「与えている側が愛情だと思っていても、それを受けている側は必ずしもそれを愛情だとは受け止められないことがあるのです。そのズレはその当人同士の距離が近ければ近いほど悲しいものです。距離が近い人との心のズレは悲しいものです。」
一語一句正確ではないが、去年度に学園主催のシンポジウムにお招きしたK先生が、このように話された。
たいへん生意気な話だが、人の話を聴いていて、「今、この人が話した言葉って、ずっと自分が言いたかった言葉だ。今この人が話したように自分もずっと前から表現したかったんだ。でもなかなか自分の言葉では表せなかった。」と思う瞬間がたまにある。それは読んだ本の中にも見つけることができるが、生の声でその言葉が聞けると何とも言えない感動がある。まさにK先生の言葉は、胸の中のどこかを突かれた気がした言葉だった。
「心のズレ」は対人関係を結ぶ以上は当たり前に生じることだろう。しかし「共感」という言葉があるように何か共通の話題だったり、趣味などの話で意気投合したりする中で、その「心のズレ」は気にならなくなる。むしろ自分とズレるその他人の心を楽しめるようになる。
しかし、大切な場面で生じる「心のズレ」はやはり悲しいし、つらい。
ズレの当事者の一方は「自分のことは誰にも分かってもらえない。」「今、俺が求めているのはそれじゃないんだ。」と考えるし、一方では「なんで私の言うことが分からないんだ。」「これだけ私がやってあげているのに。」となってしまう。
親子、配偶者、友だち、彼氏彼女など。自分を一番分ってもらいたい相手、そして分かってあげたい相手、近づきたい相手との「心のズレ」。それによって広がる「心の距離」。その距離は一度開いてしまうとなかなか埋められない。気がついた時には手遅れになっているなんて話も少なくない。
人と人が離れる一番の原因は「価値観の違い」、「性格の不一致」が挙げられるようだが、生まれも育ちも違う他人どうしが出会って一緒になったり、たとえ家族でもやはり別人格であることを考えると「価値観」も「性格」も異なるのは当たり前だ。そんな大前提はみんな分かっている。だから、おそらくその違いに苦しむのではない。問題は大事な場面での「心のズレ」。つまり修復不可能なズレ、癒すことのできないズレが、やがてヒビとなり決定的な亀裂となる。
相談してくれたある生徒の悩みは、まさにそれだった。
「親はアタシを分ってくれない・・・。」彼女の訴えをすべて聞いたが、ことごとく親との心の行き違いに苦しむ内容だった。
期待の裏返しとなって出てくる親の何気ない一言。彼女の心のエネルギーの状態を考えずつい出してしまう親としての要求。
彼女は泣きながら言った。
「全部アタシの為を思って言ってくれているのは分かってる。でもそれにはまだ答えられないんだよ~。それが悔しくてつらくて・・・」
オイラは教師である以上、全面的に子どもの味方だが、話を聞いていると親の気持ちも痛いほど理解できる。
陸上競技の「高跳び」をやったことがある人は分かると思うが、ある程度の高さまではスイスイと跳び越せるが、ギリギリの高さになるといよいよきつくなる。調子が良ければクリアするし、悪ければ設定されたバーは体のどこかに触れて落ちる。
親の期待や要求も、今の状態で跳び越せる高さと、その子どもが頑張れば跳び越せる高さと、今の状態では到底跳び越せない高さと、粘り強く練習すれば跳び越せる高さなど、いろいろな設定を必要とするのだと思います。
それは我々教員が生徒に設定するバー(期待値)も同じだとは思うが、「心のズレ」が取り返しのつかない亀裂にならないようにとだけは注意したい。
「与えている側が愛情だと思っていても、それを受けている側は必ずしもそれを愛情だとは受け止められないことがあるのです。そのズレはその当人同士の距離が近ければ近いほど悲しいものです。距離が近い人との心のズレは悲しいものです。」
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