ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

吉本隆明「宮沢賢治の世界」筑摩選書

2013-09-26 10:55:27 | エッセイ

  吉本隆明の宮沢賢治についての講演を集成したもの。1971年から、2009年にわたる11本の講演。

 編集者の小川哲生による編集後記に「宮沢賢治は、吉本隆明氏が若い頃から読み続け、唯一批判したことのない人、と公言するほど親しんできた対象である。」(366ページ)さらに、吉本の著作である「宮沢賢治」(筑摩書房)の「あとがき」(もちろん吉本自身による)を引いている。「…きつい生活や仕事のあいだをぬって、思春期から断続的に、関心をもちこたえてきた宮沢賢治の人や作品について、感じ、思いを廻らす時間は、目の前に鬱積した雑事を片づけては、心せきながらはいり込んでゆく解放感にあふれた時間だった。そこではいつも愛着もあり、また全力をあげてぶつかっても倒れない相手に出会えた。」〈366ページ〉

 その「宮沢賢治」は読んでいないのだが、春秋社の「ほんとうの考え・うその考え」という本は読んでおり、その中に、同じ講演が含まれている。(同じ講演を元としながら、テキストは別ということで、そのあたりのいきさつが編集後記に書いてあるがまあ、それは置いておいて。)それ以外にも、現代詩手帖か何かで、吉本の賢治についての文章は読んでいるような気がするし、この本を読み始めてから、はじめて読んだという感触よりも、どこかですでに触れているものを、もう一度追体験するみたいな感覚で読み進めていた。

 これらの40年近くにわたる講演は、もちろん、すべて別のものなのだが、肝要なところはすべて重なっている。言わば繰り返しであるが、しかし、退屈な繰り返しということでなく、喜ばしい反復である。子どもが絵本を楽しむように反復を喜びながら、深く学んでいくというような。

 「宮沢賢治はあくまで自分を菩薩にする精進、励み方、道の求め方を生涯やめませんでした。自分は人間を超えられる、この現世を超えられるとかんがえた人です。現世を超えて、あの世、涅槃、最上の道に行けることを諦めずに精進をつづけました。そして自分だけではなくて、万人を連れてそこに行きたいんだというのが宮沢賢治の最後までの願いでした。」(151ページ、五宮沢賢治の文学と宗教)

 菩薩は、自分ひとりが悟りを得て救われることを拒絶して、万人を同様に救うことを祈願してこの世に戻ってくるひとである。みずから仏となれる境地に達しているにもかかわらず、そこからあえてこの現在の世界に還ってくる。「そういうものにわたしはなりたい」と賢治は考えていたひとなのだ。

 いまのわれわれに、つまり現在の日本の社会に与えている大きな影響、特に文学、芸術の側面が中心であることはいうまでもないが、その影響を見たときに、賢治はまさしく菩薩であると言ってしまって間違いではないのだろうと思う。ひとつには、吉本隆明らの読みを通して。(もちろん、この本のなかで、吉本隆明は、直接にはひとこともそんなことは言っていないが。)そして最近では、高橋源一郎の小説「銀河鉄道の彼方へ」などを通して。高橋のこの小説は、宮沢賢治を元にして、吉本隆明の読みをも経て書かれた小説であることに間違いはない。まさしく今の時点で、日本文学最大の傑作であるというべきこの小説が。

 考えてみると、宮沢賢治は、盛岡農学校で学んだ科学者(農学者)であるが、吉本も、東京工業大学で学んだ科学者(化学者)である。

 余談だが、「グスコーブドリの伝記」は、冷害を防ぐために地球温暖化を起こそうという話で、今になってみると、表層的には「トンデモ」話になってしまう。科学の進展、というより、社会の状況の変化というべきだろうが、現時点での科学的な正しさというもので評価すべき作品でないことはいうまでもない。「岩手の、東北の農民のために」という切実な思いがそこにあっての作品であることに間違いはない。

 詩集「春と修羅第一集」の序文の冒頭が引用されているところがある。

 

 「わたくしという現象は

  仮定された有機交流電燈の

  ひとつの青い照明です

  (あらゆる透明な幽霊の複合体) 風景やみんなといっしょに

  せはしくせはしく明滅しながら

  いかにもたしかにともりつづける

  因果交流電燈の

  ひとつの青い照明です」

 

 吉本は続けてこう書く。

 「仏教の本質的な世界観が人間のこころについても、風景、物象に対しても…独特なことばで表明されていて奇観です。すべてのものはあるとおもうからあるにすぎないので、ただの現象だ、人によって違うところからみたら、違うようにみえてしまうことはあり得る、とても不安定な現象にすぎない存在なんだということです。たいへん特異な考え方ですが、仏教の根本的な世界観で、それを感覚的にはっきりと自分の方法にしているとおもいます。」(218ページ 八 宮沢賢治 詩と童話)

 読みながら、この序文冒頭が、くっきりと分かったと思った。宗教と科学。すべてを理解したとはもちろん言えないのだが、くっきりとイメージがつかめたように思えた。たとえば、「有機」は、無機物ではない生き物、人間だということであり(有機肥料の「有機」と同じ言葉でもあり)、「交流」は、電気の「直流」に対する「交流」であると同時に、人間の魂の「交流」でもある。

 さて、また余談だが、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」の坑道の中に棲む老人は、宮沢賢治の「春と修羅」のこの序を背負っている。そして、「あまちゃん」の琥珀掘りの勉さんが、その後裔であることも疑いがない。

 賢治は菩薩になろうとした。しかし、言うまでもないことだが、われわれは、菩薩ではない。菩薩になる必要などない。それぞれが、それぞれの仕方で幸福になろうとすれば良いのだ。いや、微妙に違うな。お経には、菩薩というものが書いてある。そして、実際、菩薩になろうとしたひとがいた。そういうことを知ったうえで、しかし、あえて、私たちは菩薩になろうとはしない、というあたりが倫理的に正しい考え方なのかもしれないな。

 気仙沼すべてが復興しないうちは、私は幸福になってはいけないなどと考える必要はないということだ。私の商売だけ繁盛してはいけない、などと考えるのは愚の骨頂である、ということだ。

 私が繁盛することが、気仙沼すべてが繁盛することに通じるのだ。そのための唯一の道なのだ、ということだと思う。

 ところで、また余計な話だが、わが佐藤真海さんは、現在、菩薩である。菩薩に見える。菩薩とは、こういうひとのことであるに違いない。いや、これからずっと聖人君子でいなさいと倫理的なプレッシャーをかけようということではない。大学入学以降の体験のひとつの結果として、現在がある。喜ばしき菩薩。サントリーという会社も、彼女を支えたということで、東北から大きく評価されることになるに違いない。


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