森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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補助金が行政をゆがめる-『クローズアップ現代』が迫る
しかし、この図式だけでいかにもいかがわしさを感じる。最近の三位一体改革によって、自治体のなかには当然、財政的逼迫に直面するところが増えてきた。いきおい財政をいくらかでも好転させようと、補助金はただちに首長の頭をよぎり、のどから手が出るほどの垂涎ものだろう。
11日に投開票がおこなわれた岩国市長選では、つきつめれば、この補助金をめぐるいくさだったといってよい。選挙戦では、補助金カットによって市財政への影響を最大限利用し、空母艦載機の移駐を容認する陣営は第二の夕張にしてよいのかなどと不安をあおった。市民のなかには、市の財政を懸念し、移駐容認派に票を投じたものが少なからずいたと推測するわけだ。実に姑息な地方自治体への管理統制、兵糧攻めといえないか。岩国市は35億円の補助金をカットされた。基地移転にかかわる補助金が交付されないばかりか、市庁舎の改築にあてる別の補助金も凍結されたのだ。
本日の『クローズアップ現代』は新藤宗幸を登場させ、今日の補助金行政のあり方を語らせた。クロ現の問題意識と番組構成はほぼ以下の番組に尽くされている。
基地の“代償”として国から自治体に交付される補助金。在日アメリカ軍の再編計画で決まった空母艦載機の移転を拒否する岩国市に対して、国は今年度の補助金35億円を凍結した。その予算措置をめぐって追い込まれた市では、10日、市長選が行われた。その結果、空母艦載機の受け入れ容認の姿勢を示した候補が僅差で当選、しかし市民の間にできた溝は深まっている。沖縄でも、これまで再編計画に反対していた自治体が、一転して受け入れを表明する事態が相次いでいる。関係者のメモや証言から、国が、補助金という"アメとムチ"を背景に、地元への説得工作を続けていたことが明らかになった。基地と補助金をめぐって、国と自治体の間で、いま何が起きているのか。各地の混乱と、攻防の舞台裏に迫る。
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このように上からの行政の管理強化に力を発揮する補助金。かつて宮本憲一は、80年代の半ばに補助金制度が再編されたことに言及している(補助金の政治経済学)。
宮本は日本の補助金行政をつぎのように特徴づける。
それは産業基盤優先、「草の根保守主義」の支柱、官僚的集権性と、3つの特徴をあげた簡潔なものだが、いずれもなるほどと我われ素人も得心できる性格づけだといえる。別のみかたをすると、戦後、自民党は補助金を駆使した。土建国家などとも一時期いわれたように公共事業を柱にして、その支持基盤を広げてきた。補助金をとおして官僚統制を強化してきた。しかし、宮本が着目するのは、民営化や規制緩和など新自由主義的施策の展開とあわせて、新たな中央集権化を図るために補助金が再編されてきたことである。
裏返せば、この再編は、社会保障などサービスの整理がおこなわれる一方で、民活導入などにはむしろ補助金政策が強化されてきたことを意味する。
だから補助金は常に国の政策を全国隅々に貫徹させるための有効な手段として巧みに利用されてきたわけである。だから、補助金をちらつかされると、自治体は「損と得」を勘定に入れないといけなくなるし、そのことはつまるところ、地方自治というものをゆがめる結果につながる。
新藤がいうように、この政府のやり方は「従うのか、従わないのか」、それを自治体に迫るという意味でまことに前近代的だといわざるをえない。
住民の意思がどこにあろうと、政府の施策にてらして、補助金を眼の前に置いて、弱みを握り反対は許さないというわけだから、根底に、住民の意思などお構いなしに政治はすすむものだという、許しがたい思想を押し付けていることにほかならない。
つまり、住民自治や地方自治を金の力で蹂躙する。こんな役割を補助金の現在は、果たしている。そこにどうしても注目せざるをえない。(「世相を拾う」08034)
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『クローズアップ現代』がみた自治体病院の今。
医療崩壊はこんな形でも現れる。自治体病院の多くが現に多額の赤字を抱え自治体の財政を圧迫している。『クローズアップ現代』がこの問題を取り上げた。
番組案内はこんな具合だ。
しかし、「病院が町を追いつめる」というタイトルは、社会保障が国家財政を圧迫するという政府の宣伝を想起させ、違和感を感じる。実際に自治体病院が苦戦し、自治体財政の大きな負担となっている事実があるにしても、それは一面をとらえたにすぎない。
自治体病院が今、地方自治体を追いつめようとしている。去年6月に成立した「地方公共団体の財政の健全化に関する法律」によって、平成20年度決算から、これまで一般会計から切り離されてきた自治体病院の会計を連結することが決定。赤字の割合が標準財政規模の40パーセントを超えた自治体は、国から「財政破綻」と判定されることになったからだ。平成17年度の全国の自治体の標準財政規模から試算すると、30を超える自治体が破綻に追い込まれる可能性がでてきたため、各自治体は対応に追われている。北海道・赤平市は、不良債務26億円の市立病院の今後について、住民達にアンケートを実施。「住民の健康」か「町の財政」か。困難な選択が迫る。地方の抱える時限爆弾ともいえる自治体病院の赤字。未曾有の事態に地方自治体、住民はどう対処するのか? 厳しい決断を迫られる地方の現場に迫る。 |
◇1
クロ現は、北海道赤平市を追った。なにしろ北海道は、国の自治体病院「縮小化」路線に沿って道内94のうち38病院が診療所化されようとしている、医療崩壊がとくに際立っている地域といえるようなところだ。番組によれば、同市の財政規模は47億円。32億円もの赤字を抱える。市立病院の経営赤字が市の財政を危機に直面させているのだ。けれど、こんなふうにもみることができる。だいいち、地方自治法にのっとって、住民の福祉の増進を図ること(*1)が自治体の仕事だととらえると、病院経営は赤字を抱え込み、一般会計からの繰入をいっそう膨らませる。これが推測できる筋道なのだから。住民の健康を守ろうと努力すればするほど、赤字がふくらむ皮肉な結果となるのだから。
番組のなかでインタビューに応じる同市の高尾弘明市長にも、この立場を保ち続けようとする意思を少なくとも読み取ることができた。実際に、少なからぬ民間が手を出そうとしない、医療の不採算部門を、自治体病院の多くは担っているのである。その結果、小山田惠氏(*2)によれば、全国には1070の自治体病院があるそうだが(05年10月時点)、そのうちの3分の2が赤字を抱えている。平たくいえば自治体病院は赤字を抱える体質をもっているということだ。この背景には、診療報酬の引き下げや政府の低医療費政策などに加え、不採算医療を担うことに対する国の財政措置が削減されてきたことも影響している。これを見逃すことはできない。
◇2
ところが、こんな経過に目をそむけ、あるいはこれを無視し、政府が採るのは民間的経営手法だった。もちろんこの導入を自治体に迫るのである。したがって今日、周りをみまわせば、おそらく少なくないところで自治体病院の地方独立行政法人化、指定管理者制度の導入、PFIなど経営形態見直しの動きがみられるだろう。それに刮目された方もあるにちがいない。
ひとことでいって医療に効率化をもちこもうとするこのような思想は、住民にとってどんな結果をもたらすのだろうか。
住民への必要な医療の提供を使命とする自治体病院が、効率最優先へ姿勢を傾斜させることは、すなわち医療への国・自治体の責任・役割の後退を同時に意味している。住民への負担増や医療水準の低下をもたらすことを含意している。別のいいかたをすれば地域の医療は切り捨てられることになる。
経営的手法を迫るだけではない。総務省はまた、医師確保や効率化推進の方策として、自治体病院の再編・ネットワーク化に着手している。これは、地域の医療圏の中核病院に医師を集約化し医療機能を充実させる一方で、その周辺の病院は医療機能を縮小し、後方支援病院・診療所にするというものだ。だから、再編・ネットワーク化は、中核病院のある地域の住民には恩恵を与えるものの、縮小される地域の住民は医療水準が後退する。地域間で医療格差はむしろ拡大する。
住民に近いところで、かゆいところに手のとどく医療を提供することに従来の自治体病院の役割があったとすれば、総務省が考えているネットワーク化は、ちょうど対極のものだといえる。従来の姿が一つひとつの糸はたしかに細いが、網の目のように住民にちかいところまで広がっていたのに対して、太くはあるが、しかし目の粗い連携網をつくろうとしているわけだ。こうたとえることができるだろう。
◇3
2007年6月、「地方財政健全化法」が成立した。財政の健全化を4つの指標ではかり「早期是正」の制度を導入したことが特徴だった。その指標の一つに自治体病院会計と一般会計の連結が入れられた。地域医療をささえる自治体病院が赤字で、連結の指標が悪化すると、国の統制を受けることになりかねない。そのため自治体は、赤字の自治体病院の運営から撤退する方向に向かわざるをえなくなる。
だから、冒頭の番組案内のような、「住民の健康」か「町の財政」か、という二者択一を迫る問題の設定そのものが欺瞞に満ちている。住民が必要とする不採算な部門を自治体病院は担ってきたのだし、不採算を引受ける以上、そこにはどんな形であれ財政的補助が必要なのである。
国庫の投入を削減しつつ、経営悪化を理由に、「健全化」といって再編・効率化を迫る。これでよいのか否か。基本的なところで思想闘争が問われている。
地域の医療のあり方を考える際、不可欠なのは住民とともに考えるということだ。地域医療に住民は何をのぞんでいるのか、地域医療をどのように成り立たせていくか、住民とともに考えていく姿勢がなければ問題の解はえられない。住民不在のやり方では住民のかかりやすさなど保障もされないのだ。
◇4
公営企業の役割は住民の命や暮らしに直結する。そのことをきちんと評価させるとともに、地域医療をささえる自治体病院に対する財政支援の強化や医療制度の変遷の一つひとつを振り返ることが必要である。その際、自治体病院なのだから、その運営に地域住民の声が反映されなければならない。番組では、国谷裕子もこれにふれることはなかった。そしてコメントをのべる立場の跡田直澄慶大教授には、政府の政策を所与のものとして議論をすすめる点で不満を私は感じたし、住民意思の尊重を軸にものごとを考えようとする視点を彼のコメントに感じ取ることはできなかった。しかし、それなしには、地域の医療崩壊、端的には自治体病院の役割を再確認することはできない、そうあらためて実感させる番組であった。(「世相を拾う」08033)■よろしければ、応援のクリックを ⇒
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*1;第1条の2
地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。
*2;全国自治体病院協議会会長
基地の島。基地のまち・岩国。
政府、少女暴行に抗議=米側、捜査に全面協力 |
沖縄県で発生した米兵による女子中学生暴行事件を受け、外務省の西宮伸一北米局長は11日、在日米大使館のドノバン次席公使に電話し、「米軍人による犯行であるとすれば、極めて遺憾だ」と抗議するとともに、在日米軍の綱紀粛正と再発防止を申し入れた。これに対し、次席公使は「事実関係の調査を見守る」とした上で、「米側としても事態を深刻にとらえており、日本側の捜査に全面的に協力していく」と応じた。 この後、同省の今井正沖縄担当大使はジルマー在日米海兵隊司令官に対し、同様の申し入れを行った。司令官は「綱紀粛正を徹底させたい」と答えた。 |
当たり前の対応だが、今後の米軍・米兵のふるまいを規制できる可能性はほとんどない。
何度も繰り返されてきたという事実が、すでに、申し入れた在日米軍の綱紀粛正と再発防止という言葉を軽くし、無意味なものにしている。綱紀粛正も再発防止も米軍自身に本来ただす力があるのなら、今日の事件はおよそなかったろう。
再発防止を確実にするには、米軍の沖縄駐留をやめることである。
沖縄がかつて「本土復帰」を願ったのは平和憲法の下への帰属だったはずである。なのに、皮肉なことに、せっかくの平和憲法を「戦争のできる憲法」へと変えようと、国民投票法を成立させることで日本はこれにこたえた。
同じように、米国は、日本を守るために日米安保条約を日本と取り交わしたが、その米兵は日本人女性を蹂躙する。米兵は、海外には出ていくが、けっして日本は守らない。この許しがたい暴行というパラドックス。
それだけではなく、この日本の姿勢は何を示すのか。
自衛隊の海外派遣「積極的に」 高村外相 |
ミュンヘン安全保障会議に出席した高村外相は10日、アジア地域の安定の構築をテーマに演説し、「日本は『平和協力国家』として、国際社会において積極的な責任と役割を果たしていく」と述べ、国連平和維持活動(PKO)など自衛隊の海外派遣に前向きに取り組む姿勢を強調した。9日にはロシア、米、ドイツの関係閣僚とも会談した。
演説では「現行制度下で参加できる国連ミッションへの参加を積極的に進めたい」としてPKOへの取り組みに言及したうえで、自衛隊の海外派遣を随時可能にする恒久法(一般法)についても「必要な法制度の検討を進めていきたい」と語った。中国の軍拡にも触れ「軍事力の近代化や軍事費の増大は地域の懸念を増大させる」として、欧州連合(EU)側による対中武器輸出解禁の動きを牽制(けんせい)した。 |
米軍のための、集団的自衛権の行使をめざすものであるのは他言を要しない。
岩国市では井原氏がまさに惜敗した。依然として米軍基地再編にたいする住民の意思が厳然としてあることを結果は示している。一方で、この基地再編が沖縄の普遍化だと以前にのべたが、選挙結果は、岩国の今後がこれと直面することを意味する。
沖縄の現在は、観光地としての沖縄と、基地の島としての沖縄とに、常に政治と資本が介入し引き裂かれている。移駐容認の首長をいだくことになった岩国は、沖縄と同様の軌跡を描くことにならないか。(「世相を拾う」08032)
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山口二郎氏へ。税のあり方から今をみつめよ。
かつて消費税を導入しようとする際、直間比率を為政者は語ったものだった。しかし、その直間比率も、消費税が導入されて以後は語ることはできなくなったのである。そこで、社会保障のために、あるいはそれを支えていくには増税しかないという口実を採用してきた。増税の口実に社会保障を持ち出すのは今に限ったことではないが、いよいよ絞られたというわけだ。
その上で、山口二郎氏は、福祉国家というタームを持ち出し、分断を図ろうとしている(下記参照)。
つまり、自民党政権に違和感をもたない有権者の支持、少なくとも同意、暗黙の了解を得なければ、増税はやれない。むろん選挙を前にしてはもっと状況は厳しくなる。政権交代を御旗にして有権者の支持を取り付けてきた民主党だが、すでに同党「税調代表」の藤井裕久が消費税増税を打ち出した。少なくとも参院選で民主党を勝たせたのは、有権者の自民党政治にたいする反発以上のものではないと私は思っているのだが、そうであっても、この層が増税に反対しては増税はおこなえない。
山口氏の議論は、まずここに揺さぶりをかけたものだ。民主党にということではなく、民主党を参院選で支持した有権者にむけたものである。あえて民主党にといわないのは、民主党は消費税増税派であって、その立場を明確にするか否かは状況によって決まる。それによって同党は決める。それだけのことだ。だから氏の言説は選挙のたびに自民、民主を行き来する有権者に向けられたものといってもよいだろう。
その上で、むろん山口氏は、民主党支持者のうちの旧社会党を支持してきた人たち、そして社民党支持者をも視野に入れている。共産党支持者もかな。福祉国家を持ち出すのはそのためだ。税金のつかいみちという点でいえば、氏の言葉を借りれば、左派は、無駄な公共事業をやめ、福祉や教育に使えという方向は、大なり小なり共有しうるからである。
しかし、税のあり方を考えることは社会のあり方を考えることであるという山口氏にしたがい、それでは現実をまず、ながめてみてはどうか。氏自身にも問いたいのだが、今の枠組みのなかで迫られている課題はごろごろしている。今国会の入口のところから焦点になっている道路特定財源問題。10年間で59兆円の「中期計画」を見直せないのか。暫定税率を廃止できないのか。これらの課題の解決の可能性は、将来にむかって福祉国家を国民が選択する可能性にくらべるとどちらが大きいか、自ずと明らかだろう。
どこから税をとるのかというのは、どこに税を配分するのかという問題とはもちろん異なる2つの問題だ。しかし、山口氏のいう税のあり方を考えることは社会のあり方を考えるという意味で、同じ問題でもある。
そして、氏の議論の最大の問題は、消費税増税のもとでの大企業・資産家優遇に眼をむけないところである。氏の立場が、「税を免れる」という権益にしがみつこうとする経団連などの支配層とまったく一致していることを確認せざるをえない。
将来の選択は現在の正確な認識を欠いてはありえないのである。(「世相を拾う」08031)
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【関連エントリー】
山口二郎の消費税増税論-「安ければいい」を捨てよ
分断をあおる朝日新聞。
朝日新聞がまた誤解を招くような記事を書いている。
病院で働く勤務医と開業医との間にくざびをあえて打ち込むかのような記事に疑問を感じる。記事が読者に伝えたいのははたして何なのか。
勤務医再診料30円上げ 開業医との差縮める |
厚生労働省は9日、医療機関などに支払う診療報酬の08年度改定で、全国9000病院の約7割を占めるベッド数200床未満の中小病院の勤務医再診料を、570円から30円引き上げて600円とする方針を固めた。開業医の再診料は現行の710円のまま据え置くことが決まっており、格差は140円から110円に縮まる。開業医と病院の勤務医との再診料格差を小さくするとともに、中小病院の経営悪化を防ぐのが狙い。
13日の中央社会保険医療協議会(中医協)で正式に決める。 08年度改定では、勤務医不足対策のための財源確保が最大の焦点。厚労省は当初、開業医の再診料を引き下げることで費用を捻出(ねんしゅつ)しようとしたが、日本医師会などの強い反発で断念した。 代わりに、再診料に上乗せ請求できる外来管理加算を見直したり、簡単な治療の診療報酬を廃止したりすることで、開業医向けの診療報酬約400億円を削減。その分を勤務医不足対策の財源に充てることを決めた。 しかし、これらの措置では再診料の格差是正ができない上、外来診療の割合が高い中小病院にとっても減収となる。そこで、中小病院の勤務医の再診料を引き上げることで格差を縮小し、中小病院の減収分を埋め合わせることにした。 必要な財源約75億円は、外来管理加算の見直しなどで中小病院への支払いが減って浮いた分の医療費を、そのまま充てることで対応する。 |
勤務医の労働環境の劣悪さを訴えたいのか。それが、今回の診療報酬改定で是正されたというのか。
病院勤務の医師と医院を経営している開業医の間に格差があって、それはまずいといっているのか。それが今回、少しはただされたと伝えているのか。
それとも他に読者に知らせたいことがあるのか。
いずれでもないように思える。
少なくとも、つぎのように改定の中身がおよそ医療の内容とは無関係に経済的観点でのみ措置しただけの改定を、批判するどころか、何のコメントもせずに記事にしてしまう恐ろしさ。
片方を400億円削って、それをもう一方の穴埋めにするというわけだから。
こんなやり方に少しはくちばしをはさんでよいようなものだけれど。
日本の医療の現在を少しでもよい方向にと考えているとは、毛頭思えない記事ではないか。歴史が教えるのは、分断が持ち込まれるのは、ときには弾圧という形すらありうる、抑え込む際の常套手段であるということだ。
すでに勤務医たちの団体結成が伝えられている折、それを逆手にとって、開業医に矛先をむけるつもりか。
なぜ共同戦線かというエントリーでのべたが、分裂には共同という対置で臨むことが患者・国民に求められている。(「世相を拾う」08030)
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医師の手は神の手か。
聖路加国際病院院長の福井次矢氏が、患者と医師の関係について語っている。
医者の仕事に対する理解不足が背景にあると思います。医療は無尽蔵に提供できるものではないということを、多くの人に認識してほしいのです。 日本では医者に応召義務がありますから、診察を要求する患者には医者は応えなければいけない。例えば救急外来に来る必要のない人がどんどん来る。それでもそういう人を断ったら大騒ぎになるし、反対にそれぞれに対応していたら本当に救急医療の必要な人を診られない。どちらにもいい顔をするのは現実には無理なんです。 患者は“神様”? 悲鳴を上げる勤務医(NBオンライン) |
現実の患者と医師の関係においては、患者は、これまでの日本社会のなかで培われてきた医療のイメージから抜け出せないでいる。医師をしばしば神様のように思い込み、医療は万能だと考える。医師の手は神の手なのか…。医師をとりまく労働環境がなおいっそう患者の医療にたいするイメージをゆがめているといえる。
氏がいうように、患者側にも意識改革が要る。それなしには、噴出している日本の医療の諸問題は解決しない。
医療は医師だけで成り立つのではない。患者がいて、患者と医師の間で双方に行き来する、双方向の関係があってはじめて成り立つ。(「世相を拾う」08029)
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同文をcoleoの日記;浮游空間に公開しています。
山口二郎の消費税増税論-「安ければいい」を捨てよ
山口二郎氏の言説を、その叙述とは逆の方からながめてみたい。末尾で氏はこういっている。
税のあり方を考えることは、社会のあり方を考えることである。 |
どのような日本を造るのか |
然り。私は、これに大いに賛成したい。
しかし、問題は、税のあり方や社会のあり方を考える際の視点だろう。そこに、考える人の立場、別の言葉でいえば視座がみてとれるということだ。この見立てで、山口氏の言説から判断できることは、少なくとも私とは大いに異なる立場なのだということである。彼の物言いをみてほしい。
このような理想や怒りを共有しているはずの左派、市民派の人々と話しをして、いつも感じるのは、税をめぐる認識の食い違いである。増税に反対する左派、市民派にあえて言いたい。税金は安いほうがよいという考えをとる限り、福祉国家はできないし、環境保護もできないし、財務省や経済財政諮問会議の路線を転換することもできない。 |
私は、今すぐ消費税率をあげろといっているのではない。所得税の累進性の回復や相続税の増税など、公平の観点から先にすべき増税が何種類かある。しかし、西ヨーロッパのような福祉国家を日本でも造るためには、国民も負担を避けられないと言いたいのである。 |
山口氏の基本的な立場がここに明確に凝縮されている。
氏がいっているのは、要約すると、
①税金は安いほうがよいという考えは、よしたほうがよい。
②福祉国家を実現するには増税は避けられない。
ということだろう。
だから、私たちがこの際、検証しないといけないのは、(庶民にとって)税金が安いという「格好の状態」ははたして望めないのか、望んではいけないことなのかということ。そして次に、増税ははたして避けられないのか、という2点、これである。これを検証するには、現状から出発する以外にない。
税金が安いか否かということは、すなわち誰からとるのかということに直結する。しかしデータが教えるのは、大企業や大資産家の税負担率が抑制される一方で、消費税の税収の比率がふえ、結果的に、政府がとってきた企業減税分を消費税増税分で補ってきたという関係が成立するという事実である。
その上で、明らかなのは、山口氏が少なくとも今後の税源として、明確に消費税の増税に絞り込んでいるという一点である。山口氏の言葉を借りれば「社会のあり方を考える」基本的な観点をこの点に氏自身が求めているということを吐露しているにほかならない。いうまでもなく消費税は逆進性が強い。たしかに氏は「所得税の累進性の回復や相続税の増税など、公平の観点から先にすべき増税が何種類かある」とはいっているのだが、消費税の導入が逆進性をもたらすことにはまったく頓着していないことは明らかだろう。
つまり、私が懸念するのは、いかにも先決しなければならないといいつつも、むしろ今後の、あえていえば税収奪への露骨な関心を山口二郎氏が示している点で、これを私は大いに疑うのである。
いったい消費税増税を今の時点で誰がさけんでいるのか。思い返してほしい。政府税調の香西会長が語り、自民税調の津島氏、そして経団連が旗を振っているのではないか。こんな事実を国民はつきつけられているのだ。その上に、民主党税制調査会の藤井氏もまた消費税増税の方向をみじんも隠さなかったという事実を私たちはつきつけられている。
こんな文脈で考えると、いまの時期に山口氏が以上のように語る意味を考えたいのだ。いわゆる識者として氏が語る意味は大きい。そして、氏がかつて小選挙区制を唱え、その実現に大いに役割を果たしてきた事実を我々は知っている。
氏の姿勢は、氏のいう左派に求めるものは格別厳しいのだが、一方で、口にはするが、税制をゆがめている現在の実態、つまり大企業や財界優遇の税制への根源的な批判がないばかりか、税金のつかいみちにまったく言及しないのは、氏のよってたつところを自ずと示しているように思えてならない。再び、氏が世論をミスリードする懸念をいだくのは私だけではないと思うのだが。(「世相を拾う」08028)
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PS:「世界の片隅でニュースを読む」;mahounofuefuki さんが以下で山口二郎氏の言説について分析されています。
社会保障の財源が消費税でなければならない理由はあるのか
【関連エントリー】
消費税導入をあおる朝日社説
「飛び込み出産」という貧困の表現。
「飛び込み出産」昨年は301人、経済苦などで健診受けられず |
妊娠中に定期的な健診を受けず、産まれそうになってから病院に駆け込む「飛び込み出産」をした未受診妊婦が、全国の主な病院で、昨年1年間に計301人いたことが、読売新聞社の調査で明らかになった。
最大の原因が経済苦であることもわかった。飛び込み出産について全国の実態が明らかになるのは初めて。 調査は、高度な産科機能を持つ総合周産期母子医療センターとして指定されている医療機関と、今後指定される予定の医療機関計73か所に対して郵送で行い、67か所から回答を得た。 回答によると、昨年1年間に「飛び込み出産」をした未受診妊婦は計301人に上った。未受診の理由は「経済的困難(費用負担ができない)」が最も多く146人と49%を占めた。「健診が不要と考えていた」妊婦も42人いた。 実際、98人(33%)が、出産にともなう医療費を一部もしくは全額払わなかった。また、107人(36%)は未婚だった。 |
地域から産科が撤退し、お産ができなくなっていることを、これまでメディアが伝えてきた。医師の労働環境の過酷さが病院から医師が去っていく要因にあげられ、「医療崩壊」とよばれる実態が日本の各地に広がるようになってきた。もちろん、根底には政府厚労省が医療費抑制に血道をあげるあまり、そもそもの医師の絶対数が足りない実態をうみ出してきたのである。だから、ただちに医師の絶対数をふやすことが、医療崩壊を解消していくいわば前提ともいえる。端的にいえば産科の病棟閉鎖など地域からの子どもを産めないような実態もつきつめていえば医師不足にたどりつく。
そこで、こんな事態がうまれうる。
地域から産科が撤退しはじめる。すると、こんどは産科をつづけている病院はどうなるのか。残った病院は出産数が急増するだろう。だから、ここでは医師や助産師のいっそうの過重労働を招く。悪循環である。もっといえば、医師不足と産科の撤退が、残された産科受け入れ可能な医療機関の出産数の急増を招く。つぎにその医療機関の医師、医療従事者の過重労働を招くという具合に、負のサイクルを描く。描かざるをえない。過重労働がすすめば、結果的に医療機関側がこんどは出産件数を制限せざるをえなくなる。
こうして描かれる構図が、たとえばメディアをとおして伝えられる患者たらい回しの一因にもなってきた。
ところで、普通分娩は病気とは位置づけらていないため、いったん費用全額を払わないといけない。容易に想像がつくが、低所得者にはこれがかなりのハードルになる。払える人はのちに保険から出産育児一時金が支給されるが、前もって払わなければならない費用を工面できない人がいるという事実。これが問題となっている。
冒頭の記事はこの実態の一端を伝えたものだ。
最近、当ブログでは国民健康保険制度をとりあげた(参照)が、そこで言及した国民保険料の滞納者については、少なくとも私の住む自治体では、この出産育児一時金が支給されないのである。制裁的措置だということもできるだろう。公的な助産制度はあるが、それを利用するにはこれまたハードルが高い。
派遣社員など不安定は立場のものは、妊娠が明らかになればそのことでもって職を失いかねない。リスクが不安定被雇用者を襲う。
低所得者の頭を悩ますのは、出産費用を捻出できるか否かの問題だけではない。そうではなくて、それ以前の妊婦健診すら受けることができないことが推測される。健診は月1回受けることになっていて、すべて自費である。1回に4、5千円かかるというから、たとえば国民保険料を滞納している人びとにとって、この金額は負担に思えるだろう。結果的に健診未受診という事態に至るのである。記事は、この未受診者に注目している。未受診はいうまでもなく出産のリスクをも高めるだろう。
飛び込み出産の背景には、このように厳然として複雑な社会的な問題がからんで存在する。平たくいってしまえば、それは社会の貧困化に深くかかわっているように思えてならない。新しい生を創出するはずの出産という場面をとりまく環境は、快適なものではけっしてなく、とくに貧困に直面する母体にとっては刃をつきつけられたような今日の状況といえるのではないか。それは、社会にとって避けるべき、あるいは解消すべき事態といえないか。
いいかえると、、「飛び込み出産」という、他に変えることのできない事態は、すなわち今日の日本のなかの貧困の広がりを表現しているにちがいない。(「世相を拾う」08027)
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PS;地域で現れる医療崩壊の一端は、たとえばこのような形で表面化しています。
<県立南会津病院>産婦人科、3月末で休診 常勤医2人退職、後任なく /福島
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「クローズアップ現代」の警鐘-国民健康保険が崩壊する
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スーパーチューズデーの狂騒と日米の距離感
スーパーチューズデーを前にこの日本が狂騒の只中にあるという感を禁じえない。あいかわらず日本のメディアは勝負事、いくさに強い関心があって、たとえば本日の夜も、テレビ各局は競って米大統領選挙を時間を割いて追っている。また先日も、ある番組がオバマ、ヒラリー両民主党候補の動向を取材し、電波をとおして流していた。それぞれの支援者たちの様子、候補者の戦術の分析など、私たち日本人にとって実に細かいところまで映像に映し出し、余りにも丁寧に米大統領選挙の盛り上がりを伝えていた。とくに印象的だったのは、あふれるほどの両陣営の支持者の間を押し分けて、日本人レポーターが候補者に近づき、あるいは近づこうとして離れ、その繰り返しでついには初期の目的を達した一瞬の候補者から発せられた言葉だった。
つまり、レポーターはある質問にたいする答えを聞きたくて格別の努力を惜しまなかったというわけである。そして、それは日本をどう思うかという問いだったのだが、その質問にオバマが答えた一言は、I love Japan。実に卒のない回答だった。しかし、そう思う反面、つぎの瞬間にはこの言葉を実に無味乾燥なものだとも思った。そこに特別の意味はおそらくないだろう。オバマはおそらく特段の意味をその言葉に与えなかったと思うのである。この番組のこうした一部始終に日米の距離感を率直にいって私は感じざるをえなかった。
別のエントリーで米大統領選挙にほとんど関心がない旨を私はのべた。正確にいえば共和党が勝とうと、民主党が勝とうと、またはオバマが勝とうとヒラリーが勝とうと、どちらが勝ってもと同じということだ。これは、一面で正しいし、一面で正しくはない、と思っている。正しいというのは誰が勝っても米国の今後の対日政策に大きくは影響しないだろうという意味で。一方で、日本の政治経済の現実を考えると日米関係を措いては語れないという意味で日米関係に私は強い関心をもっていて、この意味では、先の言葉は正しくはなかった。
ともあれ、日本にたいする米国の存在はまことに大きい。戦後ずっと日本の政治、経済に深くかかわっている。けれども、日本の側からみた米国、逆に米国からみた日本を考えてみた場合、そこに厳然とした違いがあるように思える。つまり、日本からみて米国は、少なくとも日本の為政者たちにとってはとても近い存在だと受け取っているにちがいない。ところが、米国が日本をどのようにみているか。それを考えると、日本が米国をみるほどに近い存在だと受け止めているようには到底思えない。それは、先のオバマの言葉にも表れているし、同様に番組ではヒラリーもほとんどかわらない日本の印象をもっていたのだ。別の言葉でいえば、日本にとって米国というのが特別の存在、つまり近い存在なのに、米国は日本を近い存在と思っているとは必ずしも思えないということだ。日本から米国への距離感と米国から日本への距離感は必ずしも一致しない。
選挙戦はしかし、米大統領選挙だけではない。もう一つの選挙戦が日本でたたかわれている。岩国市長選挙だ。いうまでもなく、規模ではもちろん、国際的な影響においても大統領選挙には遠く及ばないのは疑いをいれない。日本にとっては、しかしどうか。日本が米国を近い存在であると認識するのであれば、なおさら岩国の市長選に関心を払ってしかるべきだ。
それは、日本に二つの法体系があって、その二つ、日本国憲法と日米安保条約というものが直接、市長選で問われているからにほかならない。日本のものごとは極論すれば、日本国憲法と日米安保条約が矛盾をはらみながら現実に共存しているところからはじまる。物事はここからはじめて考えないといけない。
同条約のもとでの在日米軍基地の再編を、日本の協力のもとで米国がすすめようとするのが今の状況だから、岩国の住民の意思決定は、これを根底から揺るがすものにほかならなかった。日本の為政者たちにとっては、この選挙戦で、再編計画に異を唱えるものが勝利すれば、たちまち米国の存在が遠くなることを意味する。したがって、件の橋下発言が意味をもってくるのである。
そうでなくても、日米安保条約は片務的という米国の認識を盾にしばしば米国の世界戦略への協力を約束させられてきたのが、今日までの日米関係の実際でもあった。
たとえばブッシュ政権が小泉にむかって発した Show the flag とは、米国の要求の端的な言い換えにすぎなかった。そして、新テロ特措法が成立した今、自民、民主を覆っている派兵恒久法を志向する動きは、この片務性という米からの圧力を乗り越えようとする意思の強い表れにほかならない。いいかえると集団的自衛権の行使の立法化への道である。だから日米の、対等とはとてもいえない現実のこの関係は、つまるところ米側の思惑に日本が応えれば双方の距離は縮まり、応えなければそれが広がるという、米側が支配する関係性であったのだ。
冒頭の米大統領選のまさに研ぎすまされたリアリズムの演出は、そうであればあるほど、日本から米国をみた距離感と、米国からみた日本の距離感の乖離をいっそう際立たせるように私にはみえる。
それをわれわれ日本人が実感するためには、リポーターの質問はたぶんこうでなくてはならなかった。「岩国への基地移転をあなたはどう思うか」。
そうすれば、米国の、米国による、米国のための(米軍基地)再編であることがたちまちのうちに明白になったろうに。そして、オバマも、ヒラリーも、日本にたいする米側の立場という点ではまったく同じだということがはっきりしたにちがいない。(「世相を拾う」08026)
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NHKスペシャルの「リアリズム」と日米同盟の今日
日米関係、これでよいか-点と線でみる。
『クローズアップ現代』の限界-犯人探しも大事だが…。
さすがの『クローズアップ現代』でさえ、犯人探しに汲々としている雰囲気が映像をとおして感じ取れた。少なくとも私はそう思えた。クロ現は本日4日、渦中の中国製ギョーザ中毒事件をとりあげた。これだけの不安を日本社会にもたらすと、いやおうなしに、どうしても誰が原因なのかに、関心が集中する。
ウェブサイト上では本日の番組をこう紹介していた。
中国から輸入された冷凍ギョーザから殺虫剤の成分が検出された問題。毒性が高く中国でも流通・使用が禁止されている殺虫剤がなぜ検出されたのか、幾つかの可能性が指摘される中で原因の特定作業が進められている。一方、今回の問題では安全確認が業者任せになっていることなど、食の安全を確保するための態勢に様々な死角があることも明らかになった。なぜ毒が混入したのか、被害の発生と拡大を防ぐために何が必要なのかを考える。 |
この案内にあるように、日本にとっても、生産者たる中国においても、本来、(事件の引き金となった)原因の究明に最大限の努力が払われてこそ、真の解決に直結するといえるのではないか。
クロ現は、中国の製造過程と日本をふくむ流通過程、この2つのプロセスのいずれかでの毒物混入の可能性を指摘していた。たしかにそのとおりなのだが、日本に引き付けて考えると、たとい中国の製造過程で異物の混入が認められる場合であっても、日本の検疫体制が万全であれば防ぎうる可能性はたしかにあったわけだ。中国の製造過程に問題があったということと日本でそれを防ぎ得なかったという問題は、別の問題なのである。日本で食の安心・安全の体制をどのように保障するのか、それは日本でのみ考えうることだろうと思う。
だから、私は、日本の検疫体制の強化が今すぐにに着手すべき対策の一つだと考えている。しかも、それは再発防止の意味合いでも、ある意味で決定的な要素にもなりうると考えている。現在以上に検疫体制、輸入品の監視体制が強固であれば、少なくとも今ここの到達以上に、今回の事件を防ぎえたといえるのではないか。聞こえてくるところから察するに、監視体制が薄すぎるのである。監視体制の強化はただちに着手しなければならない課題だといえる。
番組では、2人の識者から意見を聞いていた。その一人の経営コンサルタント、太田光雄氏のコメントは印象的だった。彼は、日本の食品衛生法の基準にてらして中国および米国からの輸入品を比較した場合、その違反率は、中国に比べ米国が高いことを指摘していた。
この事実は、たとえば、こんな記事への反論にもなる。
中国製ギョーザ中毒事件 安全のモラル欠如 「何でもあり」蔓延
今回の『クローズアップ現代』に欠けているのは、食品輸入国としての監視体制の際立った薄さなど、食の安全・安心を支えるに足る主体的な努力が必要なことを、まったく視野に入れていないことだ。三百数十名の食品衛生監視員の配置数など貧弱そのものではないか。
その上で考えるのは、日本の食料自給率の低さであった。たとえば農作物自由化の嵐を日本の農業に強いてきた責任は、こんな形であらためて問われていると思わざるを得ないのだ。 (「世相を拾う」08025)
ギョーザ中毒事件は何を語る-自給率と農業政策
テレビでは一定の時間ごとに、ジェイティーの、特定の商品をたべるなというお知らせが繰り返し流されている(ウェブサイト参照、1)。
先月末に明らかになった中国製ギョーザ薬物中毒事件。依然、全貌がはっきりしないまま、被害を訴える人が後を絶たず、全国的な食物中毒事件になりつつある。
いうまでもなく事件の全容解明と被害者救済が求められる。一方で、中国政府に再発防止策を求めることは当然必要だが、今回の事件から、今後、食糧の安全・安心な体制をいかに確立していくのか、議論と政策の決定がどうしても求められる。
この点では、ギョーザ薬物中毒事件を日本にひきつけてとらえてみることが要る。
端的には輸入食品の検査体制がどうであったのかという問題である。そして、そもそも輸入品に頼らざるを得ないという日本の食糧事情がベースにある。以下の記事は、外国商品が当たり前ともいえるような日本の食卓のありようを伝える、象徴的なものだ。
「中国抜き」では成り立たず=冷凍食品の2割以上依存-ギョーザ問題 |
中国製冷凍ギョーザの中毒問題で、食品業界が商品回収や緊急検査に追われている。全国で被害を訴える消費者は日を追うごとに増え、スーパーなどでは中毒を起こした中国・天洋食品製以外の冷凍食品にも買い控えの動きが拡大。消費者の中国製食品への抵抗感は一段と強まっているが、中国抜きでは、もはや日本の食卓は成り立たないのが現状だ。 |
日本冷凍食品協会によると、2006年に日本国内で消費された冷凍食品は国内生産分と輸入の合計で269万3000トン。このうち、中国からの輸入は冷凍野菜と調理冷凍食品合計で約58万トンと全体の2割を超える。業界では「必要な量の原材料を安定的に調達し、安い労働力で手間のかかる加工をするには、中国を選ばざるを得ない」(水産大手)との姿勢が支配的。このため「適切な産地を選んだ上で、メーカーが全責任を取る以外にない」(安藤宏基・日清食品社長)状況だ。 |
実際、食糧自給率は39%だといわれているから、実に食料品の6割以上を外国に頼っているわけだ。それだけに、国内の食品検査体制のいかんが重要になるが、現状は、食品衛生法に基づく国の輸入食品の検査率がわずか一割といわれている。驚くべき貧弱さといわざるをえない。伝えられるところでは、今回も、残留農薬一律基準0.01ppmが適用されるはずなのに、全く検査をされていなかった。
食品衛生法にもとづき行政監察活動をおこない、食品衛生に関する指導もおこなう食品衛生監視員の増員などで、検疫体制を抜本的に充実させなければならないだろう。
こんな記事が伝えられている。
自動車生産台数、トヨタがGM抜き世界一に |
トヨタ自動車が2日、自動車生産台数で米ゼネラル・モーターズ(GM)を抜き世界一になった。 |
トヨタは、子会社のダイハツ工業、日野自動車を含めた2007年の世界全体の生産台数は前年比5・3%増の949万7754台で、GMが同日未明(日本時間)に発表した生産台数は1・1%増の928万5000台にとどまった。
自動車業界の首位交代は、1931年にGMがフォード・モーターを抜いて首位に立って以来、76年ぶり。トヨタは1937年の創業から70年で自動車生産世界一に上り詰めた。 |
われわれ日本人も慣れっこになったきらいがある。トヨタが世界一になったと聞いても、さもありなんという具合に。トヨタの著しい業績拡大は、販売台数でもGMを抜いて世界一になるのは時間の問題ともいわれるほどだ。
けれど、思うのは、トヨタのこんな好調ぶりの一方での日本農業の現在との落差である。右のグラフはコメの層産出額とトヨタの売上高を一つのグラフにまとめたものだが、コメ産出量の変遷が日本農業の扱われ方をそのまま表現しているだろう。日本の食料自給率の低下がいわれて久しい。政府はこれまで、食料自給率の低下は、日本の食生活が洋風化したためなどともいってきたが、そうではなくて、米国からの圧力を繰り返し受けて、それを受け入れた政府の農業政策の結果である。昨年11月、若林農水相は農業政策の責任を問われて、「国全体の貿易利益のために、農業政策では譲歩せざるをえなかった」と答弁し、このことを認めたわけである。
食料自給率の向上は国の将来にかかわる問題である。今回の事件のベースには、自給率に象徴される日本の農業政策がある。自由化一辺倒ともいわれるWTO(世界貿易機関)のもとで、米国など農業輸出大国の利益が拡大する一方、日本など輸入国、途上国の農業が打撃を受け、食の安全や環境も脅かされるというのが今日の構図ではなかろうか。
農業を基幹的分野として位置づけなおす抜本的な農業政策転換が不可欠だと思わざるをえない。日本の農業政策がまた問われている。(「世相を拾う」08024)
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道路財源を転用-米軍住宅の建設に使う。
地方もふくめて道路づくりの財源にあてるというふれこみのガソリン税。しかも今、暫定税率という期限つきの高い税率が課せられている。
ところが、こんな事実が伝えられている。
道路財源で米軍住宅 |
長崎県佐世保市で在日米海軍が思いやり予算での建設を計画していた米軍将校住宅を、国土交通省が道路特定財源から約28億円をかけて建設し、提供していたことが本紙の調べで分かりました。高速道路建設にともなう米軍住宅の移設を名目に、米軍の以前からの要望を実現したかたちで、道路特定財源での支出が適切だったのかが問われます。 |
道路建設財源ということだが、他の目的に税があてがわれていたわけである。道路特定財源という使途目的を限った財源に固執しつづけるのは、道路づくりという利権がそこにあるためだ。今後10年間が59兆円もの税金が道路づくりにつかわれる。
これだけの税金を特定するのではなく、ほかの教育や社会保障などにも使えるようにというのが、野党が主張する一般財源にかえよという要求だ。
今回、記事で明らかにされたのは、特定財源だといってきたが、政府与党が必要だとするものについては転用してきたという事実である。しかも、使途は米軍の住宅だという。思いやり予算とやらで、さんざん米国の要求に屈している日本。どこまで腐りきっているのか、と思わざるをえない。思いやり予算については、聖域とはせず、そこに手をつけよと当ブログでは主張してきたが、一方で、思いやり予算とは別に、米軍への「思いやり」を手厚くしてきたことを教えている。
政府の言い分は完全に崩れ去った気がする。特定財源ではなく、一般財源にいよいよかえなければならない。そして、思いやり予算もただちに見直すべきである。
だとすれば、社会保障目的などとの口実で増税しようとする消費税もまた、何に使われるのか、国民には分からない。社会保障に限定されて使われるなどという善意で受け取るのはよしにしないといけない。(「世相を拾う」08023)
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橋下徹知事に問う-憲法は誰が学ぶべきか。
橋下徹次期大阪府知事が岩国の住民投票には反対と語ったそうである(参照)。この発言が、橋下当選の余勢を借りて岩国市長選を有利に導こうとするところにねらいがあることは、想像にかたくない。それだけではなくて、ここで問題にするのは、橋下氏の発言の中身だ。
この人物の発言を記事によって列記すると、
- 国の防衛政策に地方自治体が異議を差し挟むべきでない
- 岩国の人たちが住民投票をやることには反対(過去に発言)
となる。
前者と後者はそれぞれ異なる2つのことをいっているが、つぎの点で共通する。それは、住民の自治、地方自治をまったく理解していないか、あるいはそれを敵視しているかのいずれかということである。大げさにいえば目を疑うほどの、この人物の時代錯誤をあらためて実感する。
前岩国市長・井原勝介氏はもちろんこれに反論している。氏の発言もまた記事(参照)より引用すると、
- 大阪府で国政と民意が相反した場合、橋下氏は府民の声を尊重して国にものを言わないのだろうか
- 国防政策だから、国の専管事項だからと言って、主権者たる市民が声を上げることは制限されないはず
- 私は住民投票や(前回06年の)市長選で示された民意に基づき国にもの申している。(大阪でも)府民の声を尊重して国にものを言うのが知事の責任ではないか
と、もっともな意見だと私は思う。
「大阪府で国政と民意が相反した場合」と氏が発言するように、自治体では国の施策に物申すことは多い。たとえば、議会で意見書をあげることも少なくはない。自治体の施策が国庫からの補助をふくめて成り立っている場合、国庫補助金の増減は施策そのものの成り行きを大きく左右することになりかねない。一例をあげると、国民健康保険制度のように。だから、国庫補助が減額されるような場合、議員提案などによって議会は(国への)意見書を採択する。井原氏がいう民意がそこにある場合、自治体合併などでは、国の方針とは異なって、結果的に合併しない自治体も生まれているではないか。
その上で、日本国憲法は、住民投票という地方自治、住民自治の制度を国民に与えた。
一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。(95条) |
この条文は、特定の地方自治体にのみ適用される特別法を制定しようとするときは、住民の投票の結果、過半数の賛成がなければ制定できないと、不利益を課すような法律を安易に制定しないように定めたものだ。ようするに民意を確認しなければばいけないのである。
これが日本国憲法の規定による住民投票だが、もう一つ地方自治法の定めによって住民投票を保障している。橋下という人物が言及しているのはこの後者の住民投票である。これは、解散及び解職の請求による場合、自治体の条例の規定による場合、そして「平成の大合併」とよばれてきたが合併特例法の規定による場合がある。
岩国の住民投票は、米空母艦載機部隊の岩国基地移駐の賛否を問うものであった。
小泉元首相は在任当時、米軍再編について「地元の自治体と事前に協議し了承をもらったら米側と交渉する」(2004年10月)といっていた。しかし、事前の相談どころか、詳細な情報も提供せず、防衛施設庁地元調整実施本部が地方防衛施設局に、地方議会の基地再編反対決議を阻止するよう電子メールで指示していたことされ伝えられていた(参照)。
こんな政府の対応を前に、岩国市の住民投票は、つぎの2つの点で意義あるものだった。
第一に、地方自治を守るうえでの全国的な意義、第二に、米軍再編に反対する自治体の願いを反映する上での意義。
だから、こうした経過をふまえると、橋下発言は、あえてこう呼ぶが、支配層が、岩国市長選をどのように位置づけているかを示す発言だといえそうだ。
山脇直司氏は、滅私奉公と自己中心主義の合一を説いた(*1)。橋下次期知事ほど、それにぴったりあてはまる人物はいないのではないか。つまり、滅私奉公の心性には、身内以外の視点がない。身内以外の他者感覚は喪失している。だから、自分が他者に生かされているという発想も、自分が他者を大切にするという発想もまずない。滅私奉公と自己中心主義という考えと生き様がまるで正反対のもののようにみえながら、実は、そこに他者がないという意味で通底しているわけである。
自治体首長は、常に住民の意思、民意を重視しないといけない立場だと思う。橋下という人物は、その発言にみられるようにこれとは正反対の立場に立つ。つまるところ府民無視のそれである。他者感覚の欠如した首長を仰ぐ、彼に投票した府民は、府民無視という立場を選択した責任を自ら引き受けなければならない。
そして、何よりも、この人物が語ったという「憲法を勉強すべきだ」という言葉は、そっくり彼に返さなければならない。(「世相を拾う」08022)
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*1;『公共哲学とは何か』(ちくま新書)200p
PS1;橋下氏は住民投票は制限されているといって、逆に住民の地方自治を希求する意思を抑え込もうとしています。むしろ私は、現在の法体系のもとでの限界があることを強調したい。住民が住民投票を求める場合の条件の厳しさを実感します。この場合、住民投票を実現するには直接請求を経なければなりません。その手続きの複雑さは、住民の自治という点でみれば、集めなければならない署名数、そして複雑な手続きなど、きわめて高いハードルをくぐらなくてはなりません。
しかも、ハードルをクリアしたからといって実現するわけではない。実現するためには議会の承認をえなくてはならないのです。そして住民投票で民意を問おうという場合、当該の扱う問題のいかんによって制限されるものではさらさらないでしょう。
PS2;この橋下氏の「憲法を勉強すべきだ」発言について、朝日新聞は以下の記事で識者の声を伝えています。
橋下節に疑問の声「あんたこそ憲法学べ」 岩国住民投票(ウェブ魚拓)
【関連記事】
「岩国の住民投票には反対」橋下氏が発言(朝日新聞)
岩国市長選:前市長、橋下・大阪次期知事発言に反論(毎日新聞)
「憲法を勉強すべきだ」 橋下氏、岩国前市長に再反論(朝日新聞-gooニュース)
「コース別賃金」;差別はどのように包装されてきたか。
兼松がどのように賃金差別をおこなってきたのか、包装を一つひとつ丁寧に開き、内実が明るみにされた判決だ。東京高裁は、原告敗訴の地裁判決を取り消し、男女間の賃金格差を差別と認定した。
男女のコース別人事による賃金格差は違法として、総合商社「兼松」(東京都港区)の元女性社員ら6人が、男性社員との差額など計約3億8000万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は31日、うち4人について原告敗訴の一審東京地裁判決を取り消し、賃金格差を差別と認定。計7250万円支払うよう命じた。 |
西田美昭裁判長は「4人は経験を積んで専門知識を持ち、男性社員と同じ困難度の職務をしていた」と認定、「格差に根拠はみられず(男女同一賃金の原則を定めた)労働基準法に反する」と判断した。 |
残る2人は、勤続年数が15年未満だったことや、専門性が必要な職務ではなかった-などの理由で訴えを退けた。 男女賃金格差は差別 兼松訴訟 東京高裁判決 原告が逆転勝訴 |
判決の核心は、外見的な採用形態ではなく、実際の職務内容をもとに賃金を決定すべきという司法判断。この点で「賃金が異なるのは採用形態(コース別)の違い」と主張する会社側を斥けた。
同一労働同一賃金という観点で労働者の賃金が決まるという原則がある。が、判決は、まったく同じ労働でなくても、同質性がある場合も積極的に判断したもので評価される。
この点では、一審が、労働基準法に違反か否かに踏み込まなかったことと比較すれば、高裁判決の意義は大きいといえるだろう。
いまでも勤務地限定を理由に賃金に差をつける企業が多い実態にてらしても、判決は積極的に評価されてよい。
もう一つ思うのは、企業の社会的責任(CRS: Corporate Social Responsibility)という概念で考えると、市井の一企業ではない、有数の商社の取ってきたこれまでの対応がどうかという点である。
もちろん社会的責任といっても固まっているとはいいがたく、その解釈の仕方は一様ではない。しかし、広く、企業は、経済だけでなく社会や環境などの要素にも責任を持つべきであるという考えだと受け取った場合、兼松の対応をどうみるべきなのだろうか。
とくにヨーロッパの企業の、持続可能な社会を実現するために環境や労働問題などについて自主的に取り組もうとする姿勢と比較すれば、日本企業がこの面で遅れをとっているのは否めない。その解釈の狭さを常々感じている。
企業はもとより企業経済活動をとおして利益を上げることを目的としている。しかし、社会の一員としての企業の行動もまた他から点検を受けないといけないだろう。
日本においては、企業の将来への発展に重きを置くあまり、精神の上でも、実際の活動においてもせいぜい剰余の一部をCSRへとさえ考えられているような狭さではなかろうか。むしろ最近は、たとえば経団連が経済財政諮問会議のメンバーとして政府の政策に介入しているし、企業団体としての権益確保を前提に献金をてこに政党を支配しようとする動きは、およそ社会的責任を語る者のそれではないというのが私の実感である。
兼松の対応もまた、まさにこの枠の中にあった。
兼松はすでに上告することを明らかにしている。原告らは、この裁判に幾多の歳月を費やしている。彼女たちの時間を空費することがあってはならない。(「世相を拾う」08021)
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