万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

敵は愛せても邪悪な者は愛せない

2015年05月26日 16時57分38秒 | 国際政治
 ”汝の敵を愛せ”は、『新約聖書』において示された最も重要なキリストの垂訓の一つです。その一方で、黙示録は、邪悪な人間に対する天罰を予言しています。それでは、聖書は、人類の敵ともいうべき邪悪な人間をも愛せと教えているのでしょうか。

 この問題を一先ずは人間の一般的な心理のレベルまで引き下げて考察してみますと、”敵は愛せても、邪悪な者は愛せない”という一般論に辿りつきます。邪悪な人間とは、自己の欲望や満足のために他者を傷つけたり、利己的な目的のために他者の権利や自由を奪う者であり、邪悪な者を愛せる人とは、自虐的人間であるか、虐待される他者を見殺しにする薄情な人間ともなるからです。つまり、邪悪な者を愛することは、道徳的に褒められたものではないのです。一方、運命の徒によって敵味方に分かれることは珍しいことではなく、力が解決の主たる手段であった時代には、決闘や戦争による決着も正当な行為でした。それ故に、敵に対しても敬意が払われており、武士道や騎士道精神には、命を賭して戦う者同士の相手に対する最大限の尊重があります。こうした人間一般の心理からみますと、第一次世界大戦以降の戦争が、法の支配への過渡期であったが故に、敗戦国の犯罪行為と見なされるに至ったことは、今日まで尾を引いております。犯罪国家、すなわち邪悪な国家に認定されたら最後、敗戦国は、敬意を払われるどころか、罪を負う国家として徹底的に糾弾され、一切の名誉も剥奪されることになったからです(卑怯で残酷な国家イメージ…)。

 この結果、徹底的な敗戦国バッシングは、”戦争犯罪国家に対する罰”や”愛国無罪”を名目とした新たな犯罪や違法行為を生むことにもなりました(反日政策、竹島強奪、慰安婦問題…)。そしてそれは同時に、新たに被害者となった敗戦国の国民にも、”邪悪な者は愛せない”とする感情が湧く原因となったのではないでしょうか。

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2 コメント

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Unknown (ねむ太)
2015-05-26 22:36:13
こんばんは。物事の正邪・善悪は何をもって判定されるのでしょうか。
戦後とは、いったい何であったのか。
東西冷戦はソ連が自壊し東側諸国が分裂することで自由主義が勝ったとされておりますが、勝利した筈の自由主義の中から新自由主義(共産主義の亜流のような思想が生まれ格差の拡大を生み出しながら猛威を振るっております)
我々の思想の陥穽は共産主義は一つであると錯覚させられていた事に尽きると思うのです。
教条主義・修正主義、此の二つの言葉は一般には使いません。
共産思想の専門用語なのです。
マルクスの思想は誤謬が無いのだから、一字一句変えてはならない、とするのが教条主義。
時代や世界の変化などに合わせて変化しなければならないとするのが修正主義。
共産主義者同士が権力闘争で相手を罵り罵倒する言葉が教条主義・修正主義なのです。
近代は何の思想を元にしているのでしょう。
ルソーの啓蒙論を基本としています。
共産主義の母体となった思想・・ルソーの理性万能主義です。
理性万能主義に中華思想の易姓革命理論とイスラームの原理主義と世俗派の対立を足し、権力欲を肥大させれば共産主義の出来上がり・・
理性万能主義・・聖書の創世記にでてきますね。
神と同じ力を手に入れたと傲慢になり、神によって地の底に墜された堕天使・・
神と同じ力を持ったと誇る事で神を否定してしまった。
現在の思想状況もよく似た構図で、新しい思想を確立したと言いながらも、古の思想の亜流でしか無い、誰かがいった言葉の表現を変えて新しい思想の発見と言ってるに過ぎない。
地の底で腐臭を放ちながら生み出された双子の思想が互いの姿を見て争ってたいだけなのですから、どちらも残虐で邪悪なのは当然です。
ましてや、闇に光を当て己の醜い姿を写しだしてしまったのですから、憎しみ以外の感情は存在しないでしょう。
地の底の闇に光を当てたものは・・保守的な・・人が人として苦悩や苦闘を重ねながらも確立してきたもの。
それを、我が国では道と現します。
武士道・茶道・神道・・・
全ては人が人として美しく生きる為の道(佇まい)なのです。
フランスのオプティエブドのムハンマドの風刺と称しながら下品で下劣な表現に対し、政教分離という。
フランスはフランス革命の精神を原点においているという。
フランス革命の時に先祖から受け継いだ生き方を望んだ者は殺戮され保守的な哲学は殺されてしまったのです。
保守的な思想の破壊を民主主義・人権・市民・友愛等の言葉で糊塗してしまった。
それが為に正邪・善悪の区別がつかなくなり、言葉だけがひとり歩きしてしまったのが近代の思想なのです。
十七条憲法に「人の違うことを怒らざれ。人みなこころあり」とあり、十七条では「大切なことは独りで決めてはならぬ、衆を以って論ぜよ」と有ります。
フランスでは民主主義と言いながらも民主主義を破壊する事が行われ野蛮に逆戻りし、我が国では、古くから民主主義が根付いていた事をみる事ができるのです。
この価値観の逆転に気づかぬままに、近代・民主主義を振り回し、其の実は共産主義的な野蛮な思想に退行していた。
これこそが愛すべき敵と邪悪な者との境を曖昧にしている原因でしょう。
戦後は西側陣営の中に、民主主義や自由を掲げながらも修正主義が隠匿されていたということでしょう。
ねむ太さま (kuranishi masako)
2015-05-27 06:01:42
 コメントをいただきまして、ありがとうございました。
 理性万能主義から派生した共産主義は、その実、理性の否定なのではないかと思います。思想や物事を疑う、という理性の働きの最も基本的な部分を置き去りにしたのですから、逆に、反理性主義ですらあります。近代人の理性に対する評価が、物事の道理、正邪、善悪…を判断する知的能力の自由なる発展にあるとしますと(故に宗教や迷信に対して否定的ではありましたが…)、共産主義者は、自らその能力を封じ込めてしまった、あるいは、自分達以外の人々の理性を監獄に入れてしまったとしか言いようがありません。無誤謬などあり得ないのですから、人類は、、真の理性を働かせて、共産主義のみならず、あらゆる思想や物事に対して疑うべきですし、謙虚にもなるべきなのではないかと思うのです。

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