素敵なあなた

2016-07-27 16:48:50 | ストロベリークォーツ
それにしても、あの日のMくんはかっこよかった。
いつもの白衣ではなく、それがユニホームなのか、
特に決まってなくて自分で仕事用にしている私服なのか、
上下黒で、スラっとしてとても似合っていた。
Mくんは、あまり背が高くないが、背が高いような印象を受けた。
(別に私は、背が高い人が好みなわけじゃない)。

Mくんはおしゃれなんだそうだ。

私もあの日、もしかしたらMくんに会えるかもしれないと思って、
それまで着ていた服を変えていった。
いつもMくんに会っていたころは、わけありで、ジーンズばかりだったけれど、
本来の私らしく、かわいくて、ちょっとふりふりのスカートをはいて行った。
良かった。
本当に会えたんだもの。

Mくんは、髪にパーマをかけて、眼鏡をかけている。
初めて会った時は、パーマをかけてなかった。
髪がサラサラに見えて、その顔もなかなか好きだった。

スタッフさんの写真のMくんはパーマをかけていた。
その写真の顔も私は大好きだった。
(多分、私はその写真のMくんに一目惚れしたのだろうから)。

しばらくすると、Mくんはパーマをかけてきた。
そのパーマは、全然似合ってなくて、私はいつも心の中で、
「似合わないぞー、似合わないぞー」と繰り返していた。
自分でも、このパーマは失敗だったと思っているのか、
それとも、自分がどう見えるかなんて、気にしないたちの人なんだろうか?
どっちだろう?なんて考えていた。

そのうち、そのパーマも馴染んできて、なかなか良くなった。
そして、次にかけたパーマは素敵だった。
でも、そのころの私は、あまりMくんとお話しすることができなかった。

Mくんが所属している団体さんのフェイスブックのページに、
ここ2年間ほどのMくんの写真がたくさん載っている。
ちょっと前までのMくんは、眼鏡をかけていなくて、髪もストレートで、
今とは全然違う顔に見える。
一緒に映っている他の人たちは、あまり変化がないのに、
Mくんだけは、知らない人が見たら、同じ人だとは思わないだろうと思えるほどだ。
2年前のMくんは、まるでアイドル顔だ。
「こんなかわいい顔してるんだ」って、私もびっくりした。

最近のMくんの顔は、どちらかと言うと渋い。
わざとおじんくさく見せようとしているのかと思うほどだ。
童顔に見られるのがいやなのかなー?と思う。
でも、それなら眼鏡くらいかけておけば良かったのに、と思う。

その「かわいい顔」のMくんより、もっと早い時期の、
私が見た、結婚式の写真の中のMくんは、今のMくんと違和感がない。
パーマをかけて、眼鏡をしている。

ああ、そう言えば、私が髪にメッシュを入れたときに、彼の同僚さんが言っていた。
「ここも、ちょっと前までは、どんな髪型でも良かったんですけどね、
 何年か前から規則が厳しくなって…」。
そうか、Mくんが結婚したのは、その規則が厳しくなる前で、
張り出してある写真を撮ったのも、規則が厳しくなる前なのか。
Mくんは、最初はそのルールに従っていて、
ちょうど、私が出会ったころに、やっぱりと思ってパーマをかけたんだ。

Mくんは、朝の手入れが楽だから、パーマをかけていると言っていた。
そして、髪型のことで注意を受けたと愚痴っていた。

この前会ったMくんは、とてもかっこよかった。
男っぽく見えた。

今を生きるということ

2016-07-27 09:26:00 | 霊性
生き方本とか読むと、よくあるのが、「今を生きる」ということ。
過去を振り返ってばかりではいけない、とか。
先のことを心配していてはいけない、とか。
そんな風に、理解しているつもりではあったけれど、
何だかそのことが、一つ、実感として感じられた気がする。

例えば、私が書き連ねた文章の中のこの部分。

>でも、もしかしたら、その後の私の態度も、
>Mくんから見たら、かたくななものに思えたかもしれないと思う。
>「ああ、もう終わりだ。さよならだ」。
>そんなことしか私の中にはなかったから。

この時の私の中には、この先の「失恋したかわいそうな私」のことしかなかったのだと思う。
この先の私のことをかわいそうがるだけで、
その瞬間の、目の前にいるMくんのことを考える余裕がなかった。
Mくんとの最後の短い時間をどう過ごすか、そのことに集中するべきだったのだと思う。

そういったことを、今まで私は、
「私にはそうすることしかできなかった」という言葉で片付けてきた。
そうすることしかできなかったから、「後悔しない」と。
後悔はしていないけれど、
本当の「そうすることしかできなかった」は、
最後にMくんにこう伝えたかったけれど、どうしても言えなかった、とか、
そういう内容であるべきなのだと思う。

今に集中できていたなら、
私は、Mくんに「一緒に写真を撮って」と言えたかもしれないし、
Mくんの車で、短いドライブができたかもしれないと思う。

いつも私はそうだった。
人前でうまく話ができない。
普通に話しているつもりでも、後から「ああ言うべきだった」とか思ってしまうのだ。
仲のいい友達なら、そういうことを伝えることもできるけれど、
世の人間関係、わざわざ追加・訂正ができるようなことも少ない。
そういうこともあって、私は「言葉」にあまり頼らない生活をこころがけてもきたのだが。

>Mくんが、私の知らない車に乗って、こっちに向かって来るのを見ても堂々と歩いていった。
>Mくんが私に気がついた瞬間、チラリと目が合った。
>私は一度前を向いて、そしてもう一度Mくんの方を見た。

この時の私は、今に集中できていたんだろうなと思う。
この「Mくんが私に気がついた瞬間のMくんの顔」を、私は鮮明に覚えていると思った。
今に集中できていたから、覚えているんだろうなと思った。
でも、何度も何度もその顔を思い出そうと繰り返すと、その顔がよくわからなくなった。
元々、見るたびに違うと思うような、よくわからないMくんの顔だった。
思い出そうとするたび、いろいろな時のMくんの顔や、
写真のMくんの顔が重なってきて、だんだんあの時のMくんの顔がぼやけてくるのだ。
こうして、記憶は、忘れたり、塗り替えられたりしていくのかな?と思った。

記憶。
そうだね。
Mくんとのことは、確実に過去になってしまったんだね。
私が、Mくんとの記憶を塗り替えていく作業は、もう始まっているんだね。