はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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先に、以下のように述べた。

「時間が経過したある時点において、死亡という変化が起きないのであれば、その対象は人の1個体とはいえない。」※
から以下が導かれる。
「生きている人は存在し得ない。」※※

これを基に、いろいろな事が見えてくる。

まず、※と※※は本当に論理的同値であるかどうかが怪しいという観点で議論してみよう。

生きている人が存在しないというのは、明らかに誤っていると思う人がいるだろう。(この場合をAとする)
その時は、偽命題を導く仮定は偽であるという背理法の話しに進むことになる。

あるいは、※なる前提は人の本質を表すから、否定のしようがないと思う人もいるだろう。(この場合をBとする)
その時は、「◯◯は人である」という論理的判定が不可能であることを認識することになる。

実は、上のどちらの解釈も、それなりに有意義な結論なのである。

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(A)
全ての考察は、人が存在するという前提の上に始まったのだ。明らかに、※※は偽だ。したがって、※と※※が同値であるならば、※も偽となる。つまり、「人の1個体は、いつか死ぬとは限らない」という結論が得られる。
しかし、このことは、我々がもっている自然科学的(生物学的)な知見とは食い違う、、のだろうか?
―そんなことはない。科学的に「人」と称するものの集合を規定するとき、「いつか死ぬ」ことは本質的に重要な要件ではない。例えば、特殊な冷凍保存のような処理を施して、代謝を停止させた生物個体があるとする。その個体の遺伝子を調べて、ヒトの条件に合致すれば、それは人であると判断する。今我々が知っている科学は、このような立場であることが確認されるのだ。

(B)
人が死すべきものであることは、人類の文化の最初期から認識されていることだ。これは、真・偽を論じる対象というよりは、むしろ先験的な大前提のように扱うべきだ。
確かにこれを素直に認めれば、生きている限り、その個体は人とは言えないとなる。しかしよく考えてみれば、それが正統ではないか。一見あたかも人のように見え、人のように生きてきた個体があるとする。しかし、その個体を死刑に処しても死亡しない、、一旦死んだように見えても何度でも復活する、、こういうことが起こったならば、それは人ではない(例えば神だ)ということが明らかになる。このように考えれば、生きている限り人でない可能性が残っているというのは、論理的にはもっともなことだ。

--続く



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