも辛い、
ということで酪農業をやめ、野菜を作ることにしたようです。
それからは弟や妹が休みを利用して帰郷し、父の世話をしていました。
昨年の11月には弟の勧めで介護認定を受けに行ったのですが、
自分で車を運転して来たりなどの理由で認可が下りないくらい、一応健康ではありました。
ただ、もう20年近く足を患って下り、左足が大きく湾曲して歩くのも立ち座りもきつそうだったのですが、
弟の外科手術の勧めにも応じず何とか杖をついて生活をしていました。
そして昨年の12月末に、私は父を旅行に誘いました。
酪農をやっていた時は片時も家を離れたがらなかったのですが、牛もいなくなり野菜を作る生活なら、1泊くらい大丈夫だろう、
と観音寺のかんぽの宿に泊まり、次の日は私も行ったことのないこんぴらさんへ連れて行きました。
当然階段は困難なので、こんぴらさん名物の駕籠をお願いしました。
食も堪能して小豆島へ帰り、弟と合流して正月はおせちを、かまぼこと餅以外は手作りで用意し、
それなりに豪華に過ごしました。
父としては何十年かぶりの初詣にも出かけました。
これが私は父と過ごした最後の時間になっってしまったわけですが、
今から考えるとこの時間が過ごせて本当に良かったと思います。
それから神戸に住んでいる妹夫妻は何度か小豆島へ帰り、
埼玉へ単身赴任のために引っ越して来た弟はゴールデンウィークに帰り、
最後となってしまった時間を過ごしました。
家を購入したので私も何度か一緒に暮らすことを提案したのですが固辞され、
なら仕送りを、と言ってもそれも固辞され、
父としてはそうなると自分で頑張っていこう、という気力が萎えると思ったのでしょう。
当然といえば当然のことです。
この夏はお盆休みもあり本当は小豆島へ帰っても良かったのですが、
お盆シーズンは旅費も跳ね上がり、交通の手配も大変だから、
という理由でまた年末に旅行に誘おうか、と相談していたところでした。
23日水曜日の午前11時頃、弟から電話がありました。
普段ならLINEでのやり取りが主で電話で話すことは少ないので、
着信があった時に「これは来たな」と思いました。
「お父さんが亡くなりました」
という言葉を聞いてもちろんショックはありましたが、
一連の流れから、来るものが来た、という諦めにも似た感覚が走りました。
新聞が溜まっている、ということで家を見に行ってくださった方からの通報で発覚しました。
家を覗きに行っても返事もなく、鍵もかかっておらず、
その辺を探しても姿も見えないので二階の寝室に行ってみたところ、
ベッドの上で冷たくなっていた、
ということでした。
一人暮らしの死亡、ということで警察を呼んで対処してもらったところ、
警察から妹に電話があった、ということでした。
苦しんだ様子もなく、家の中の物もそのままで事件性もない、
ということで遺体はその日の夜には警察署に安置され、
私たち兄弟はそれぞれ帰路につきました。
私たち家族は昼過ぎに小豆島に到着、
そのまま実家に安置してある父に会いに帰りました。
結局死因は詳しくはわかりませんが、今にも動きそうなくらいとても安らかな死顔でした。
それは私たちには救いでした。
死後何日かは経っていた遺体の状態や、
父の遺言により、葬儀は行わずにその日の夕方に火葬をする、
ということに決まり、それまでの時間を兄弟と過ごしました。
火葬され骨となって出て来た父の左足は本当に曲がってしまっていました。
私としてはこの苦痛から解き放たれて良かったのではないか、と思いました。
83年の生涯でした。
年寄りの一人暮らしだったということや、山の上でも暑い、ということでその日は外に泊まろう、
ということで、特に妹夫妻は小豆島で実家以外の初めての外泊になりました。
次の金曜日は役場やら、農協やら、郵便局やら、
新聞、電気、NTT、NHK、車の廃車の手配などなど事務手続きの嵐でした。
亡くなった人の口座は凍結され、遺族の全員の印鑑証明が要るなど面倒なのです。
それらは弟と妹が主に当たってくれて、
私は近所へ挨拶回り。
その方達には私も小さい時から本当にお世話になりましたが、
ひょっとしたらもう二度とお会いすることがないかもしれない、
と思うと胸に詰まるものがありました。
両親の死後、最も懸念していた、
家はどうするか、ということに対して早速朗報が来ました。
今小豆島が前面に押し出しているものの一つにオリーブがあるのですが、
ここ数年、オリーブの搾りかすや種子などを食べさせたオリーブ牛、というのが話題になっています。
それを今度は豚に、という話があるそうなのですが、その飼育地に苦慮しているそうなのです。
それで生前からその話が、父と交わされていたそうですがこんなことになってしまった、
ということで私たちが引き継ぐことになりました。
この話がうまく纏まれば私たちも父が遺してくれた財産を無駄にしないで済みます。
その晩も小豆島のホテルへ泊まり、
皆で神戸行きのフェリーに乗り、
それぞれ神戸で別れを告げました。
父はその神戸生まれ、母も兵庫県生まれ、
ということで、幼い頃は休みとなれば宝塚の叔母のところに遊びに来ていました。
ですので私としてなん年かぶりに訪れた神戸という土地も共に郷愁を感じるものがありました。
父の死にあたり、
たくさんのお悔やみを頂いたことはやはり少なからず傷ついている私にとりまして、
本当に心の支えになっています。
父も喜んでいるだろうと思います。
最後になりましたが、これを読んでくださった皆々様の、
ご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。