友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

『セールスマンの死』に自分が重なって

2016年07月14日 17時59分35秒 | Weblog

 子育ては難しいが、男が生きるはもっと難しい。昨夜、アーサー・ミラー原作の『セールスマンの死』を観てそう思った。この戯曲がアメリカのフィラデルフィアで初上演されたのは1947年である。戦争が終わってまだ2年しか経っていないのに、この重苦しい演劇になぜ鳴り止まない拍手が贈られたのだろう。

 セールスマンのウィリーは典型的なアメリカ人。セールスを成功させて、社会的な地位を得ることと大金持ちになることを、人生の最大の目的にして生きてきた。1920年代のアメリカは未曾有の発展を遂げていたが、30年代に大恐慌となり、不景気で失業者は溢れ、商品は売れなかった。ウィリーのセールスでの成功の夢は消えかかっていたが、彼にはもう1つの夢があった。

 長男はフットボール選手で人気者だ。大学に進みプロ選手になれば大金持ちになれる。「お前は素晴らしい」と褒めちぎり、盗みをしても咎めず擁護してきた。ところが長男は数学の単位が取れなくて進学できない。そして家を出て行ってしまった。次男は長男のような才能はなく、自由気ままに暮らしていて、父親には頼りなく見える。

 舞台はウィリーが会社をクビになり自殺してしまう1日を2幕で演じる形なので、現実と過去とが重なり合って進行していく。夢を失った男は、その夢があまりにも大きかっただけに生きる希望を失った。子どもから罵られ、自分が大事にしてきたもの、全てを子どものため家庭のため、そして会社のため、身を粉にして働いてきたことが何も成就しなかった。

 子どもたちは父親を尊敬していたが、父親は普通の男に過ぎなかった。ウィリーは求め過ぎた。子どもにも、会社にも、家庭にも、彼は夢を求め過ぎた。その重圧に自分が耐えられなくなってしまった。「そこそこでいい」となかなか男は思い切れず、「いや、こんなものじゃーない」と人生の夢を描いてしまう。演劇を観ていて、ウィリーと自分とが重なり涙が溢れてきた。

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