万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

ヒッグス粒子発見―魂は存在する?

2012年07月07日 09時42分19秒 | その他
 先日、40年以上前にその存在が予測されながら、実在が確認されていなかったヒッグス粒子の存在が、相当高い確率で確認されたとする、驚嘆すべきニュースが全世界に伝わりました。ヒッグス粒子の発見が極めて重大な意味をもつのは、その性質が、質量を与えるからです。長年科学者を悩ませてきた重力の謎は、解明に向けて、大きく踏み出したことになります。

 ところで、私は、物理学の専門家ではなく、あくまでも、科学的な知識や裏付けを欠いた直感に過ぎないのですが、ヒッグス粒子の存在は、魂、あるいは、生命誕生の謎をも解き明かす可能性があるのではないかと思うのです。質量を与える素粒子が存在していると言うことは、逆に、質量のない素粒子の存在をも証明しております。そして、この質量のない素粒子こそ、生命や魂の正体ではないのかと。生命とは、質量のないある特定の素粒子と質量を与えるヒッグス素粒子が結びついた形態であり、生物の死とは、両者が分離することとして説明できるかもしれないのです。つまり、生命を生み出す素粒子が存在していると仮定することができるのです。

 この仮説が正しければ、近い将来、魂、幽霊、テレパシー、ワープ、透明人間?あるいは、突然出現する飛行物体などの存在も、科学的に証明される日が訪れるかもしれません。ヒッグス粒子の発見は、物理学のみならず、生命科学においても、新たな一ページを開くかもしれないのです。

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12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ビックス粒子発見 (kiiwa)
2012-07-07 19:17:04
「ヒッグス粒子の存在は、魂、あるいは、生命誕生の謎をも解き明かす可能性があるのではないか」という設問は、とても大事なことだと考えます。「新しい1ペ-ジ」を開くことは間違いないことでしょう。このような観点のブログ記事は少ないので、とても意義深いと思います。ありがとうございました。
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kiiwaさま (kuranishi masako)
2012-07-07 20:49:13
 コメントをいただきまして、ありがとうございました。
 科学技術が進歩しているようで、実は、人類には、まだまだ解かれていない謎がたくさん残されています。自らの存在を含めて・・・。本記事も、見当違いの恥ずかしい記事を書いてしまったかもしれないのですが、可能性として提起してみました。意義深いとおしゃってくださいましたこと、大変うれしく存じます。
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Unknown (prime numbers)
2012-07-12 06:03:35
人類には、まだまだとかれていない謎がたくさん残されていることは誰しも認めることですが、だからといって、魂などの存在を仮定することは科学の否定に繋がると思います。
アリストテレスの『自然学』以来、物理学は神の存在を否定したからこそ自然を論理的に理解できるようになったのです。また、魂などの存在を否定したことで、生物学は科学になったのです。
素粒子論と現代宇宙論に関して、一流の学者たちが一般向け科学読み物を書いています。10冊くらい読まれたらいかがでしょうか。考え方が変わると思います。生物学に関しては生物学の歴史に関する本を数冊読めば十分でしょう。いかに苦労して宗教的な考え(人間および生物は特別な法則に支配されているなど)を否定し、科学となったかが理解できるでしょう。
魂などの、いわゆる超常現象論を肯定することは科学においては永遠にありえないと断言できます。
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prime numbersさま (kuranishi masako)
2012-07-12 07:53:48
 コメントをいただきまして、ありがとうございました。
 ”質量のない素粒子”の存在は、科学の研究領域であり、本記事は、科学を否定しているわけではありません。質量を与えるとされるヒッグス粒子の理論もまた、これを前提としております。つまり、生命の誕生を合理的に説明するためには、生命に関わる未知の素粒子の存在を仮定してはどうか、と問題提起してみたのです。魂の存在の肯定=科学の否定ではなく、最初から可能性を排除し、ヒステリックに頭から否定することは、むしろ、中世の教会と真逆な、反科学的な態度となる可能性さえあります。あらゆる研究には、可能性を排除しない寛容な態度と、自由な発想の尊重が必要なのではないでしょうか。
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無知の知 (愛知のシーサー)
2012-07-12 11:29:30
神、あの世、魂の存在を否定する方々が、その否定の根拠を証明できた事例は一つも無く、単に「信じられない=無い事を心から信じている(妄信)」に過ぎません。
逆に、見えない神や魂、あの世の存在証明を延々とし続けているのが宗教であります。
神が真理、宇宙の法則とも称されるように、宗教の本質は真理の探究であります。
神に近づくとは、自身の心の内面の探求、他者への理解、山・川・草・木・大宇宙全ての中に流れる法則、エネルギー、真理を探求することであります。
困難を棚に上げて神に縋り付くのも、教祖に妄信、狂信するのも真の宗教の姿ではありません。(救済としての一面はあります)
科学が真理の探求であるならば、やがては魂、あの世、神をさけて通る事は出来ないはずです。
探求すれば探求するほどに新たな疑問が沸き立ちます。宇宙をいくら探求しても、針の穴から世界を覗いているほどにしか見えず、素粒子を研究しても既存の物理学では説明出来ない事象に突き当たります。新たな遺伝子一つ、ミジンコ一匹作ることの出来ない無力感にさいなわれるのが科学者の多くでありましょう。それでも探求を続けるのが科学者であります。
科学者であるならば、真理に対して限りなく謙虚でなければなりません。僅かの発見や成果で、神を超えたかの如く錯覚したり、神を否定するほど思い上がるならば、いかに一流といわれようとも、それは真理の探求者では無く、単なる野心家でしかないのではないでしょうか。これはソクラテスの「無知の知」に通ずるものであります。

科学と宗教は矛盾するものではありません。排斥しあうものでもありません。

また、「アリストテレスが神の存在を否定した」とは聞いた事がありません。アリストテレスは原因結果の法則により、神の存在証明を示したのではないのでしょうか?

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愛知のシーサーさま (kuranishi masako)
2012-07-12 13:14:59
 コメントをいただきまして、ありがとうございました。
 おそらく、人間の知性は、まだまだ未熟な段階にあり、生命誕生の謎を解き明かすには、何時とは知らない、先の先の時代まで待たなければならないかもしれません。もしかしますと、謎が解明された暁には、真の世界とは、現在の人間が”現実”である信じている世界とは、全く別のものであることが判明し、驚愕する可能性もあります。何事も、既存の路線の延長では行き詰ってしまう場合には、ブレークスルーとなるような、発想の転換が必要なものです。ヒッグス粒子の発見もまた、生命科学におけるブレークスルーとなる可能性も完全には否定できないようにも思えるのです。そしれそれは、精神世界にも迫ることになるかもしれません。最初は、荒唐無稽な戯言として嘲笑されていたアイディアも、後の世に至って、正しいことが証明されることもあります。もちろん、本ブログの記事が正しいとも言えないのですが(間違いが証明されるかもしれない!)、特に解明されていない謎を解くためには、固定観念に囚われない柔軟なアプローチが望ましいように思うのです。
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チャネル (愛知のシーサー)
2012-07-12 21:12:49
人間である以上、いくらあがいても、この3次元の肉体条件に縛られ、時間に縛られ、常識に縛られ、様々な固定概念に縛られるものです。
そうした3次元の枠を超えるために古来より瞑想や座禅、肉体修養等が用いられてきました。
近いところではスティーブ・ジョブズが禅により発想を得ていたところは有名ですし、そうした例は数多く枚挙にいとまがないでしょう。
いくら顕微鏡をのぞいても、望遠鏡を覗いても、真実が見えない時、心静かに目を閉じてチャネルを合わせ、自身の内面に目を向けると、やがて見えてくるものがあります。
こうした別のチャネルを持っている事で、新たな道をひらく方法がございます。ただし、方法を間違えると破滅に向かう事もあるが故に、方向を定める方法・アプローチが必要となるのです。
その方法・アプローチの事を『信仰』と呼びます。
今、「常識や固定観念に囚われない柔軟なアプローチ」を真に実践出来る人が少ない理由です。
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愛知のシーサーさま (kuranishi masako)
2012-07-12 22:30:39
 ご返事をいただきまして、ありがとうございました。
 先のコメントで、ご質問にお答えするのを忘れてしまいまして、申し訳ありませんでした。アリストテレスは、『形而上学』という書物を残しており、質料や形相といった概念を用いて、精神世界を含めた存在そのものを説明しようとしたようです。難解で理解しづらいのですが、もう一度、読み直してみようかとも思います。
 何と表現するのが適切なのか分からないのですが、人間に心というものが備わっていることは、実にすばらしいことなのかもしれません。その一方で、心を修めることは難しく、愛知のシーサーさまがおっしゃるように、自らを破滅させることもあります。多くの人々が、心というものに関心を寄せ、良き心のあり方を探求するようになれば、この世も、わずかなりとも善の方向に向かうのではないかと期待するのです。
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人生の目的と使命 (愛知のシーサー)
2012-07-13 10:13:52
ありがとうございます。
仏教では「心が全てである」と説いています。
テレビやパソコン、衣服、家具、食器、家、道路・・・すべて誰かの心にあったものが、多くの人の手を経て形になったものです。
科学技術の発展、人間関係、国の政治、現在の自分・・等々、すべて個人や集合の想念の現れであるのです。
心とは単なる概念ではありません。本当は実体のある無限の可能性を秘めた大きなエネルギー体であるのです。心の大切さ、心の力を忘れて唯物的に進むなら果ては結果平等の共産主義、社会主義に行き着きます。
この物質世界において、物心共に調和された素晴らしい幸福な世界を築くのが仏教の究極的目的です。
天上の仏国土を地上に実現する、というこの壮大なプロジェクト実現の為に、何度も何度も転生輪廻を繰り返し、心の修養、仏国土建設に努力精進しているのが、我々人間の真の姿であり、その目的と使命であるというのです。
ですから、未来がどのようになるのかは、私たちの心次第であるのです。
自身の未来、国の未来、世界の未来と幸福に、すべて自分の心が関わっているという事実を認め、再びこのプロジェクトに参画すると仏陀に表明するのが信仰といえましょう。
人間には自由が与えられています。
結果失敗することもございます。
けれども反省し、悔い改めてもう一度精進の道を歩むことも許されております。いえ、何度でもです。これが仏の慈悲といわれるものです。
私たちは偶然に生まれたのでもなく、目的も使命も無く存在しているものでもありません。一人一人が仏の分け御霊であり、それ故に皆が等しく尊い存在であるのです。しかし、その努力と結果は公平に判定されるという世界観です。
私はこのように理解をし、人生の目的、使命を自覚して日々を生きております。
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愛知のシーサーさま (kuranishi masako)
2012-07-13 21:08:35
 ご返事をいただきまして、ありがとうございました。
 唯物論の権化である社会・共産主義イデオロギーに洗脳された日教組によって、どれほど教育が歪められ、人々の心が荒んでしまったか知れません。大切に育てられるべき児童や生徒の心を、無味乾燥とした思想で痛めつけてしまったのですから、罪深きことです。
 ところで、ヒッグス粒子のお話は、科学的な大発見でありながら、生命に関わる未知の素粒子の存在を暗示することで、唯物論に凝り固まってきた人々の思考を和らげ、生命に対して謙虚さを取り戻すきっかけとなるかもしれないと思うのです。人類がまだ知り得ない(宗教では感知しているのかもしれない・・・)、知性の源とも言うべき存在があるかもしれないのですから・・・。
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