万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

北朝鮮問題-善悪を区別しない人々の問題

2017年09月22日 10時54分21秒 | 国際政治
トランプ氏、対北朝鮮制裁強化の大統領令に署名 資金源根絶へ
 北朝鮮問題をめぐっては、何故かアメリカと北朝鮮を同列に扱い、双方を同等に“悪”と見なして批判する意見が聞かれます。しかしながらこの批判、善悪の区別を判断基準から外しているのではないかと思うのです。

 近年、子供向けのアニメやドラマにおいて、“正義の味方”の活躍をテーマとするものがめっきり減っているようです。毎回、狂暴な怪獣や闇の世界の邪悪なボスなどを、勇気に溢れたヒーローが恰好よく退治するというワンパターンの繰り返しなのですが、多くの子供達は飽きもせずにこうした勧善懲悪のストーリーに熱中したのです。ところが、“正義の味方”の減少と軌を一にするかのように、メディアでは善悪の区別を曖昧化する善悪相対化論が蔓延るようになり、勧善懲悪は、子供の世界のお話として嘲笑されるようにもなりました。“大人の対応をせよ”と、悪の排除はあたかも子供レベルの幼稚な思考として侮蔑するニヒリスティックな傾向が顕著となるのです。

 しかしながら、善悪の区別は、果たして未熟で低レベルの思考なのでしょうか。メディアに限らず、御伽話などの子供向けのお話に勧善懲悪ものが多い理由は、幼少期から善悪の区別を付けさせる、あるいは、その能力を育成するための効果的な教育方法であったからのように思われます。悪の本質とは、利己的な目的による他害性にありますので、長じて他者や社会を害することなく、他者をも慈しむような立派な社会の一員となるよう、子供の発育・発達レベルでも分かるように善悪の基準や“善き大人”としての行動規範を単純なストーリーして描いているとも言えましょう。そして、悪を退治し、人々を魔の手から助け出すためには、勇気という美徳を要することも。

 この観点から見ますと、勧善懲悪をせせら笑う人々は、実のところ、“善き大人”ではなく、人としての基本能力を忘れてしまっている人々であるのかもしれません。『旧約聖書』の「創世記」でも、アダムとイブは、“善悪を知る木の実”を食したことで、神の如く正邪の区別を付ける能力を得たとされています。この人類誕生の物語は、動物とは異なる人間性の根幹に善悪を区別する能力があることを示しているのかもしれません。ところが、今日にあってこの能力を無視する人々が生じており、善悪の曖昧化と相対化は、人間性の否定に繋がりかねない危険を潜ませていると言わざるを得ないのです(勧善懲悪の減少と犯罪組織の影響力拡大がリンケージしているようにも見える…)。

 今日の北朝鮮問題は、「主体思想」という自己中心思想を掲げる北朝鮮による加害性の暴力主義に端を発しています。悪の本質が加害性にあることは上述しましたが、1950年の朝鮮戦争の発端と言い、今般の核・ICBM開発と言い、何れもが、北朝鮮が利己的動機から他国、並びに、国際法秩序への攻撃を企てた結果です。こうした行為が、国際法に照らして“犯罪”、あるいは、違法行為に当たるのみならず、金正恩委員長は、自国民に対しても虐待という罪を犯しているのです。客観的な視点から善悪を判断しますと、“悪”と明確に認定されるのは北朝鮮の側です。北朝鮮が平然と人類の善性を悪用し得るのも、首脳部の思考にも真の意味での善悪の区別が欠如しているからとしか言いようがないのです。そして、北朝鮮の“悪”に目を瞑り、同国の犯罪とアメリカの制裁を同列に論じる論評も、その自覚の有無に拘わらず、“悪の味方”に堕しかねないのではないでしょうか。

現在、アメリカは、国連の枠組と並行して、独自制裁のレベルを一段と上げ、北朝鮮に対する締め付けを強化しています。しかしながら、中国とロシアが北朝鮮擁護の姿勢を崩していない状況では、経済封鎖の効果は限られています。国連が機能しない以上、アメリカの武力行使のみが“悪”の排除を可能とするならば、それは、善、即ち、正義の力の行使として是認されるのではないかと思うのです。

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8 コメント

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『中曽根元外相の息が出馬』 (this)
2017-09-22 13:04:38
【日本史疑】(ブログ村/国政・政局1位)も宜しくね!
Unknown (オカブ)
2017-09-22 19:07:04
倉西先生
いつもご指導ありがとうございます。
今日も少し先生のお言葉を返すような形になるかもしれません。お許しください。
私は善悪も含め「価値判断」は、哲学、倫理学の範疇を越え、個人の領域に属するものと考えております。
私自身はサルトルの影響を受けた主観主義的虚無主義者で当然、相対主義に行きつきますので、特に政治の場で善悪と仰られてもピンと来ない面があります。
では一般的に、価値が相対的である場においていかに秩序を保つか?という問題に私たちは直面します。
原始時代の人類は、始終、こん棒で殴り合って殺し合いをしていたという説もあります。
そこにおいては「殺人」は「罪」でなかったのです。
では人類はお互いによる殺人によって滅亡したか?
そこにおいて原始人の脳にも「生存権」と「自衛権」という基本的人権の概念が浮かんだようで、これらが最初の自然権による基本的人権になったという議論があります。
すなわち、人類にはア・プリオリに一般的な価値の概念を設定する権利はなく、あくまで経験則と相互の合意によって一般的に価値「とされる」概念に基づく、諸文化、諸制度、諸判断を築きあげてきたと思います。
人類最初の殺人を犯したカインも神はそれを滅ぼす罰を与えませんでした。
またモーセの律法に「殺すな」とあるのに、ヨシュアは大量虐殺を行っても旧約世界の英雄と扱われました。
西欧の価値判断の基いとなる聖書の世界でも、価値概念の判定は矛盾と二律背反に満ちて入り、非常に相対的です。
さて、前置きが非常に長くなってしまいましたが、北朝鮮の行動を「悪」として糾弾することは、人類の原初的感性に訴えるということにおいて、一定の効果を生みますし、トランプ大統領をはじめ為政者が「悪」を訴える表現を用いることは、こちら側の結束を固め、北朝鮮及びその支援者を挫くという目的において政治的に全く正しいと思います。
ただ、その「悪」の持つ意味は、私のような相対主義者もいるわけですから、「勧善懲悪」的な人間の原初的感情に訴える「悪」、あるいは神の意志によって定められた「悪」ではなく、既に述べましたように、人類が原始時代より築いてきた、経験と合意に基づく秩序に反するから「悪」である、という思考のプロセスを経るべきだと思います。
そうでないと、例えば米国は、ではヒロシマ、ナガサキはどうなんだ?と北朝鮮側から足をすくわれる可能性をもなきにしもあらずです。
さらには、米国も英仏も核を持っているじゃないか?という非常に稚拙な反論を覆すのにも、非常に骨が折れます。
私の言説は非常に回りくどく、先生におかれましてもご不快でしょうが、政治のような様々な思惑や価値観、党派性が渦巻く世界では「悪」という価値判断をするにも、それなりのプロセスを要するのではないかと思う次第です。
今回の北朝鮮の行動のように、国際社会からは明らかに「悪」と映り、それを明確に「悪」と決めつけないことによって、北朝鮮とその擁護者を力づかせるといった場面においても、国連演説のような政治的アピールの場においては、大いに「北朝鮮悪人説」をぶっても良いのですが、その根拠となる「悪」の価値判断には、よくよく注意して理論武装しておかないと、北朝鮮のような「悪」のしたたか者に足をすくわれかねないと思うのです。
私は、倉西先生から"善意悪用説"と”国際秩序"の破壊という今回の危機を解説するに、非常に有益な説を学ばせていただきました。
北朝鮮を「悪」と名指しすることに前述のように私は反対しませんが、その背景に上記の二概念による「悪」の定義をこの場合に当て嵌めて確立し、自分なりに敷衍してみたいと思います。
今日は本当にご無礼の段お許しください。申し訳なく存じております。
今後ともご指導の程よろしくお願い申し上げます。
日本史疑さま (kuranishi masako)
2017-09-22 19:30:26
 ブログのご紹介をいただきまして、ありがとうございました。こちらこそ、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
オカブさま (kuranishi masako)
2017-09-22 19:54:28
 コメントをいただきまして、ありがとうございました。

 本記事は、善悪の判断についてその根拠を聖書に求めることを意図したのではなく、”悪の本質とは、利己的な目的による他害性にある”とし、悪の判断基準は、個人に対してであれ、社会秩序に対してであれ、自己の利益を追求するため、あるいは、身勝手な動機によって害してるか、否かにあると考えております。「創世記」の記述は、実話ではないにせよ、人類の誕生と善悪の判断能力との関係を最も分かりやすく説明しておりますので、本記事において扱いました。古代の人々が、善悪を知る能力こそ人間性の根幹として認識し、それを多くの人々が受け入れたことこそ重要なのです。

 なお、『旧約聖書』に見られる様々な矛盾点は、同書が、実のところ、メソポタミアやエジプトの古代文明、原始的アニミズムの痕跡、並びに、ユダヤ人の歴史等が混合した書物であることを理解しますと、容易に氷解します。「創世記」は、メソポタミアの影響が強く、十戒も、その原型はシュメール等の古代法典に見受けられます。その一方で、ヨシュアの行動については、ユダヤ人の来し方を記録した歴史書としての記述と考えられます。もっとも、ヨシュアは、十戒を破ったが故に、ユダヤ人が呪われる原因となったとする説もあるそうです。『旧約聖書』のみならず、現実とは、様々な文明、文化、宗教が織りなす世界であり、そこに善悪が混在するからこそ、人類は、過去の歴史から悪と善を峻別し、悪を排除し、善を伸ばすことで、より善き世界を構築することができるのではないでしょうか。
Unknown (オカブ)
2017-09-22 20:35:44
倉西先生
ご教示ありがとうございます。
いずれかの機会に別途、先生からユダヤ世界観のご教示をいただきたく存じます。
さて、私の本旨は聖書的善悪感を論ずるのではなく、善悪の概念が非常に相対的であり、それを主張するためには、その判断のプロセスを慎重に吟味すべきということは、先生のご高承の通りです。
そして、そのプロセスの淵源は原始時代の生存権と自衛権の発生にまで遡ることができるというものです。
もし、このプロセスを怠るとポリコレのような倒錯した世界観の持ち主から「葵のご紋の印籠」を出されて、ぐぅの音も出なくなるのでは、と慮った次第です。
申し訳ありません。再びお言葉を返すことになり恐縮です。
オカブさま (kuranishi masako)
2017-09-22 21:18:18
ご返事をいただきまして、ありがとうございました。

 私は、善悪の判断や倫理の根源は、主観に基づく生存権や自衛権を越えたところの、客観的な視点の獲得に求められるのではないかと考えております。と申しますよりは、生存権や自衛権のみでは、動物の世界と変わりはなく、道徳や倫理は発生し得ないのではないかと思うのです。主観を越えたところの客観な視点を、私は、今のところ、一先ずは、”脱主体思考”と名付けております(主客両面の視座が重要…)。もちろん、ポリコレであれ、道徳の根拠を権威に求める態度は形式主義の悪弊であり、真の道徳には行き着かないことでしょう。”利己的他害”という悪の本質を捉えた上での判断の方が、よほど、善き世の実現に貢献すると思うのです。
Unknown (オカブ)
2017-09-22 22:22:37
倉西先生
本当に本当にお許しください。
これを最後といたします。
"利己的他害"的関係というのは、社会に遍在するものと私は考えております。
例えば、経営と労働者、営業と顧客などは、一面から見れば、遍く"利己的他害"の関係にあるととらえることができます。
しかし、そうした考えに拘束されてしまうと、通常の社会は成立し得なくなるわけで、そこに一定の「善悪」の判断のプロセスを経たうえで、相対的にそれらは社会を構成するための「善」と結論付けるべきものと考えます。
ですから合意と経験則に基づく「善悪」の判断の「プロセス」が一層重要と私が考えるゆえんです。
私の申していることは、先生の仰る"主観を越えたところの客観な視点"に逢着すると思います。
本当に本当に申し訳ありません。
良い週末をお過ごしください。
オカブさま (kuranishi masako)
2017-09-23 07:50:14
 お返事をいただきまして、ありがとうございました。

 最後のコメントとのこと、承知いたしました。オカブさまのご意見を拝読し、考えますところを一つだけ申し上げますことをお許しくださいませ。

 経営者と労働者、あるいは、営業と顧客等の関係につきましては、勤労と報酬との間の均衡が保たれている場合には、”利己的他害”を構成しないのではないかと思うのです。アダム・スミスは、”神の見えざる手”という表現を以って個々の自由な経済活動による”利己的他益”を主張しましたが、こちらの方は、逆にプラス面の方だけに注目した理論かもしれません。現実には、自他、即ち、勤労と報酬、権利と義務、受益と負担・・・のバランスこそ重要であり、このバランスが一方が害を受ける方向に崩れる時、あるいは、双方がマイナスを被る状況に至る時、”悪しき世”が出現するのではないかと考えるのです(最も望ましいのは、ポジティヴ・サムではある…)。そして、この善きバランスを見出すためにこそ、客観的な視座を要するように思うのです。

 こちらこそ、反論ばかりのお返事を差し上げてしまったようで、申し訳なく思っております。オカブさまも、良き週末をお過ごしくださいませ。
 

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