平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



平景清(生没年未詳)は、上総介忠清の子で上総太郎判官忠綱、
上総五郎兵衛忠光の弟です。平景清と呼ばれていますが、
平氏の血筋ではなく伊勢を本拠とした藤原南家の流れをくみ、
「伊勢の藤原」を意味する伊藤氏とも称し、「悪七兵衛景清」
「悪七兵衛」の異名を持つほど勇猛果敢な豪傑でした。

祖父の景綱は『保元物語』『平治物語』に登場し、
保元の乱(1156年)では、平清盛軍の先陣をつとめて源為朝軍と戦い、
平治の乱(1160年)
では、清盛のもとで義朝軍を攻め、
戦功により伊勢守に任じられました。

景清は源平合戦において侍大将として活躍し、屋島の合戦では、
源氏の武者に腕力の勝負を挑み、美尾屋(みおや=水尾谷)十郎が
応じましたが、たちまち負けて逃げる十郎の錣(しころ)をつかみ、
冑から素手で引きちぎるという怪力ぶりを見せています。

壇ノ浦合戦で平家の武将の多くが入水や戦死し、数少ない
生存者であった平景清には、さまざまな伝承が各地に残っています。
大阪府内にもいくつかの景清伝説がありますが、
その中から「小松公園」「かぶと公園」「泪の池」をご紹介します。

達磨宗を開いた大日房能忍(のうにん)は景清の叔父(伯父とも)で、
壇ノ浦合戦後、景清を匿いましたが、疑心暗鬼になった
景清に誤って殺されたとされています。
(『本朝高僧伝』巻19・摂州三宝寺沙門能忍伝)

元禄14年(1701)刊の『摂陽群談』は、
景清は復讐を誓って壇ノ浦の戦場を敗走し、あちこちさまよったあと、
伯父の能忍のもとを訪れ、匿ってほしいと頼みます。
能忍は土蔵に隠して下男と二人で世話をし、景清が小さい頃から
そばが好きだったのを思いだし、下男に「そばを打て」と命じました。
ところが景清には「首を討て」と聞こえ、伯父が心変わりしたと思い込み、
いきなり蔵から飛び出し能忍を一刀のもとに
斬伏せたところに、
下男がそばを運んできたのではっと気づいた景清、
泣きながら近くの池で血刀を洗い、いずこともなく去っていきました。
同情した世間の人々はこの池を泪池と呼びました。と記しています。
ちなみに「そば」は小松の名産でした。

のちに西行法師は、この話を聞いて感動し、
♪よしさらば涙の池に身をなして 心のままに月やどるらむ と詠んでいます。
(そういうことなら、この身を涙の池にしてしまって、
思いのままに月を映していようではないか)

以上のような説があり、摂津国においては大日房能忍とかかわる
景清の伝承が形成されていったと思われます。
涙池は形を変えながら昭和の初め頃まであったそうですが、
今は埋立てられ小松公園になっています。

最寄りの阪急京都線上新庄駅。
 上新庄駅から稲荷商店街、小松商店街を抜けると
住宅街の一角に小松公園があります。 



この付近はほとんど田畑でしたが、昭和35年から区画整理が行われ、
新しい近代的な市街地として整備されました。
当公園はこの事業でできた十数ヶ所の公園のひとつです。
これを記念して高さ10mほどある「上中島区画整理記念碑」が
公園に建てられましたが、老朽化が進み
安全面を考えて平成29年12月末に撤去されました。


大阪市立東淀中学校の道路向かいにある「かぶと公園」




源平の戦に敗れた平家の落武者平景清が、かくまってくれた
伯父の「三宝寺大日房能忍」を誤って殺害したのを悔やんで、
この辺りで冑を脱ぎ捨てて立ち去ったと言い伝えられています。
いまもこの付近から淀川堤防までの一帯の地を
「かぶと」と称し「かぶとみち」の名も残っています。
その由来からこの公園を「かぶと公園」と命名します。




大阪市長大島靖の撰文による「区画整理碑」が建っています。

 この付近はほとんど田畑でしたが、昭和35年から区画整理が行われ、
新しい近代的な市街地として整備されました。当初、
区画整理2号公園として3594平方メートルの面積で配置された公園は、
区画整理記念公園とするため敷地を拡張し、
東側に記念像「太陽の下、みどりと、やすらぎと」と題する親子3人像と
区画整理碑が配置され、昭和50年9月30日に完成式が行われました。

大阪市に残る景清伝説とよく似た話が吹田市にもあります。

泪の池遊園には、平景清が誤って伯父の大日房能忍を切ったことを悲しんで、
泣きながらこの池で血刀を洗い、夜な夜なこの池で泪を流したと言う伝説があります。
ここは、泪の池と人々に呼ばれていた小さな池を埋めた跡といわれています。

吹田市有川面町墓地の傍にあります。




「三宝寺は、達磨宗の僧侶 能忍が12世紀末頃に開いた寺院です。
現在では寺院そのものはありませんが、東淀川区大隅・大桐一帯にあったと考えられ、
大阪市では三宝寺跡伝承地として埋蔵文化財包蔵地に指定されています。」
大阪歴史博物館HP三宝寺跡伝承地より転載。

能忍については、次のような説もあります。
大日房能忍(生没年不詳)は、もとは天台密教の僧でしたが、
弟子を介して中国・宋から臨済宗の禅を輸入し、達磨宗と称して、
仁安3年(1168)に摂津水田(現在の大阪市東淀川区大桐)に
三宝寺を建立して独特の禅宗を広めました。
人徳もあってか能忍のもとには弟子が多数集まるようになり、
七堂伽藍、僧坊48が建ち並ぶ大きな寺院に発展しました。
平家滅亡後、多くの平家の落武者がこの辺りに逃げてきましたが、
三宝寺には修行僧が1千人もいたので、出家してこの寺に身を隠し
厳しい源氏の探索から逃れようとした者も多数いました。
三宝寺は兵火で焼失したとみられますが、その年月日は不明です。

延享5年(1748)初演の中村清三郎作歌舞伎『大仏供養景清』には、
景清の伯父大日坊は賞金に目がくらみ、役人に届け出ようと駆けだすところを
景清が斬り殺し、伯父の着物に着替えて逃走する場面があります。
景清にニ枚目スターの二代目市川団十郎、大日坊に
悪役第一人者の中島三甫右衛門が扮し、大ヒットしました。
それがいつの間にか、あれは三宝寺の大日房であるという風評がたちました。

中村清三郎が実在した大日房能忍の名を借りて、
大日房を大日坊と一字変えて芝居に
取り入れた可能性も考えられます。
しかし、大日房能忍は、景清の伯父だという確証はなく、
多分無関係だと思われます。
屋島古戦場を歩く(景清の錣引き)    
平景清伝説地(平景清の墓)  
『アクセス』
「小松公園」大阪市東淀川区小松2丁目12 
阪急京都線 上新庄駅下車徒歩約13分。

「かぶと公園」 大阪府大阪市東淀川区豊新4−10
 阪急京都線 上新庄駅下車 南東へ約800m。

「泪之池公園」 吹田市内本町3-12-8 
阪急京都線 上新庄駅下車徒歩約20分。
『参考資料』
川合康編「平家物語を読む(平家物語と芸能)」吉川弘文館、2009年 
川合康編「平家物語を読む(平家物語と在地伝承・三宝寺)」吉川弘文館、2009年 
三善貞司「大阪史蹟辞典(悪七兵衛景清)」清文堂出版、昭和61年
三善貞司「大阪伝承地誌集成」清文堂、平成20年
日下力・鈴木彰・出口久徳著「平家物語を知る事典」東京堂出版、2006年
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年

 

 

 

 



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『平家物語』には、魅力的な人物が登場します。
そのひとりが物語の後半部分に脚光を浴びる平知盛です。

平知盛(1152~1185)は、清盛の四男で、母は二位尼時子です。
清盛の息子だけあって、知盛の官歴は見事なものでした。

平治元年(1159)正月、わずか8歳で官位につき従五位下となり、
同年12月の平治の乱で清盛が源義朝を倒して、都の軍事力を
掌握すると、平家一門の人々の官位は急激に上昇し、
知盛の昇進にも拍車がかけられました。
乱直後の永暦元年(1160)2月大国・武蔵守に任じられ、その後も
官位は上がり続けて従二位の権(ごん)中納言となって
新中納言と称されました。知盛の青年期は、
平家全盛の時代で彼はこの上げ潮に乗じて栄進したのでした。

九条兼実の日記『玉葉』安元2年(1176)12月5日条によれば、
知盛は入道相国(清盛)最愛の息子で、最も期待をかけていたという。
『平家物語』では、凡庸な兄宗盛に比べて人間を鋭く見据え、
洞察する先見性のある人物として描き出されています。

清盛の死後、平家の棟梁となったのは、知盛と同じ時子を母とする
すぐ上の兄の宗盛で、宗盛の下に平時忠が政治的な面を担当し、
知盛が軍事的指揮権を掌握しました。
知盛の真価が発揮されたのは、源平争乱期に入ってからです。

知盛は、作戦上の最高責任者としての立場から幾度も宗盛に
進言しました。
都落ちに反対し、都での決戦を宗盛に
申し入れましたが、受け入れられませんでした。

西国に落ち、屋島に落ち着いた平家は急速に勢力を盛り返して
福原に舞い戻り、一ノ谷に城郭を築き、源氏との決戦に備えました。
一ノ谷の合戦で、生田の森の大将軍であった知盛は、
義経の奇襲攻撃によって総崩れとなり、嫡男知章(ともあきら)と
郎党との三騎で沖の軍船に乗ろうと海岸に逃げる途中、
敵に囲まれました。知章は父を守ろうと敵の中に割って入り討たれ、
知盛はそのすきに追いすがる敵をかわして馬で逃げのび
船に辿りつくことができました。しかし、海上の船は
人であふれかえり、幾多の戦いをともにしてきた
愛馬を乗せる余地がなく、知盛は馬を岸の方へ返させます。

この時、阿波民部重能は、名馬を敵に取られるのを惜しんで
波打ち際に取り残された馬を射殺そうと弓を構えますが、
知盛は「たとえ誰のものになろうとも、今わが命を助けてくれたものを
殺すなどとんでもない。」とこれを制止しました。
馬は主人との別れを惜しむように沖の方へと泳いできましたが、
船がしだいに遠ざかっていくので、やがて渚に泳ぎ帰り
脚が立つようになると、なおも船を振り返り、二三度いななきました。

そのあと知盛は宗盛の前で、我が子を身代わりにして
逃げたことを恥じ涙を流したという。
「いったいどこに父を助ける子を
見殺しにして逃げる親がありましょうか。よくよく命は惜しいものと
思い知りました。」と軍事の最高指揮官としての責任上、最愛の息子を
見殺しにしても敢えて生きのびねばならない自分の
苦しい心のうちを訴え、感情的に取り乱す姿が描かれています。

一ノ谷合戦後、屋島に撤退した宗盛に、後白河法皇から再び
和平交渉が打診されたのは、敗戦からわずか3週間後のことでした。
三種の神器を返還すれば、一ノ谷合戦で捕虜となった重衡の
身柄を釈放しよう、これは重衡も同意しているというものでした。
毅然とこの要求を拒否したのが知盛でした。

一ノ谷合戦では、直前に法皇から宗盛に連絡があり、
「和平の使者を送るので、2月8日まで戦闘を行わぬよう
関東武士に命じてある。」というものでした。
しかし、その前日の7日に源氏軍の攻撃があり、油断していた平家は
大打撃を受けたばかりでした。知盛は老獪でしたたかな後白河の
策謀を見抜き、「たとえ三種の神器を都に返還したとしても、
重衡が返されることはないであろう。」と主張したのでした。

やがて平家は屋島での合戦にも敗北し、壇ノ浦で最終決戦に
挑みました。
『平家物語』によると、知盛は、壇ノ浦合戦を前にして
阿波民部重能の裏切りを見抜き、そ
の首を刎ねるよう
宗盛に求めましたが、宗盛はそれを許しませんでした。

知盛は惣領である宗盛が自分の意見を退けても
恨んだりすることなく兄の決定に従い、サポート役に徹し
一門の結束を乱すことはありませんでした。

平家はこの合戦で後々まで人々の心に鮮烈に残る滅亡を遂げたのでした。
平家一門の総大将の宗盛と嫡子清宗が捕虜となり、主だった人々の
入水と戦死を見届けた知盛が海に沈む前に口にしたのが
「見るべきほどの事をば見つ。今は何をか期(ご)すべき」という言葉です。

(自分はやるべきことはすべてやった。見届けねばならぬことはすべて見た。
いまはもう気がかりなことは何もない。)乳母子の伊賀平内左衛門家長ともに
それぞれ鎧を2領着こんで、手を取り合って入水すると、
知盛に近侍する侍たち20余人があとを追って海に沈みました。
あとにはかなぐり捨てられた平家の赤旗が
海上を薄くれないに染めていました。

乳母子の伊賀平内左衛門家長について、
筑後守平家貞の息子ともいわれ、伊賀国服部の出身で、
伊賀服部氏の祖と伝えられています。
平内は平氏で内舎人を勤めた武士の称です。

『官職難儀』には、「内舎人に成りたるを平氏は平内・藤内・善内と申候。
平内左衛門などと申すは、内舎人より左衛門尉になりたるを、
もとの官をつけてよぶ也」とあります。(『平家物語全注釈(中巻)』)

そうした中、越中次郎兵衛盛嗣(越中前司盛俊の子)、
上総五郎兵衛忠光(上総守藤原忠清の子・伊勢を本拠とする
藤原氏南家伊藤氏流)、悪七兵衛景清(忠清の子)、
飛騨四郎兵衛(飛騨守景家の子・伊藤景俊)のように
戦場を逃れ、生き延びていくしたたかな勇者たちもいました。

伊藤(藤原)忠光・景清兄弟は、紀伊国湯浅にいた
平忠房(重盛の六男)のもとに馳せ参じて
湯浅城に籠って挙兵しましたが敗れ、再び逃亡して
源氏追討に奔走し、平家武士の意地を貫く道を辿りましたが、
結局、平氏滅亡という歴史的事件をどうすることもできませんでした。
平忠房の最期(湯浅城跡)  
彼らの頼朝への復讐劇は、後世、歌舞伎に
謡曲にさまざまな文芸作品の題材になっています。

壇ノ浦合戦の平家の陣の大将として、「見るべきものはすべて見た」と
言い残して
潔く海に身を投じた知盛の姿は人々の胸を打ち、
『平家物語』の名場面として歌舞伎や能にも脚色されました。
歌舞伎『義経千本桜』の「渡海屋」及び「大物浦」の場の登場人物が点出され、
矢傷を負った死相の知盛が大綱を体に巻き、大碇を海中に投げ入れて
入水するという「大物浦」における(碇知盛)の見得を主題としています。
画面上方に、船団や八艘飛びする義経が影絵のように描かれています。
一勇斎国芳筆「壇浦戦之図」部分 高松市歴史資料館蔵
 『源平合戦人物伝』より転載。

歌舞伎『義経千本桜』 や能『碇潜(いかりかづき)』では、
平知盛は巨大な碇を担いで最期を迎えます。
(
みもすそ川公園にて撮影)
平知盛碇潜(いかりかづき)   
平知盛の墓・甲宗八幡神社   
平知章の墓(明泉寺)   
『参考資料』
上杉和彦 『源平の争乱』 吉川弘文館、2007年 
角田文衛「王朝の明暗(平知盛)」東京堂出版、平成4年
高橋昌明 『平家の群像』岩波新書、2009年
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実(下)」塙新書、1994年 
 図説「源平合戦人物伝」学研、2004年
  富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
高橋昌明『平家の群像』岩波新書、2009年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(中巻)」角川書店、昭和42年 
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年

 

 



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烏丸三条交差点の北東角に若者に人気のファッションビル新風館があります。
この地は、院政期には政治的・文化的中心地のひとつであった三条東殿址です。

三条東殿は、もとは大治元年(1126)に白河法皇が造営した院御所で、
法皇が崩御後、鳥羽上皇と待賢門院の御所となり、
その後、後白河法皇の御所となりました。

最寄りの
京都市営地下鉄烏丸御池駅

平治元年(1159)12月、後白河上皇が三条東殿を御所としていた時、
平治の乱が勃発しました。
藤原信頼と源義朝の軍勢数百騎が急襲、
上皇を連れだし、邸内に火を放って多くの人々を殺戮したことで知られています。

烏丸三条

新風館

新風館の敷地の北東角、姉小路通りに面して
「三条東殿遺址(いせき)」の碑がたっています。

外資系の有名ホテルの建設ラッシュが続く京都で、
昨年、新風館の前を通りかかると再建工事中で覆いがかけられていました。


新型コロナウイルスの影響で開業が遅れていた新風館が2020年6月に
米国ホテルグループの「エースホテル京都」とミニシアター「アップリンク京都」を
はじめ、商業複合施設としてオープンしたことをテレビのニュースで知り、
「三条東殿遺址」の碑がどこに建てられたのか確かめに行ってきました。



説明の駒札や石碑は元の場所
にありました。

三条東殿址・信西邸跡(平治の乱のはじまり)  
『アクセス』
「新風館」京都市中京区姉小路通烏丸東入
京都市営地下鉄烏丸線・東西線烏丸御池駅(5番出口)から徒歩1分。

『参考資料』
武村俊則「京の史跡めぐり」京都新聞社、1987年

 



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浄教寺が寺院とホテルの複合施設として建て替えられたことを
テレビのニュースを見て知りました。
地上9階建てで、1階はロビーと浄教寺本堂が同居。
2~9階はホテルとして運営し、
2020年9月28日にオープンしました。



四条通りから寺町通りを南に進むと、
左側に三井ガーデンホテル京都河原町浄教寺があります。





浄教寺は、重盛が小松谷の邸宅内に建立した
燈籠堂に起源をもつ浄土宗の寺院です。
平家都落ちの際、邸は炎上し燈篭堂だけが残りました。
その後、灯篭堂は、下京区東洞院通松原付近に再興され、
天正年間(1573~92)に現在地に移されました。





平重盛の顕彰碑 と重盛が勧請したという熊野権現を祀った社。

有栖川宮熾仁(たるひと)親王の揮毫(きごう)。
「内大臣平重盛公之碑」と彫られています。
重盛は父清盛の躍進に伴って累進していき、内大臣にまで出世しました。

浄教寺 平重盛(1)  
『アクセス』
「三井ガーデンホテル京都河原町浄教寺」
京都市下京区貞安前之町620番
阪急電車・四条河原町駅下車約5分
 「四条河原町」バス停から徒歩約2分
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図絵」(洛中) 駿々堂、昭和59年

 

 

 

 



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平教経(のりつね=1160~1185)は、平清盛の異母弟・
教盛(のりもり)の次男で、清盛の甥にあたります。
治承3年(1179)、
兄通盛(みちもり)のあとをつぎ能登守となり、能登殿とも呼ばれます。

『吾妻鏡』元暦元年(1184)2月7日条に一ノ谷合戦で甲斐源氏の
安田義定が教経を討取ったと記されていますが、戦後義経が討取った首を
掲げて都大路を行進した時、その首は本物でないという声があがりました。

『玉葉』2月19日条は、屋島に帰住した平氏の動向を伝える中で、
「渡さるるの首の中、教経においては一定(いちじょう)現存云々」と
記しています。「現存」は通常、生きている意味に使います。

教経の一ノ谷合戦における生死は謎とされてきましたが、
『平家物語を知る事典』によると、
「吾妻鏡は論功行賞の最初の段階で、
安田義定による教経殺害が事実と認定されたため、

軋轢を生む後日の変更などはしなかったことを示している。」とあります。

安田義定は八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光の曾孫です。
頼朝の挙兵に甲斐で呼応して立ち上がり、富士川の合戦を勝利に導き、
木曽義仲に続いて都に入り、遠江守に任じられています。
当時、出自・勢力とも一目置かざるを得ない存在で、
自己主張の強い武将でした。

壇ノ浦合戦の結果を記した同時代の史料
『醍醐寺雑事(ぞうじ)記・巻10』には、壇ノ浦での自害者の項に
「能登守教経」の名があり、その時まで生きていたと思われます。

一ノ谷合戦の際、義経軍が三草の陣を陥落したという報に、
鵯越の麓にあった山の手の陣の守備固めが急がれましたが、
義経との激戦が予想される場所への出陣を誰もが嫌がりました。
しかし、「手ごわい方面には、この教経が出陣しましょう。」と
教経だけは平家の棟梁宗盛の要請を引き受けました

一ノ谷合戦後、平教経は、水島の戦い・六ヶ度合戦・屋島の戦いと、
各地を転戦し、そのつど奮戦し源氏を苦しめ続けました。
義経の急襲を受けた屋島合戦では、「王城一の強弓精兵」と謳われた
教経は、船の上から陸地の敵に矢を射かけて
源氏武者を次々に射倒し、義経を狙って放った矢を
身代わりとなって受けた佐藤嗣信をも射殺しました。
壇ノ浦合戦でも、大勢が決しても戦い続け、
義経を窮地に追いつめています。

 壇ノ浦合戦で敗北が決定的となり、安徳天皇の入水を知った
平家一門の人々は次々と海中に身を投げました。
そんな中で最後まで戦いぬこうとする能登守教経の奮戦はすさまじいものでした。
弓矢の名人ですが、ありったけの矢を射つくしてしまったので、
今日が最後と、赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧、いかものづくりの(立派な)
太刀と大長刀を両手に持って、船から船へ飛び移って斬りまわっていました。
暴れまわる教経に総司令官の知盛は使者を立て「そんなに罪をつくりなさるな。
それほどの相手でもありますまいに」とたしなめると、教経は
敵の大将軍に組めということだと気づき、闘志を燃え滾らせて
船を次々に乗り移り、義経を捜しついにめぐりあいました。

一勇斎国芳筆「八嶋大合戦」部分 高松市歴史資料館蔵 (「
源平合戦人物伝」より転載)
壇ノ浦で血眼になって追いかける教経を尻目に義経は「八艘飛び」で難を逃れました。

「義経八艘飛びの像」みもすそ川公園にて撮影。



義経は組んではかなわぬと、6mほど離れた味方の船にひらりと飛び移りました。
その身の軽いこと、鞍馬時代の牛若丸を彷彿とさせます。
「義経の八艘飛び」というのがこれです。さすがの教経も、真似はできません。

教経は目ざす義経を取り逃がしたので、もうこれまでと覚悟を決め、
太刀、大長刀を海に投げ入れ、兜を投げ捨てざんばら髪となって、
鎧の袖、草摺りをかなぐり捨て、胴ばかり残して軽々としたいでたちで
「われと思わんものは、この教経を生捕にして、鎌倉へ連れてゆけ。
頼朝に物申さん」」と大音声をあげます。その鬼神のような姿に、
さすがの源氏の武者たちもたじろいて近づくことができません。

ここに、怪力の持ち主で知られた土佐国(高知県)の住人、
安芸郷(土佐国東南端の一角)を知行する安芸大領(郡の長官)の子、
安芸太郎実光(さねみつ)・次郎兄弟と自分と同様に怪力の郎党の3人が、
能登殿の船に押し並べ、乗り移りそれとばかりに挑みかかりました。
教経はまず郎党を蹴倒して、海に投げ込み、安芸兄弟を左右の脇に
しっかりと抱え込んで「いざ参れ、おのれら死出の山の供をせよ」と
叫ぶがはやいか海中に身をおどらせます。
教経はこのとき26歳。豪傑らしい壮絶な最期でした。

読み本系に属する平家物語(百二十句本)にこんな一節があります。
「ここに土佐の国の住人、安芸の郡を知行しける安芸の大領が子に、
大領太郎実光とて、三十人が力あり。弟安芸の次郎もおとらぬしたたか者。
主におとらぬ郎等一人。兄の太郎、判官(義経)の御前に
すすみ出でて申しけるは、『能登殿に寄りつく者なきが本意なう候へば、
組みたてまつらんと存ずるなり。さ候へば、土佐に二歳になり候ふ
幼き者不便にあづかるべし』と申せば、判官、『神妙に申したり。
子孫においては疑ひあるまじき』とのたまへば、安芸の太郎主従三人、
小船に乗り、能登殿の船にうつり、綴をかたぶけ、肩を並べてうち向かふ。」

源氏方にとって闘志の原動力は所領の獲得にありました。
安芸兄弟は手柄をたてて、土地を獲得して帰りたいのですが、
教経にはとても太刀打ちできません。とうていかなわない敵に対しては、
手柄というのは、命を捨てることでしかありません。
「能登殿に寄りつく者がいないので、我らが組みつこうと思います。
それについては、土佐に残した2歳の子に目をかけていただきたい」と
義経に言うと、「殊勝によくぞ申した。子孫のことは気づかい無用」
こうして義経から安芸郡の支配権相続についての保障を得ると、
安芸兄弟と郎党は、小舟に乗って能登殿の船にうつり、3人1度に
兜を少し前に俯せて、教経に討ちかかって行ったのでした。
義経の八艘飛び  
能登守教経の山手の陣(神戸の氷室神社)  
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
高橋昌明「平家の群像 物語から史実へ」岩波新書、2009年
日下力・鈴木彰・出口久徳著「平家物語を知る事典」東京堂出版、2006年
「図説・源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 
林原美術館「平家物語絵巻」クレオ、1998年 

別冊太陽「平家物語絵巻」平凡社、1975年 
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年

 

 



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