平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



『平家物語』には、魅力的な人物が登場します。
そのひとりが物語の後半部分に脚光を浴びる平知盛です。

平知盛(1152~1185)は、清盛の四男で、母は二位尼時子です。
清盛の息子だけあって、知盛の官歴は見事なものでした。

平治元年(1159)正月、わずか8歳で官位につき従五位下となり、
同年12月の平治の乱で清盛が源義朝を倒して、都の軍事力を
掌握すると、平家一門の人々の官位は急激に上昇し、
知盛の昇進にも拍車がかけられました。
乱直後の永暦元年(1160)2月大国・武蔵守に任じられ、その後も
官位は上がり続けて従二位の権(ごん)中納言となって
新中納言と称されました。知盛の青年期は、
平家全盛の時代で彼はこの上げ潮に乗じて栄進したのでした。

九条兼実の日記『玉葉』安元2年(1176)12月5日条によれば、
知盛は入道相国(清盛)最愛の息子で、最も期待をかけていたという。
『平家物語』では、凡庸な兄宗盛に比べて人間を鋭く見据え、
洞察する先見性のある人物として描き出されています。

清盛の死後、平家の棟梁となったのは、知盛と同じ時子を母とする
すぐ上の兄の宗盛で、宗盛の下に平時忠が政治的な面を担当し、
知盛が軍事的指揮権を掌握しました。
知盛の真価が発揮されたのは、源平争乱期に入ってからです。

知盛は、作戦上の最高責任者としての立場から幾度も宗盛に
進言しました。
都落ちに反対し、都での決戦を宗盛に
申し入れましたが、受け入れられませんでした。

西国に落ち、屋島に落ち着いた平家は急速に勢力を盛り返して
福原に舞い戻り、一ノ谷に城郭を築き、源氏との決戦に備えました。
一ノ谷の合戦で、生田の森の大将軍であった知盛は、
義経の奇襲攻撃によって総崩れとなり、嫡男知章(ともあきら)と
郎党との三騎で沖の軍船に乗ろうと海岸に逃げる途中、
敵に囲まれました。知章は父を守ろうと敵の中に割って入り討たれ、
知盛はそのすきに追いすがる敵をかわして馬で逃げのび
船に辿りつくことができました。しかし、海上の船は
人であふれかえり、幾多の戦いをともにしてきた
愛馬を乗せる余地がなく、知盛は馬を岸の方へ返させます。

この時、阿波民部重能は、名馬を敵に取られるのを惜しんで
波打ち際に取り残された馬を射殺そうと弓を構えますが、
知盛は「たとえ誰のものになろうとも、今わが命を助けてくれたものを
殺すなどとんでもない。」とこれを制止しました。
馬は主人との別れを惜しむように沖の方へと泳いできましたが、
船がしだいに遠ざかっていくので、やがて渚に泳ぎ帰り
脚が立つようになると、なおも船を振り返り、二三度いななきました。

そのあと知盛は宗盛の前で、我が子を身代わりにして
逃げたことを恥じ涙を流したという。
「いったいどこに父を助ける子を
見殺しにして逃げる親がありましょうか。よくよく命は惜しいものと
思い知りました。」と軍事の最高指揮官としての責任上、最愛の息子を
見殺しにしても敢えて生きのびねばならない自分の
苦しい心のうちを訴え、感情的に取り乱す姿が描かれています。

一ノ谷合戦後、屋島に撤退した宗盛に、後白河法皇から再び
和平交渉が打診されたのは、敗戦からわずか3週間後のことでした。
三種の神器を返還すれば、一ノ谷合戦で捕虜となった重衡の
身柄を釈放しよう、これは重衡も同意しているというものでした。
毅然とこの要求を拒否したのが知盛でした。

一ノ谷合戦では、直前に法皇から宗盛に連絡があり、
「和平の使者を送るので、2月8日まで戦闘を行わぬよう
関東武士に命じてある。」というものでした。
しかし、その前日の7日に源氏軍の攻撃があり、油断していた平家は
大打撃を受けたばかりでした。知盛は老獪でしたたかな後白河の
策謀を見抜き、「たとえ三種の神器を都に返還したとしても、
重衡が返されることはないであろう。」と主張したのでした。

やがて平家は屋島での合戦にも敗北し、壇ノ浦で最終決戦に
挑みました。
『平家物語』によると、知盛は、壇ノ浦合戦を前にして
阿波民部重能の裏切りを見抜き、そ
の首を刎ねるよう
宗盛に求めましたが、宗盛はそれを許しませんでした。

知盛は惣領である宗盛が自分の意見を退けても
恨んだりすることなく兄の決定に従い、サポート役に徹し
一門の結束を乱すことはありませんでした。

平家はこの合戦で後々まで人々の心に鮮烈に残る滅亡を遂げたのでした。
平家一門の総大将の宗盛と嫡子清宗が捕虜となり、主だった人々の
入水と戦死を見届けた知盛が海に沈む前に口にしたのが
「見るべきほどの事をば見つ。今は何をか期(ご)すべき」という言葉です。

(自分はやるべきことはすべてやった。見届けねばならぬことはすべて見た。
いまはもう気がかりなことは何もない。)乳母子の伊賀平内左衛門家長ともに
それぞれ鎧を2領着こんで、手を取り合って入水すると、
知盛に近侍する侍たち20余人があとを追って海に沈みました。
あとにはかなぐり捨てられた平家の赤旗が
海上を薄くれないに染めていました。

乳母子の伊賀平内左衛門家長について、
筑後守平家貞の息子ともいわれ、伊賀国服部の出身で、
伊賀服部氏の祖と伝えられています。
平内は平氏で内舎人を勤めた武士の称です。

『官職難儀』には、「内舎人に成りたるを平氏は平内・藤内・善内と申候。
平内左衛門などと申すは、内舎人より左衛門尉になりたるを、
もとの官をつけてよぶ也」とあります。(『平家物語全注釈(中巻)』)

そうした中、越中次郎兵衛盛嗣(越中前司盛俊の子)、
上総五郎兵衛忠光(上総守藤原忠清の子・伊勢を本拠とする
藤原氏南家伊藤氏流)、悪七兵衛景清(忠清の子)、
飛騨四郎兵衛(飛騨守景家の子・伊藤景俊)のように
戦場を逃れ、生き延びていくしたたかな勇者たちもいました。

伊藤(藤原)忠光・景清兄弟は、紀伊国湯浅にいた
平忠房(重盛の六男)のもとに馳せ参じて
湯浅城に籠って挙兵しましたが敗れ、再び逃亡して
源氏追討に奔走し、平家武士の意地を貫く道を辿りましたが、
結局、平氏滅亡という歴史的事件をどうすることもできませんでした。
平忠房の最期(湯浅城跡)  
彼らの頼朝への復讐劇は、後世、歌舞伎に
謡曲にさまざまな文芸作品の題材になっています。

壇ノ浦合戦の平家の陣の大将として、「見るべきものはすべて見た」と
言い残して
潔く海に身を投じた知盛の姿は人々の胸を打ち、
『平家物語』の名場面として歌舞伎や能にも脚色されました。
歌舞伎『義経千本桜』の「渡海屋」及び「大物浦」の場の登場人物が点出され、
矢傷を負った死相の知盛が大綱を体に巻き、大碇を海中に投げ入れて
入水するという「大物浦」における(碇知盛)の見得を主題としています。
画面上方に、船団や八艘飛びする義経が影絵のように描かれています。
一勇斎国芳筆「壇浦戦之図」部分 高松市歴史資料館蔵
 『源平合戦人物伝』より転載。

歌舞伎『義経千本桜』 や能『碇潜(いかりかづき)』では、
平知盛は巨大な碇を担いで最期を迎えます。
(
みもすそ川公園にて撮影)
平知盛碇潜(いかりかづき)   
平知盛の墓・甲宗八幡神社   
平知章の墓(明泉寺)   
『参考資料』
上杉和彦 『源平の争乱』 吉川弘文館、2007年 
角田文衛「王朝の明暗(平知盛)」東京堂出版、平成4年
高橋昌明 『平家の群像』岩波新書、2009年
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実(下)」塙新書、1994年 
 図説「源平合戦人物伝」学研、2004年
  富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
高橋昌明『平家の群像』岩波新書、2009年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(中巻)」角川書店、昭和42年 
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年

 

 



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