1990年に再建された、今の瑞暉亭(ずいきてい)
スウェーデンの首都ストックホルムにある国立民族博物館、
そこに趣深い茶室「瑞暉亭(ずいきてい)」があります。
もちろん暁庵はその茶室へ行ったことはありませんが、
写真を見て次々と興味が湧いてきました。
「えっ! これがOさんのお話にあった茶室(写真)なのね。なんて素晴らしいのでしょう!
日本から遠く離れたスェーデンにどうしてこのような立派な茶室が建設されたのかしら?
瑞暉亭(ずいきてい)とはどなたが命名されたのかしら?
今、瑞暉亭でどんな茶の湯が行われているのかしら?」
送られた資料を読むと、複雑な(?)長い歴史があることがわかりました。
1935年(昭和10年)最初に建設された瑞暉亭は1969年に焼失。
長らく空き地になっていましたが、1990年に再建され今に至っています。
瑞暉亭の今昔と題して、ふたつの瑞暉亭の由来などを勉強し、一部紹介したいと思います。
昔の瑞暉亭
1.スウェーデン人女性・イーダ・トロツィグの嘆願
日本の茶室がスウェーデンに建設されることになった発端は、イーダ・トロツィグ(Ida Trotzig,1864-1943)というスウェーデン人女性の嘆願によるものでした。
(これから記す概略は古い話なので確証がないものもあるらしい・・・ことをお断りしておきます)
イーダは32歳年上のヘルマン・イーダ・トロツィグと結婚、夫とともに来日し、30年以上日本に滞在しました。
ヘルマン・トロッチック(Herman Trotzig,1832-1919)は船員として1859年に長崎へ到着した後、日本に留まり、アーノルド・グルームやグラバー商会などに勤務しました。
1868年(慶応3年)居留地を長崎から神戸に移した後、神戸居留地行事局長や同警察署長を歴任しています。
ヘルマンはスウェーデンに一時帰国した際にイーダと結婚し、ドイツ滞在を経て、1888年頃に再び夫婦で来日しました。。
1899年(明治32年)に国内のすべての居留地が日本に返還されたのを機に、職を辞し引退しますが、その後も神戸に住み続け、1919年(大正8年)に日本でその生涯を閉じました。
今の瑞暉亭の水屋(表千家流仕様らしい)
イーダは夫と1888年(明治21年)頃に来日して以来、30年以上日本で暮らしましたが、
その間、日本語や日本文化を学び、特に茶道(表千家流)と華道を本格的に学んだそうです。
(イーダが日本のどこに住み、茶道や華道をどんな人達からどのように学んでいったのか? その過程について知りたいものです・・)
夫ヘルマンの死後、イーダはスェーデンへ戻りました。
イーダにはスウェーデンに本格的に茶道を紹介したいという志があり、そのためには茶室が必要と考えたのです。
当時、ストックホルムの民族博物館館長であるG.リンドブロム博士らの知人に、茶室建設のための出資を依頼したり、茶室の建設を嘆願したりしています。
(茶室という茶の空間を通して日本の茶道の真髄を伝えたいと考えたイーダに、茶の湯への志の深さを感じました。
残念ながら、イーダ・トロツィグの生涯や日本での生活についてほとんどわかっていないのですが、茶の湯の著書も出版しているとか・・・)
「瑞暉亭の今昔-2へ続くよ」
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