民主主義を「直感」する。変わった言葉づかいだ。
普通、哲学者は、論理的に思考しようとはするが、直感しようとは思わない。いや、直感というのは、ふつうは、まず、思考する前に、感じることだから、あえて、そうしようと思うというような代物ではない。
「直感」。
「直感」とは何か?
著者は、まえがきにこんなことを書いている。
「そうした諸要素を頭の中に集積した末に、やっと我々は、民主主義がいかなるものかを直感することができる。」
ああだ、こうだ、とさまざまな情報が頭の中に詰め込まれた揚句にしか、直感はやってこないのだと。
ふむ。
これは、一般にいう「直感」とは別物かもしれない。ふつうに「直感的に、ぼくはこう思った」などというときの、「直感」とは、何か違うものなのかもしれない。
そうか、「ピンと来る」という言葉がある。
何かの謎を探っているときに、どこかの段階で「ピンと来る」ということがある。まったく入り口で何の情報もないときに「ピンと来る」ということはあまりない。
一定の情報が集まって、それが頭に入って、まだ未整理だったり、雑然とまとまりなく投げ出されている状況で、何かを目撃するとか、何かの言葉を見るとか、だれかの話を聞くとかして、そこで、「ピンと来る」。あらゆる情報がまとまって、ひとつの意味を形づくる、みたいな。謎がするすると溶けて、具体的な像が浮かび上がる、とか。
なるほど、ここでいう直感とは、そういうことなのだろう。
ちょっと横道が長くなった。
さて、冒頭はこうである。
「素っ気なく定義するならば、民主主義とは民衆が権力を作る政治体制のことである。」
「民主主義について考えを深めていくにあたり、この定義だけでは不十分であることは言うまでもない。我々の知るこの社会の中でそのような政治体制が運営された場合には、どのようなことが起こり、どのようなことが必要となり、どのような欠陥が特に目立ち、どのような点が蔑ろにされるのか。そうした諸要素を頭の中に集積した末に、やっと我々は、民主主義がいかなるものかを直感することができる。」(以上、まえがき)
そうだな。
まさしく、なにかが「ピンと来る」、というときの直感だ。
文脈が読めるからこそ、起きている事態の意味が分かるようになる。見通せるようになる。
「いまメディアに求められるもの」という章で、こんなことを言っている。
「言論の自由は民主主義の基礎である。だから言論の自由が妨げられることがあってはならない」(35ページ)
しかし、最近、どこか「言論の自由」が妨げられつつあると感じざるを得ないような事件が起きている。たとえば、さいたま市で、あるいは、国分寺市で。
「上からの抑圧に対して人は敏感である。あからさまな弾圧は反発を生む」(35ページ)
そんななかで、蔓延しているのは、
「関係者・担当者の心に抱かれた「この話題に触れるとどこからか文句を言われるのではないか」という過度の忖度」(36ページ)
なのだ、という。
「フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、権力とは〈上から〉作用する抑圧ではなく、人間同士の関係として〈下から〉発生し、その関係を支配する力なのだと述べた。私はいま、フーコーが言っていたことがそっくりそのままあてはまる事件が日本で頻発していることに非常に驚いている。社会の隅々で、「この話題には触れない方がよい」という雰囲気が自発的に作り上げられつつあるからだ。」(36ページ いまメディアに求められるもの―忖度との戦い)
コミュニティ・デザイナーの肩書を持つ山崎亮氏(東北芸術工科大学教授)との対話「民主主義にはバグがある―小さな参加の革命」も収められている。
「驚いたのは計画を地元住民に説明する「説明会」なんです。…(中略)…そして、その後の質問コーナーが、本当にひどい。「質問への答えに対する再質問は禁止します」というルールを都の職員が勝手に設定するんです。…要するに「対話する気はありません」ということなんですね。」(國分 131ページ)
「まさに國分さんが『暇と退屈の倫理学』で引用しているモリスの「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られなければならない。」という言葉」(山崎 151ページ)
「コミュニティデザインの立場から…考えると、自分たちのまちのことをだれかにお任せにするんじゃなくて、自分たちで動いてみようぜということになります。」(山崎 152ページ)
「ジョン・ラスキンは、『この最後の者にも』という本の最後のほうに、「Lifeこそが財産である」と書いています。…そしてそのLifeを高めていくか、貶めていくかで、あなたたち自身の人生の価値が決まるだけではなく、国の価値までもそれで決まると言うんです。同時に「最も裕福な国とは、最も豊かな人が多かった国である」とも言っています。
/じゃあ、最も豊かな人生を歩んだ人とはどういう人か。」(154ページ)
もちろん、ここは、金持ちで、何不自由ない暮らし向きのひと、ということではない。
「簡単に言えば、「他の人に対していいことをたくさんした人生が、豊かな人生なんだ」ということですね。」(155ページ)
山崎氏は、最近の若者は、あくせく金を稼ぐということでない幸福の形を知っているのではないか、そういう若者たちがどんな社会を作っていくのか楽しみだ、というようなことを語る。
コミュニティ・デザイナーとはなにか、ということについては、ここでは、省略する。
実は、山崎氏、この3月21日〈火〉に気仙沼市においでになり、市の新しい総合計画策定スタートアップのためのイベントの講師を務められるという。だれの人選なのかはつまびらかにしないが、楽しみなことであり、一定の期待感はある、と言える。夕方6時からということで、ぜひ、参加してみたいと思っているところだ。
吉野川河口堰建設の是非を問う市民投票を実現させた村上稔氏との対談「変革の可能性としての市民政治―吉野川と小平の住民投票運動を振り返って」で、國分氏は以下のように述べる。
「実際の政策決定は、選挙で決まった議員ではなく、行政官僚たちが行っている。議会はそれにお墨つきを与えているに過ぎない。だから選挙で議会に関わるだけでなく、実際の決定機関である行政の政策決定プロセスに、住民投票などさまざまなかたちで住民が関われるようにならねばならない。これが僕がずっと訴えていたことでした。」(186ページ)
「近代政治哲学の根源にある本当に単純な欠陥です。実際には行政が決めているのに、主権が立法権として定義されているものだから、主権者が行政に関われない。」(190ページ)
主権が立法権であるということは、まさしくその通りであり、否定されるべきことではない。正しい理念である。しかし、実際の権力は、行政が握っている、ということは、ごく普通のひとの感覚として、まさにそういうふうに理解している、ということになるのではないだろうか。
行政学では、昔の絶対王権から出発して、まず、司法権が分離して、次に立法権が分離し、それ以外の残余が行政権として残された、と説明する。
三権分立の理念からすると、国家権力として、三権は、33パーセントづつ占めているかのように思われるかもしれないが、実体としては、司法が5%、立法が20%、残余は75%、行政が少なくとも4分の3は占める、というくらいが関の山ではないか。
市町村では、1対9くらいが実感、とすら言えるかもしれない。
行政権は、司法と立法を除いた残余であることに間違いはないのだが、むしろ、権力の本体がほとんど手つかずで残された、と言って間違いではないはずだ。
この点、市民の感覚はまさに正しい、と言うべきである。権力は、いまだに市民の手に届かないところに居座っているのである。
民主主義は、完成したものではなく、つねに理念として追い求め続けなくてはならないものだという。それは、いまだ、市民の手に届かないところにあるからなのだ。そして、市民の手に、百パーセントおさめられるということも決してないものだ。それは一方で、あらゆる市民の手に百パーセント収められるなどということは、原理的に不可能なことであるからだ。
民主主義は、追い求めなくてはならないし、詳細は省くが分権改革も押し進めていかなくてはならない。
永遠の課題である。だから何もしなくていい、という意味の「永遠」ではない。つねに何か動き続ける過程としての「永遠」である。
もういちど、山崎氏の発言を引いておく。
「コミュニティデザインの立場から…考えると、自分たちのまちのことをだれかにお任せにするんじゃなくて、自分たちで動いてみようぜということになります。」(山崎 152ページ)
ちなみに、私自身、この3月いっぱいは、行政のはしくれに身を連ねるものである。さまざまな局面で、行政というもののありようを実感する機会はあったわけである。その具体については、今後、理念を語ることと合わせて、語って行きたいと考えている。
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