新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月29日 その2 酷暑の下で雑感を

2023-07-29 14:02:40 | コラム
この世には色々とあるもの:

ファミレス探訪記:
何年振りかで土用の丑の日の前にと「鰻丼」を求めて大久保通りの「ガスト」に入って見た。ここは元はといえば同じスカイラークの「ジョナサン」だったところ。その頃の記憶で空いているだろうと思いきや、後から後から人が入っていく。中を一目見れば往事とは全く異なって広くて整然となっていた。しかも、通路にはピカピカと照明を光らせて「配膳ロボット」が動いていた。これを初めて見ただけでも気後れしそうになった。

着席して、最早何処に行ってもお定まりのタブレットをいじって何とか鰻丼を発見して、何とかかんとか家内の分を入れて2人分を発注。配膳ロボットが来たどうしようかと身構えていた。隣のテーブルには高齢の夫妻と青年ではない息子さんたちと4人が配膳待ちだった。そこに先ず1人分が通常の配達の後でロボットがやってきた。何とか料理を受け取った後でどうやって返すか解らずにウエイトレスを探して「何とかしてよ」となった。難しい時代になったものだ。

我々の鰻丼は手で配達され、支払いもセルフレジではない方を選んで無事に現金で決済。「セルフレジなんて何するものぞ」と思ったが、クレディットカードも受け付けるが基本的に何とかpay用の代物なので、当方はお呼びではなかった。ファミレスは3~4年振りだっただが、こういう変わり方をしていたと学んだ一時だった。

雨降りよりはましなので:
昨日、我が家のエレベーターの中で、汗びっしょりの宅配便の配達員と一緒になった。思わず「これほど暑いと大変でしょう」と声をかけてしまった。だが、その返事は意外なもので「それでも暑い方がいくらかましなのです。雨が降れば配達の荷物が濡れないように気を遣ってびしょびしょに濡れてしまうのですからかなわないのです」だった。

そう聞いてみれば、沢山の荷物を抱えて雨中を疾走している彼らの姿を見たこともあった。その挙げ句に不在で再配達にでもなったら、もっと大変なことになるのかと、この答えで初めて知った。でも、都内で36度は如何にも暑すぎると思うのだ。

ビッグモーター問題:
この件はもう余り取り上げなくても良いと思うが、各テレビ局が、陳腐な言い方になるが、堰を切ったかのように詳細に旧悪、じゃなかった現悪かな、を報じ始めたので、当方も一枚噛んでおこうと思った。それは、ある博学の方が「これほど方々で色々と詳細に彼らがやってきたことを暴いてしまえば、あの会社に残された道は破綻くらいしか残らなくなるのでは」と静かに語られたことである。

この時点では国交省に立ち入り検査は始まっていなかったし、金融庁も具体的な対応まで公にされていなかったし、損保ジャパンの縁切り声明も出ていなかった。だが、あの新社長(前専務)の自信ありげなビッグモーター無謬説を聞けば、とてもそんな次元で収まる案件ではないのは明らかである。あの街路樹を除草剤で枯らしてしまった一件などは、あの会社に対する心証を非常に悪くしたと見ている。

この事件(なのだろう)が発生して以来、一寸だけ不思議に感じたことがあった。それは、誰もあの会社員の扱い方や働かせ方を見て「ブラック企業だ」と決めつけていないこと。余りにも酷い社員の扱いと働かせ方だと思うのだが。ただ、今後の展開如何で、事の成り行きとして倒れてしまうよう事態になれば、何百名(?)かの罪なき社員まで失職させてしまうのではないのか。その責任を前社長は取るのだろうか。


カタカナ語の問題点を考えて見よう

2023-07-29 07:31:54 | コラム
「パワー」ってどういう意味:

これまでに繰り返して「カタカナ語の問題点というか英語の単語の意味を正確に理解していないままに創り上げられ、使われていることに疑問を呈してきた。また「使うのは自由だが、英語の本来の意味とはかけ離れていると承知の上で使うよう」とも言ってきた。今回は偶々テレビの画面に現れた「パワー」を取り上げて、その問題になる辺りを紹介してみようと思う。ご用途お急ぎでない方は是非ご一読を。

先日のこと、なかやまきんに君という芸人(なのだろうか)が、彼の持ちネタだろう「パワー」と甲高い声で叫んでいるのを聞いた。彼は鍛え上げた筋肉を誇っているのだから、あの「パワー」は「力」か「力強い」と言いたいのだろうと思っている。だが、どう考えても“power”という単語のnative speakerたちの使い方では「力」とか「力強い」という意味の身体的強度を一義的には使われてはいないのだと解釈している。

そこで、例によってOxfordでは如何なる扱いになっているかを見てみると、名詞としてのpowerでは4番目と5番目に登場していた。1番目には、私がそういう意味だと理解している「人々か物事をコントロールする能力」が出てくる。2番目が「国かある地域を政治的に支配する」なのだ。即ち、身体能力としての「力」の意味はあるのだ。同様に、ジーニアス英和でも身体能力は4番目の扱い。

そこで、最近広まり始めた「生成AI」とやらの部類に入るのかと思って、しきりにスクリーン上に出てくるマイクロソフトのBingではどのように答えてくれるかと思って質問してみた。その答えを参考までに引用してみよう。私としては納得できる解釈だった。

>引用開始
英語のpowerはカタカナ語で「パワー」となり「力」か「力強い」という意味になっていますが、実際の英語では様々な意味や使い方があります。例えば:
  • 物理的な力や能力を表すときに使います。例:the power of nature(自然の力)1
  • 動力や電力を表すときに使います。例:nuclear power(原子力)1
  • 人の肉体的・精神的な能力や才能を表すときに使います。例:the power of persuasion(説得力)1
  • 国家や組織の支配力や権力を表すときに使います。例:the party in power(政府与党)1
  • 有力な人や強国を表すときに使います。例:a power in politics(政界の実力者)1
  • 神や超自然的な力を表すときに使います。例:the powers that be(当局、官憲)1
  • 物理学では仕事率、数学では累乗、光学ではレンズの倍率などを表すときに使います。
以上のように、powerは文脈によって多くの意味を持つ単語です。カタカナ語で「パワー」というと、「力」か「力強い」という意味に限定されてしまうことがありますが、英語ではもっと広い意味で使われることが多いです。ご参考になれば幸いです。
<引用終わる

お仕舞いの一節が言い得て妙な表現になっていると思って読んだ。こういう意味なのだと思うので、「あの選手はパワーがある」とか「パワフルなバッテイング」などと言うのは強ち誤りではないが、「英語の単語を使ったと言うよりも、カタカナ語化されて日本語の一部になった言葉だ」と認識して使って貰いたいものだ」と考えている。

「パワー」そういう使われ方のほんの一例に過ぎず、これ以外にも沢山あると思っていて良いだろう。私は何かと言えば「困難なことの度合い」と言いたくて濫用されている「ハードル」もその中に入れて良いと思っている。英語では二儀か三義的に「何かを達成する前に解決しておくか処理しておくべき問題か困難なこと」の意味である。「高い、低い」で論ずるのは言葉の誤用だと思っている。大体からして障害物競走のハードルの高さは一定ではないか。


7月28日 その2 「我が国のスポーツ界の後進性を嘆く」の訂正版

2023-07-28 13:10:19 | コラム
頭に死球を受けた青木宣親を担架で運んだ:

ヤクルトの青木宣親選手が広島の栗林投手の速球を頭に受けて転倒する場面をYouTubeで見て、その対応というか処置が余りにも非科学的で非近代的だったのには怒りすら感じていた。この一昨日の試合はテレビ中継もなく、死球のこともマスコミが大きく伝えていなかったので知らなかった。

画面では青木選手は倒れたきりで立ち上がらず、僅かに手を振っているところは見えた。脳震盪かまたは何か重傷であったかどうかよりも、頭部に当たったことは重大な生命に関わる危険もある事故なのだ。問題としたい点は下記のように多々ある。青木宣親選手の無事を祈っている。

頭部の損傷:
先ずは「頭というか脳に損傷があれば生死の問題になるという事が、未だに認識できていないこと」は深刻な問題なのだ。これは何も野球界だけの現象ではない。もしかすると「一寸くらいの怪我で狼狽えるな。根性でいけ」などという気風が未だ残っているかも知れないと疑っている。絶対にそうであってはならない。

頭に何か当たったか衝突があった場合の取り扱いは、慎重の上にも慎重であるべきなのだ。あの場で集まった者たちは「無闇に動かしてはならないことが解っていないようだ」と、常識と認識不足を嘆いていた。あの場に白衣の医師の姿が見えなかったのには、怒る前に情けなかった。

施設の不備:
次は「球場/競技場の医療態勢の驚くべき不備な点」である。これまでに何度も指摘したが「救援投手を自動車で連れてくることよりも、負傷者を安全に場内の医務室に搬送するように、最低でもストレッチャーかカートを用意しておくべき」であるのだ。ストレッチャーであれば、救急車にそのまま乗せられるではないか。

だが、サッカーでもラグビーでも審判員が要請するのは人力で運ぶ担架である。

重ねて言うが、特に頭の損傷があるのではと懸念した場合の処置は「動かしても良いか」と、臨場した医師の判断を仰ぐべき性質なのだ。

あの場面には白衣を着用した人の姿は見えなかった。そして、やおら現れたのが担架であり「せーの」で青木選手を人の手で持ち上げてベンチの中に消えていった。恐るべき無神経さではないか。動かしても良いかの判断もないままに、揺れているだろう担架とは、論評の限りではない。まさか、青木選手が「大丈夫」とでも言ったのかとすら疑いたくなった。

アメリカでは:
アメリカの例を挙げて、遺憾ながら非科学的で非近代的な我が国の施設の問題点を挙げておこう。それは「アメリカでは外科医だけの駐在ではなく内科医も準備してあることもあると聞いている。当然のことでX線撮影の機器は据え付けてある。内科医は何も選手だけではなく観客も発症する危険性もあるからだと聞いた。

細かい理屈を言えば、外科医よりも整形外科医の方が必要かも知れない。自動車かストレッチャーによる搬送だが、NFLの試合を見ていれば「何が必要であるか」は解ると思う。それくらいの投資を惜しむなということ。ストレッチャーか自動車にすれば、担架を運ぶ数名の人員は合理化できるだろう。予算の使い方を誤っている。

何で陸上競技用のトラックを設けるのか:
上記の問題と直接の関係がない疑問点も挙げておこう。それは、今や少し理解が進んで秩父宮ラグビー場や幾つかのサッカー専用の競技場にように「陸上競技用のトラックが設けられていない」例もある。

だが、あの何とか言う建築か設計した国立競技場のように、オリンピックのためのトラックを設け、終わったら外すはずだったものが予算の関係とやらで残されてしまった。あれがあると「サッカーやラグビーやフットボールは遙か彼方で競技が進み、観客にはよく見えなくなるのだ。

ところが、施設を造る側の役所や地方自治体は良く分かっていないようで、偶にしか使わないトラック種目の大会のためにあれを付けてしまうのだ。そうすることで、観客にとって見にくい競技場になるとは理解していないのだ。困ったことだ。

だが、「予算が云々」と言い出されれば、中々抵抗できないことのようだ。要するに「何かの専用競技場であってはいけない」というような判断が働くらしい。「ものを知らない連中だな」と何時もウンザリさせられている。


我が国のスポーツ界の後進性を嘆く

2023-07-28 07:38:06 | コラム
頭に死球を受けた青木宣親を担架で運んだ:

ヤクルトの青木宣親選手が広島の栗林投手の速球を頭に受けて転倒する場面をYouTubeで見て、その対応というか処置が余りにも非科学的で非近代的だったのには怒りすら感じていた。この一昨日の試合はテレビ中継もなく、死球のこともマスコミが大きく伝えていなかったので知らなかった。

画面では青木選手は倒れたきりで立ち上がらず、僅かに手を振っているところは見えた。重傷であったかどうかよりも、頭部に当たったことは重大な問題なのである。問題としたい点は下記のように多々ある。青木宣親選手の無事を祈っている。

頭部の損傷:
先ずは「頭という可能に損傷があれば生死の問題になるという事が、未だに認識できていないこと」は深刻な問題なのだ。これは何も野球界だけの現象ではない。もしかすると「一寸くらいの怪我で狼狽えるな。根性でいけ」などという気風が未だ残っているかも知れないと疑っている。絶対にそうであってはならない。

取り扱いは慎重の上にも慎重であるべきなのだ。あの場では「解っていないようだ」と、常識と認識不足を嘆いていた。あの場に白衣の医師の姿が見えなかったのには、怒る前に情けなかった。

施設の不備:
次は「球場/競技場の医療態勢の驚くべき不備な点」である。これまでに何度も指摘したが「救援投手を自動車で連れてくることよりも、負傷者を安全に場内の医務室に搬送するように、最低でもカートを用意しておくべき」であるのだ。だが、サッカーでもラグビーでも審判員が要請するのは人力で運ぶ担架である。

重ねて言うが、特に頭の損傷はあるべき形は「動かしても良いか」と、臨場した医師の判断を仰ぐべき性質なのだ。

あの場面には白衣を着用した人の姿は見えなかった。そして、やおら現れたのが担架であり「せーの」で青木選手を人の手で持ち上げてベンチの中に消えていった。恐るべき無神経さではないか。動かしてよいかの判断もないままに、揺れているだろう担架とは、論評の限りではない。まさか、青木選手が「大丈夫」とでも言ったのかとすら疑いたくなった。

アメリカでは:
アメリカの例を挙げて、遺憾ながら非科学的で非近代的な我が国の施設の問題点を挙げておこう。それは「アメリカでは外科医だけの駐在ではなく内科医も準備してあることもあると聞いている。当然のことでX線撮影の機器は据え付けてある。それは、何も選手だけではなく観客も発症する危険性もあるからだと聞いた。

細かい理屈を言えば外科医よりも整形外科医の方が必要かも知れない。自動車かカートによる搬送だが、NFLの試合を見ていれば「何が必要であるか」は解ると思う。それくらいの投資を惜しむなということ。カートか自動車にすれば、担架を運ぶ数名の人員は合理化できるだろう。予算の使い方を誤っている。

何で陸上競技用のトラックを設けるのか:
上記の問題と直接の関係がない疑問点も挙げておこう。それは、今や少し理解が進んで秩父宮ラグビー場や幾つかのサッカー専用の競技場にように「陸上競技用のトラックが設けられていない」例もある。だが、あの何とか言う建築か設計した国立競技場のように、オリンピックのためのトラックを設け、終わったら外すはずだったものが予算の関係とやらで残されてしまった。あれがあると「サッカーやラグビーは遙か彼方で競技が進み、観客にはよく見えなくなるのだ。

ところが、施設を造る側の役所や地方自治体は良く分かっていないようで、偶にしか使わないトラック種目の大会のためにあれを付けてしまうのだ。そうすることで、観客にとって不便で見にくい競技場になるとは理解していないのだ。困ったことだ。だが、「予算が云々」と言い出されれば、中々抵抗できないことのようだ。要するに「何かの専用競技場であってはいけない」というような判断が働くらしい。「ものを知らない連中だな」と何時もウンザリさせられている。


7月27日 その2 2023年6月の新宿区の人口:

2023-07-27 09:51:49 | コラム
23年6月の新宿区の人口は413人の増加で348,029人となった:

23年6月の新宿区では人口が348,029人に増加して、何とか「都内の住みたいところ」の5番目だった事の面目が保たれたようで結構だった。その内訳を見ると、外国人は360人の増加で41,430人となり、その区全体の人口に占める比率も11.9%と5月よりも僅かに上昇していた。日本人が53人の増加で306,609人となっていた。

当方はマスク無しの人が外国人のみならず日本人にも急増している現象に恐れをなして、日頃の行動範囲からの逸脱を避けている。従って「インバウンド」と呼ばれている観光客がどれ程増えたかの実感が乏しいが、高田馬場駅周辺にも明らかに低層としか見えない外国人が著しく増えている。こんな所に観光名所(tourist attraction)があるのかと思う。百人町界隈ではイスラーム教の諸国と東南アジア系の人たちが増えたが、中国からは増えていないのが実感。

今月は止むを得ぬ事情で、日頃の行動範囲を超えて新宿駅西口の方角にあるドコモショップを予約した上で2度訪れた。そうとでもしないと待ち時間が長くなるのだそうだ。実際に行ってみて解ったことは「イスラーム教国か中近東の人たち」と思しきお客で繁盛していた状況。

私が不思議に思うことは「彼らが如何なる在留資格で如何なる職について、携帯電話代を負担できる経済的な能力があるのか」なのだ。店舗にはチャンとそういう外国人対応の外国人が採用されている。

悲観論者であり、外国人をそれほど有り難い存在だと思っていないので、テレビのニュース等に映し出される観光客や、ここ新宿区を訪れている人たちの風体を見ると、彼らに我が国の経済にとって多くを期待できるのかと疑いたくなる。解りやすく言えば、私がアメリカで「支配階層」と呼んでいるような人たちが来ているとは、とても思えないのだ。しかも、観光地の受け入れ側では「人手不足」できりきり舞いだと言うではないか。

政府はインバンドを推進されるのであれば、そういう問題に対処できる態勢を整えられるような予算的措置(財政出動とは言わないが)も講じておかなければならなかったのではないか。民間の犠牲でインバウンドを誘致してどうするのかな、などと思ってみている。ある観光地のホテルでは「掃除は不要」との意思表示をすれば、某かの戻しが得られるようになっている。政治家に実態を知ってそこまでの目配りができるのかと不安だ。

兎に角、この新大久保駅前から我が家との間を結ぶ文化通りは、望ましいとは思えない低次元の国際化が一層進んでしまった。何度でも言うが、このように見るも無惨な形が、外国人を無闇に有り難がる我が国の衣装来の形の一部を示しているのだと思う。先日も何処かで報道した、埼玉県の川口市にはトルコ人と言われているクルド人(Kurds)の騒ぎがあったそうだ。これだけではない、至る所に中華街があるではないか。

ご用とお急ぎでない方は是非一度山手線を利用して百人町/大久保界隈の実情を観察して貰いたいのだ。外国資本に企業や不動産が買収されていくのは好ましくないが、この地区に見られるような発展途上国からの入国を許すと、上記のような低次元の国際化が小規模に進んでしまうこと痛感させられるだろう。誤った使われ方のカタカナ語で言えば、外国人を招き入れると「メリット」と「デメリット」があると知るべきだ。