まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

映画 『神様のカルテ』 再説

2012-09-24 17:23:39 | お仕事のオキテ
小説 『神様のカルテ』1から3まで読んだんですが、
全部読み終わってみて改めて映画化された 『神様のカルテ』 のことを考えてみると、
いろいろと気になるところが出てきました。

まず、この映画のキャスティングは全体的にはよかったと思うんです。
妻の栗原榛名役の宮崎あおいは映画を見る前からはまり役だというのは明らかでした。
私は別に宮崎あおいのファンでも何でもないんですが、
栗原榛名のあの浮き世離れした可愛らしさと芯の強さというのは、
宮崎あおいでなければ表現できなかったような気がします。
救急外来師長の外村を演じた吉瀬美智子、
内科病棟主任看護師の東西直美を演じた池脇千鶴もいい人選でした。
その他、男爵役の原田泰造とか貫田先生役の柄本明とかいい配役に恵まれていたと思います。
それらに比べて、主役の栗原一止は櫻井翔でよかったんでしょうか?
いや、櫻井翔がどうこうというよりも演出の問題なのかな?
地方病院の激務で疲れ果てている感じを出そうとしているのはわかりましたが、
あまりにも覇気がなく描かれすぎていました。
疲れ果てて地域医療の現状に不満を抱きつつも、目の前の患者を助けるという信念に支えられて、
古臭い文学かぶれの言葉を使いながら飄々と仕事をこなしていく、
そういう原作の栗原一止のイメージとはだいぶかけ離れてしまっていたように思います。
特に 『2』 や 『3』 では栗原一止の毅然とした側面が表面化してきますから、
続編も映画化されるのだとすると、『1』 のドロンとした目の櫻井翔ではダメでしょう。
私が原作を読んでいたときのイメージでいうと、堺雅人あたりかなと思っていたんですが、
まあキャスティングは今さら言ってもしかたないので、
櫻井翔と深川栄洋監督に期待することにいたしましょう。

要潤が演じた同僚医師の砂山次郎も疑問が残りました。
これもキャスティングというよりはやはり設定、演出なのかなあ。
まず設定変更として、医大の同期ではなく先輩という位置づけになっていたように思います。
原作では、同期の気安い間柄 (ラポール) を前提とした上での悪口の応酬と、
いざというときのお互いの助け合いが物語にテンポをもたらしていたのですが、
映画ではそこらへんの面白さが全部カットされてしまっていました。
砂山が単純に医局 (大学病院) 寄りの人間として描かれていて、
医局に属しながらも本庄病院での仕事にやりがいを感じている砂山の深みが、
まったくスルーされてしまっているのが残念でした。

設定変更で一番気になったのは、栗原の上司の一人である内藤先生を、
完全に排除してしまったことでした。
原作では、本庄病院の内科には大狸先生と呼ばれる貫田先生と、
古狐先生と呼ばれる内藤先生がいて、
この2人が 「いつでも安心して受診できる病院を作ろう」 という理念の下、
「24時間、365日対応」 というムチャな医療を支えてきたことになっていました。
ところが映画はこの2人を1人にまとめてしまって、
古狸先生1人だけという設定に変えてしまったのです。
映画を見たときは尺の問題でこれも仕方ないかなあと思っていましたが、
『2』 を読んでみたらとんでもないことになっているじゃないですかっ!
古狐先生がいないと 『2』 は成り立ちません。
したがってもう 『2』 は映画化できないかもしれません。
何とか大狸先生に古狐先生の代わりをやらせることで 『2』 は乗り切ったとしても、
今度は 『3』 以降が続かなくなってしまいます。
やってしまいましたねぇ。
今頃、脚本家は頭を抱えているかもしれません。
ネタバレになってしまうのでこれ以上書けませんが、
原作を全部読み、映画も見た方は私のこの心配を共有してくださることと思います。

小説の映画化っていうのは難しいですね。
特にシリーズものの場合はある程度、原作の行く末がはっきりしていてくれないと、
どこを省き、どこを残さなきゃいけないのか、
どの役柄やどのエピソードをどこまで変えてしまっていいのか判断がつきません。
続編の映画化が危ぶまれるくらい設定変更を行ってしまった 『神様のカルテ』。
はたして 『2』、『3』 が映画化されるのかどうか楽しみに待ちたいと思います。

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