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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

大澤真幸 自由という牢獄 責任・公共性・資本主義 岩波書店

2017-07-19 21:34:54 | エッセイ

 これは、私にとって、真正面の問題領域といっていい。まともに書こうとすると、大変なエネルギーを必要とすることになる。アマチュア、ディレッタントには手に余る、ということだ。

 先日、國分功一郎氏の「中動態の世界」を読んでいたら、大澤真幸のこの本への言及があった、と思って、確認してみたが、なかなか見つからない。いま、補注(第6章32)に、大澤の別の本の言及を見つけたが、簡単にではあるが、もう少し、きちんと先行の文献として位置付けてあったような気がする。いずれにしろ、これは、共通の問題意識の中での論考である。

 東浩紀、萱野稔人、千葉雅也、國分功一郎、そして、大澤真幸。ここいらが、現時点で、最もアクティブな思想家であると言って間違いないだろう。思想家であり、哲学者である。

 自由だとか、国家だとか、民主主義だとか、いまも、まさに問い続けるべき問題である。

 そう簡単に解答ができるような問題ではない。

 「はじめに」から読んでみる。

 

「二〇世紀の全経験が教えたこと、冷戦が始まり、そして冷戦のままに――一度も本格的な熱戦を経ることなしに――終結したという事実が教えること、それは、社会は構想するにあたって〈自由〉を超える理念を掲げるべきではないという点に尽きるだろう。したがって、二一世紀の社会思想上の最大の主題は、(自由な社会)はいかにして可能か、にある。

 だが、――と人は言うだろう――、われわれはすでに自由な社会に生きているのではないか。若干の抑圧や限界はあるが、少なくとも「先進国」とされる豊かな社会においては、すでにおおむね、主要な自由は獲得されているのではないか。」(ⅴ はじめに)

 

「しかし、それならば、この閉塞感はいったい何なのか。」(ⅴ)

 

 私たちは自由なのか、自由でないのか。

 自由だと言えば自由である。北朝鮮やら中国やらロシアやら、あるいは、イラクやシリアの現実、そういう国々に比べたとき自由であるといえば、おおかたは同意してもらえるだろう。

 でも、日常生活を送っているうえで、就労後の時間帯や休日には、解放されて自由に気楽に過ごせているとしても、とくに就労の時間中、あるいは、学生の就職活動のさなか、そんなに自由であるとは思えていないひとも多いだろう。

 自由になれない、常に何かに支配され指図されているような感覚。競争の強制、過重な労働環境。

 その状況は、さらに進行しているのだという。

「加筆修正の作業をしながら、私自身がいささか驚いた。もとの論文は一〇年以上前に書かれたものなので、その内容が古びていないかと恐れていた。しかし、読みかえしながら直していると、そこに書かれていることが、当時よりも現在においてなおいっそう妥当していることに気づいたのだ。当時――理論というものの本性上――純粋化したり、誇張したりして論じたことが、現在では、そのまま現実になっている。」(ⅶ)

 

 「自由」ということばと「牢獄」ということばは、ふつうには正反対の意味であって、イコールで繋がれるべきことばではない。

 ふつうには、牢獄は不自由な場所である。牢獄を出て、一般社会に開放されたとき、自由になったという。

 「自由という牢獄」とは、どういう意味だろう。

 ここには謎がある。

 この本は、その謎を解こうとするものである。

 大澤は、各章の内容を、おなじく「はじめに」で、手短かに紹介している。

 

「第1章では、現代社会において、自由がどうして閉塞(牢獄)へと転化するのか、そのメカニズムについて論じている。ここで、「自由への牢獄」というミヒャエル・エンデの寓話を、現代を考える隠喩として活用するだろう。」(ⅶ)

 

「第2章のテーマは、責任である。自由と責任は表裏一体の現象だ。「自己責任」という語が示すように、現在ほど、責任が声高に論じられる時代はなかった。しかし、奇妙なことに、責任は追及しようとすればするほど、どこかに消えてなくなってしまう。」(ⅶ)

 

「第3章では、自由と普遍的な開放性をいかにして両立させるか、という主題を論じている。一般に、社会が多様な人々に対して開放的であろうとすると、つまりより包摂的であろうとすると、自由への制限は大きくなると考えられている。社会の開放性と自由は両立しがたい、と。だが、原理的な水準にまで遡れば、両者は決して矛盾するものではない。…(中略)…この作業は〈自由〉の概念の(再)創造を伴うことになる。」(ⅶ)

 

「第4章では、「格差」の問題から出発して、自由の困難の源泉を探り当てようとしている。資本主義において、富の格差が生じる原因とされている現象がある。その「原因」をさらなる原点にまで遡及すると、自由をめぐる困難に到達する。ここでは、現代社会における自由の問題は、「神が存在しなければ、すべては許される」というドストエフスキー由来の命題の変形について示される。最後に『カラマーゾフの兄弟』に登場する大審問官に応えるという形式で、〈自由〉の新しい概念を提起する。」(ⅷ)

 

 

 大澤真幸は、大冊「世界史の哲学」のシリーズはじめ、ここ数年、継続して読ませてもらっている学者である。そもそも社会学から出発しているようだが、現在は、むしろ、本格的な哲学者というべきだろう。

 読み終えて、「自由という牢獄」という謎かけへの回答はもちろん得られるものだが、そんなにすとんと腑の落ちる解答とはならないだろう。何らかの正しさ、というようなものに向かって、何回も何回も螺旋を描いて回りながら登って行けるとして、いつのまにか確実に一段高いところにたどりついていた、というようなたぐいの書物であることは間違いない。


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