ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

國分功一郎「ドゥールーズの哲学原理」岩波書店

2013-08-29 23:25:51 | エッセイ
 ドゥールーズである。
 私が大学生だった頃、最新気鋭の哲学者であった。
 今でも、このひとを超える新しい哲学者はいない、と思う。
 このひとと、フェリックス・ガタリ(精神分析学者)との共著「アンチ・オイディプス」は、歯が立たなかった。それで、私は哲学を断念した。「哲学とは何か」(河出書房新社)だけは読みとおすことができた。何が書いてあったかは忘れたが。それで、辛うじて哲学への興味だけは持続できた、と言える。
 「アンチ・オイディプス」を読めなかった、という以外にも断念する理由はたくさんあったが、主要なひとつであったことに間違いはない。
 その後の私の人生は、ドゥールーズが読めなくても生きていける、ということを確認する作業であったと言って過言ではない。
 しかし、こうしてこの本を読んでしまうと、やはり、読んでおいたほうがより良い、とは思わされてしまう、ような気もしてくる。
 さて、この本には、ミシェル・フーコーが登場し、ジャック・ラカンが登場する。フーコーについての本、ラカンについての本は、邦人のものをそれなりに読んでいるが、考えてみるとドゥールーズについての本は、ほとんど読んだことがないかもしれない。蓮實重彦のあの「フーコー・ドゥールーズ・デリダ」は読んだ。どんな内容だったかは忘れた。
 フーコーと言えば「規律訓練型の権力」とか、ラカンと言えば「他者は存在しない」とか。
 「かくして開かれることになるのは、フロイト=ラカン的な精神分析理論にマルクス的な政治経済学を接合した全く新しい理論の領域であり、そこに現れるのは、欲望から社会を考察する哲学である。この哲学の根底にある問いをドゥールーズ=ガタリは次のように定式化していた。『なぜ人々は、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、自ら進んで従属化するために戦うのか』」(第Ⅴ章 欲望と権力 175ページ)
 この本を読みとおしたので、ドゥールーズが少し分かったような気がしてきた。しかし、ドゥールーズを分かってしまうということは、私にとってこの30年間を全否定してしまうことのような気もする。
 十代の頃、哲学を知ることで、私はようやく生き延びることができた。(その仔細は、そのうちに書くこともあるかもしれない。)しかし、大学を終えて、気仙沼に戻ってきた私は、哲学を知らなくても人間は生きていける、ということを学び続けてきたのだ。でも、この本を読んで、はあ、なるほどと思わされた気がするし、もう少し、ドゥールーズを読んでみようかという気にもさせられる。どちらにしても、ドゥールーズを読まなくても生き続けていくことは可能なのだが。
 なんにしろ、この本を書いた國分功一郎氏、1974年生まれだから、私より18歳下、39歳か、優秀な哲学者であることは間違いがない。優秀だということは、面白く分かりやすい本が書けるということ。「暇と退屈の倫理学」(朝日出版社)も面白く読んだし、中沢新一との対談も良かった。
 最近は、小平市の市民運動にもかかわったらしい。
 哲学を標榜する若い学者の中では、このひとと、萱野稔人か。
 さて、地方自治と、フーコーやら、ドゥールーズを結び付けることというのは、たぶん、誰もやっていないと思うが、これ、今後の人生の課題にしようか。

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