クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

「風林火山」。13才の竜若丸が殺され、“長尾景虎”はどう動く?

2007年09月17日 | 戦国時代の部屋
――おごれる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
高慢の絶頂にあっても、それは春の夢のごとく長くは続かない。
そう『平家物語』にあるように、
関東管領“上杉憲政”もまた遊興にふけり、家臣の諫言も耳を貸さなかったために、
後北条氏にことごとく敗北を喫し、
管領職を“長尾景虎”に譲らなければならなかった武将でした。

天文14年(1545)の河越合戦では、外交面でその手腕を発揮した憲政でしたが、
この時代勝たなければ意味がありません。
圧倒的兵力をもって河越城を攻めたにもかかわらず、
“北条氏康”の夜襲によって憲政は這々の体で敗走せざるを得なかったのです。

そんな憲政の失墜に拍車をかけたのが、
同21年嫡男“竜若丸”を平井城に置いて越後に落ち延びたことでしょう。
このとき竜若丸わずか13歳。
城に残すというより置き去り同然でした。
大河ドラマ「風林火山」でも長尾景虎(Gackt)に
「ご短慮でしたな」という言葉を浴びせられてしまいます。
『小田原北条記』には、

 憲政は酒宴遊興にうつつを抜かし、この上なくはでに振る舞い、古老・忠臣の
 忠言にも耳を貸さず、心がよこしまで不正な欲望を持つ者ばかりを使った。
 それで主君も臣下もともに道理にはずれ、国家を乱し、
 そのうえ息子の竜若丸をさしおいて、管領職を景虎に譲ったのである。
 ここに至って上杉の名家は絶えたのである。
 「あれこれ考慮されるのが当然なのに、なんということだ」とだれもが不快に思った。
 (『小田原北条記』(上)教育社より)

と、憲政を批判。
そして竜若丸の最期を悲劇的に記しています。
ドラマでは“山本勘助”(内野聖陽)らが見守る中、
北条氏康(松井誠)が竜若丸を斬っていますが、
実際は“神尾治郎右衛門”という者がその首をはねたと伝えられています。

胎内を探してでも敵の血統を断つのが武門の習い。
氏康の処置は妥当ですが、
まだ13歳であった竜若丸の死に涙を流さぬ者はいなかったそうです。

憲政を裏切り北条に竜若丸を渡した“妻鹿田”(田中実)らに対し氏康は、
「不忠不義の悪逆人は世の見せしめのために殺さねばならぬ」と、
その行為を許しませんでした。
そして氏康の命を受けた“石巻隼人”は彼らの首を即座にはね、
一色村の松原につるしたということです。

上杉憲政に頼られた長尾景虎は北条征伐を決意。
しかしすぐには出陣しません。
2度の上洛を果たし、将軍“足利義輝”から関東管領の補佐を任ぜられ、
また常陸の“佐竹氏”らの出陣要請を受けてのち、
景虎自らが関東に乗り込むのです。

ときに永禄3年(1560)8月。
向かうは北条氏の本城“小田原城”。
関東の諸将はこぞって景虎につき、翌年小田原城を囲んだときには、
11万5千余騎という大軍に膨れ上がっていたのです。

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