ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

熊谷達也 微睡みの海 角川書店

2014-05-07 01:08:50 | エッセイ

  東北の三陸海岸の架空の都市、仙河海市を舞台にしたシリーズの第2作。

 帯の表に「3・11を目前に、生命を燃やし求め合う男女三人、肉体の純愛小説」、裏には、「2010年春、東北の港町・仙河海市の美術館で働く笑子は、半ば眠ったように平穏な生活を送っていた。副館長、菅原との情事だけが、平和な日常の句読点-しかし、昔勤務していた中学の教え子、祐樹との再会が笑子を長い眠りから覚ます。年上と年下、ふたりの男性との激しい性愛に身を投じ、ゆるやかに自分を壊していく笑子、交錯する三人の思いとは何の関係もなく、四季は美しく巡ってゆく-ように見えたが、ついに「その日」がやってくる-」とある。

 これは、ここに書いてある通りの小説である。

 「肉体の純愛小説」というのは、一見、自己矛盾した表現にも思える。「肉体の官能小説」というなら普通だ。また、「精神の純愛小説」というのも普通だ。まあ、半世紀前の普通、かもしれない。現在、「肉体関係のない恋愛小説」というのも、ほとんどありえないだろう。少女小説などというものも、何十年ととんと読んだことはないが、そこですら、ほとんどないだろう。少女マンガの世界でも怪しいものだ、たぶん。

 でも、「肉体の純愛小説」という言いかたは、まだ何ものか、どこか耳慣れない、新鮮な感覚を与えるものがある。

 読む前には、ふ~む、なんだろうな、そうは言ってもねえ、みたいな先入観はあった。

 しかし、読み終えて、これは確かに純愛小説だ、と納得させられるものがあった。

 35歳の主人公と、50歳の上司、もと担任の男性、もうひとりは、21歳の元教え子という、15歳上と15歳下の相手との情事が描かれる。

 そこから想像されるような、なにか、どろどろした濃密な、底暗い、あるいは、鉢合わせしたり、修羅場があったりというようなことは、一切ない。

 それぞれとの情事の場面は描かれるが、詳細ではあっても、それほど濃密ではない。くどくてもうたくさん、とは決して思わせない。口当たり良く、程よい、しかし、充分に快感は味あわせてくれる。爽やか、ですらある。

 その場面が、他の相手に見つかってしまう、みたいな余計なスリルはない。暴力沙汰は、決して起こらない。

 (回想のなかで、この二人とは別の登場人物から、暴力の片鱗のようなものは描かれるが、それも、ちょっとした薬味程度のものだ。)

 この小説家の描く人物に、悪人はいない。ぼくは、これは、この小説家のとても優れた点だと思う。人間の善意を信じている。そして、彼らは成長する。この小説の始まりと最後を比べると、主要な登場人物は、みな、成長している。成長の過程を描く小説である。

 それはつまり、教育の小説だ、ということでもある。上司と主人公、主人公と教え子、それらの関係は、どちらも教育的な関係である。一方は、職業人としての教育、もう一方は、芸術の教育、そして、どちらも、言うまでもなく、よく生きる、生きつづけることについての教育である。

 それらが、同時に肉体関係でもあるような関係。精神だけの関係だけでなく、肉体の関係でもあるような深い、全体的な関係。

 上にひいた帯の「ゆるやかに自分を壊していく笑子」というのは、人格が壊れて行くということではなくて、自分の殻を壊して成長していくということだ。

 この小説は、読み終えることが幸福となるような類いの小説であり、なにかひとつ成長したと思わせてくれるような類いの小説である。こういう肯定的な小説は、優れた小説、と評価されるべきものだろうと思う。

 そして、舞台は、気仙沼市のような地方小都市・仙河海市。

 主人公と上司の勤め先のユニークな建築の、眺望に優れた「三陸アース美術館」。

 内湾に面した桟橋のそばのレストラン「アクアポート」。

 ちなみに、ここでの主人公と同級生の会話は、われわれの世代の女性たちが、現実にこの土地でしゃべっている言葉そのものといえる。ごく親しい関係で、くだけたシチュエーションで語っている言葉。文字に定着したこういう会話は初めて見たような気がする。

 ほんの端役で登場する水産会社の社長は、たくましい「まるで丸太のように太い」二の腕をもつ45歳ほどの好漢である。主人公の同級生である魅力的な女性バーテンダー、35歳のバー経営者の店の常連客にして、中学校の十こ先輩、「バージンをあげた相手」。もちろん、これは、あくまでもフィクションで、社長は誰だ、相手は誰だと詮索すべきことではない。しかし、この社長、と推測しうる人物に対しては、や、このドラマで、良い役貰ったな、と羨ましがるべきことは言うまでもない。ほんとに良い役を貰っている。この人物、良い役を貰うにふさわしい役者でもある。(職業としての役者という意味ではない。)

 ところで、もしこの小説を、映画かドラマにするなら、主人公は、真木よう子がいいな、と思う。で、同級生のバー経営者は、尾野真千子、とも思うが、ああ、まあ、それは贅沢かな。で、上司は、佐藤浩市とか、中井貴一とか。

 (あ、現実のリアス・アーク美術館の館長に、似たような名前の人がいるのは、あくまで、偶然に過ぎない。ちなみに、ほんとにちょっとだけ出てくる学芸係長と学芸員は、モデルどおりだ、と言って支障はないだろう。念のため言っておくと、外形的な条件からして、この二人以外の美術館職員は、主人公を含め、全くの創作の人物であることにまちがいはない。)

 最後に、ちょっとだけ蛇足で、気になる点を挙げておく。

 ひとつは、率直に疑問というか、個人的によくわからない点だが、「跡取りの息子、娘」に対する制約というか、跡を継ぐと言うことについての社会的な思い込みというか、世間的な観方が、気仙沼でそんなに強いのかどうか。

 私自身が長男だが、そんなことはなかったような気がする。いや、私は、色んな意味で例にはならない人間だが。この点は、長男、長女の皆さんはどんなふうに感じているのだろうか。(実は、私が例にならない、ということについては、私自身が一編の小説を書かなければいけない主題だ。)

 もうひとつは、これは、作家というよりも編集者の付けたものだろうが、帯の後に、「たとえ明日、世界が終るとしても―」と書いている。2011年の3月10日が、最後の場面であるこの小説の翌日に、たとえ話なのだとしても、この表現はどうなのだろうか。ちょっと気になるということはないだろうか。

 あ、またまた蛇足だが、真木よう子がテレビドラマ「最高の離婚」で、八戸出身という設定で、ほんのちょっとだけ八戸弁をしゃべるシーンがあって、それは、東北出身者以外の女優が東北弁をしゃべるシーンとして、出色だったと思う。ほぼはじめての出来事といっていいのだと思う。ああ、なんで、気仙沼出身としてもらえなかったかと詠嘆したものだった。エンド・ロールのチャイナ・ドレスも見事だった。


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