暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

井上良斎の茶碗と窯場

2009年07月02日 | 茶事
「横浜開港150周年を祝う茶事」では横浜にゆかりのある
陶芸家の茶碗でお茶を差し上げたい・・・と思いました。

ご縁があって井上良斎作の茶碗を入手することができました。
共箱に「十五世市村羽左衛門追憶 渦茶碗 
神奈川焼 井上良斎」と書かれていました。

茶碗は白磁に少し色がついた総釉で、形は呉器茶碗に似ています。
高台は高く、外側に開いた撥高台です。
手に取ると、とても薄手で、繊細な作りです。

大きな渦模様が茶溜りにすっきりと描かれていて、
抹茶を飲むにつれて渦の中心に近づいていくようです。

横浜市南区に長く住み、作陶を続けた三代井上良斎の存在を
私が知ったのはつい最近のことです。

初代良斎は江戸末期に尾張瀬戸から江戸へでて、
浅草に窯を築き、隅田焼を名乗りました。

17才で家業を継いだ三代井上良斎は、輸出に便利な
横浜高島町(横浜駅東口構内)へ窯を移しました。
しかし、1923年(大正12年)の関東大震災で被災したため、
新に南区永田東の傾斜地に登り窯を築きました。

近くの南区庚台には横浜真葛焼の宮川香山の窯場もありました。
二人の窯場のある丘陵の下には大岡川が流れていて、
舟運を利用して陶磁器を横浜港まで運ぶことができたのです。

1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲の日、
かつての横浜焼を代表する宮川香山と井上良斎、
二人の運命は明暗を分かちます。
この空襲で宮川香山は家族、従業員とともに焼死し、
井上良斎と登り窯は被災を免れました。

戦後、井上良斎は神奈川焼を名乗って創作陶芸家として活躍し、
横浜文化賞、芸術院賞などを受賞して、芸術院会員にもなりました。
1971年(昭和46年)に82歳で亡くなっています。

登り窯と作業場のある旧宅は今でも健在で、
「永田の登り窯と自然を守る会」(代表・川井さん)によって
大切に保存されています。

登り窯がある傾斜地には清水が湧き出し、小さな池、水路、
畑があり、野の花が咲き乱れていました。
井上良斎が住み、製作に励んでいた頃と
少しも変わっていないのでは・・・
と思うほど、自然豊かな一画です。

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