みなさん、こんばんは。 明日で10月も最後、2019年も残り2ヵ月となりますね。早い!
高等部では、再来週に迫ったスポーツ大会、そして12月の松実祭への企画発案など
行事が差し迫ってくる目まぐるしい中で、授業もどんどん進んでいきます。
さて、最近、私は『枕草子』漬けの日々となっています。
1年生の国語総合でも、2年の国語表現でも、ちょうど単元の内容が古典で重なり、しかも枕草子が双方に出てくるからです。
枕草子とは、作者である清少納言が1つのテーマについて思い馳せたこと、宮廷での華やかで優雅な生活っぷりや、
あらゆる人や多様な自然の観察を書いた、およそ300の章段に渡る、長編エッセーです。およそ1000年前に書き綴られました。
私はその大作に対して、そこまで興味を持ってきませんでした。国語教員なのに。
高校時代に何となく知って、大学でも、私の専門分野は国語学だったので古典分野は表面的。
そして教員になっても、担当教科や担当学年のめぐりあわせで、古文・漢文はそこまで触れずに来ました。
そこで今回、久々に古典を教えるにあたり国語の教科書だけでなく資料集、図書館の関連書籍5冊、資料集2冊など、諸々調べ上げていました。
今回、枕草子に向き合って初めて知ったこと。清少納言は、『笑いの天才』だったということです。
先ほど、『宮廷での華やかで優雅な生活っぷり』と書きましたが、それは、そういう場面が描かれていたからです。
そういうイメージとは逆に実は、清少納言のお仕えした主人(中宮定子)は、25歳という若さで亡くなっており、
その父親や兄弟たちも政治の混乱で人に裏切られたり、早死・流罪などの悲運に見舞われたりします。
羅生門の舞台設定でもありましたが、疫病や飢饉、大火災に見舞われることもあった時代です。
それでも清少納言は、自分がいた宮中の楽しかった出来事や皆で笑いあった記憶を書き記します。
ある資料によれば、同時代に書かれた『源氏物語』では、泣くシーンが笑うシーンの2倍登場するそうです。
しかし『枕草子』では、笑うシーンは泣くシーンの、なんと10倍も登場するそうです。
長編小説と長編エッセーの違いもあるでしょうが、仕えていた主家が栄えた紫式部よりも、
主家が落ちぶれていった清少納言の方が、笑いの種を作品中に大量に散りばめたのです。
その種は各時代において脈々と花を咲かせ、種を落とし、読み継がれて今に至ります。
私たちが教科書で読んで、くすっと笑ったり共感したりするのも、その種が開花した証ですね。
さて、いろんな事件や事故、さまざまな自然現象による天災に見舞われるのは、清少納言が生きた1000年前も、
私たちが生きている今も、(規模や状況は違えど)共通する部分があると言えそうです。
そんな今、自分は目の前のことをどういう風に切り取って、どういう風に伝えていくか。
G先生のブログでもありましたが、同じ現象を目の前にして、どう感じとるかは十人十色なのですね。
そしてそれが、どんなんにせよ発信すべきときには発信できる人間でありたいと強く感じた今日この頃です。
(駅前のイチョウの木が黄色くならないまま枯れていって裏寂しい心境の)マリオより