男は“父”になっても男です。
しかし、女は“母”になると
女ではなくなるのでしょうか。
ドラマ「愛の流刑地」が放送しているときに電話を掛けてきた人は、
人間には2つの体質があると言いました。
ひとつは“恋愛体質”、
もうひとつは“結婚体質”。
前者が刺激を求めて能動的に恋愛をするタイプならば、
後者は現実を考えて、節度を保って生きる人なのだそうです。
電話を掛けてきたその人は、結婚6年目を迎える2児の母親。
元自衛官で、持ち前の体力と筋力を活かして子育てをしながらバリバリ働いています。
しかしその一方で、夫に対する小さな不満が積もっており、
少なからずストレスを感じているお母さんでもあります。
そんな彼女の説く論理で言うと、
「愛の流刑地」の“冬香”(高岡早紀)は恋愛体質ということでしょうか。
冬香は家庭を持ちながらもどこか自分の居場所を見出せず、
偶然出会った20年来のファンの作家と不倫関係になりました。
能動的に刺激を求めていたわけではありませんが、
家庭を顧みなくなったという意味で、
“母”から“女”になったと言えます。
「同性から見てこういう女はどう思うん?」
と、ぼくは訊いてみます。
すると彼女は唸りました。
「これって男の妄想が入っているよね」
「そうなん?」
「子どものことを思うと“女”にはなれないよ」
「“母”だって女だがね」
「女だよ。だけど子どもを捨てたら“母”じゃないよ」
彼女は“女”と“母”を明確に線引きしている人です。
すなわち母=女ではありません。
彼女は自らのことを「年貢を納めた女」と言い、
出産してからずっと“母”の意識を強く持っています。
「でも、もし冬香みたいに好きな人ができたらどうするん?」
「恋をしても恋愛はしない」
「憧れはないんかい?」
「多少はあるよ。でも、子どもが大事だもん」
彼女は“母”の立場にいるせいか、
恋愛にはほとんど興味がないようでした。
自分の夫に対しても「ただ稼いでくればいい」と言います。
のろけ話が「10」ある内「2」あったとすれば、
残りの「8」は全部夫への苛立ちと不満です。
その原因も、ゲームやプラモデルといった自分の好きな時間ばかりを過ごし、
あまり子どもに接しようとしないことが、
大きな割合を占めているとのこと。
家事に協力してくれないことも、
彼女を苛立たせているようでした。
「この「愛の流刑地」は人気があるみたいだけどどう思う?」
と、ぼくは訊きます。
もし禁じられた愛をモチーフにしたこの物語が、
視聴者の願望や理想を満たすものであるとするならば、
女はどう見るのだろうと思ったのです。
すると彼女は鼻で笑います。
「現実的にあり得ないでしょ」
「冷めた言い方だね」
「日本は節度を重んじる風潮があるから、こういうのをつい見ちゃうんだよ」
「スキャンダラスだし?」
「わたし好みじゃないね」
訊いた相手が悪かったかもしれません。
彼女は「仁義なき戦い」や戦争映画が好きな人なのです。
ぼくが話題に出さなければ、
「愛の流刑地」にチャンネルを回すことさえなかったでしょう。
しかし、ひとつの意見であることは確かです。
男の視聴者よりもおそらく多いであろう女の中にも、
嫌いな人も少なくないはずです。
では、このドラマを“つい”見た人も含めて、
心の琴線に触れた視聴者で多かったのは“母”でしょうか、
それとも“女”でしょうか。
この“母”と“女”に一線を引く考えはひとつの捉え方です。
中には両方の立場に立つ人もいるだろうし、
母になったからと言って、女ではなくなったとは言い切れません。
ただ、おおよそ単純な立場にいる男よりも、
女はいろいろな顔を持っているということは確かなようです。
電話を掛けてきたその人は、下の幼い子どもがぐずり始めたのを機に、
「じゃあまたね」と言いました。
電話を切ってすぐに子どもをあやしに行ったのだと思います。
頭に浮かぶそんな彼女の姿は、
紛れもなく“母”なのでした。
しかし、女は“母”になると
女ではなくなるのでしょうか。
ドラマ「愛の流刑地」が放送しているときに電話を掛けてきた人は、
人間には2つの体質があると言いました。
ひとつは“恋愛体質”、
もうひとつは“結婚体質”。
前者が刺激を求めて能動的に恋愛をするタイプならば、
後者は現実を考えて、節度を保って生きる人なのだそうです。
電話を掛けてきたその人は、結婚6年目を迎える2児の母親。
元自衛官で、持ち前の体力と筋力を活かして子育てをしながらバリバリ働いています。
しかしその一方で、夫に対する小さな不満が積もっており、
少なからずストレスを感じているお母さんでもあります。
そんな彼女の説く論理で言うと、
「愛の流刑地」の“冬香”(高岡早紀)は恋愛体質ということでしょうか。
冬香は家庭を持ちながらもどこか自分の居場所を見出せず、
偶然出会った20年来のファンの作家と不倫関係になりました。
能動的に刺激を求めていたわけではありませんが、
家庭を顧みなくなったという意味で、
“母”から“女”になったと言えます。
「同性から見てこういう女はどう思うん?」
と、ぼくは訊いてみます。
すると彼女は唸りました。
「これって男の妄想が入っているよね」
「そうなん?」
「子どものことを思うと“女”にはなれないよ」
「“母”だって女だがね」
「女だよ。だけど子どもを捨てたら“母”じゃないよ」
彼女は“女”と“母”を明確に線引きしている人です。
すなわち母=女ではありません。
彼女は自らのことを「年貢を納めた女」と言い、
出産してからずっと“母”の意識を強く持っています。
「でも、もし冬香みたいに好きな人ができたらどうするん?」
「恋をしても恋愛はしない」
「憧れはないんかい?」
「多少はあるよ。でも、子どもが大事だもん」
彼女は“母”の立場にいるせいか、
恋愛にはほとんど興味がないようでした。
自分の夫に対しても「ただ稼いでくればいい」と言います。
のろけ話が「10」ある内「2」あったとすれば、
残りの「8」は全部夫への苛立ちと不満です。
その原因も、ゲームやプラモデルといった自分の好きな時間ばかりを過ごし、
あまり子どもに接しようとしないことが、
大きな割合を占めているとのこと。
家事に協力してくれないことも、
彼女を苛立たせているようでした。
「この「愛の流刑地」は人気があるみたいだけどどう思う?」
と、ぼくは訊きます。
もし禁じられた愛をモチーフにしたこの物語が、
視聴者の願望や理想を満たすものであるとするならば、
女はどう見るのだろうと思ったのです。
すると彼女は鼻で笑います。
「現実的にあり得ないでしょ」
「冷めた言い方だね」
「日本は節度を重んじる風潮があるから、こういうのをつい見ちゃうんだよ」
「スキャンダラスだし?」
「わたし好みじゃないね」
訊いた相手が悪かったかもしれません。
彼女は「仁義なき戦い」や戦争映画が好きな人なのです。
ぼくが話題に出さなければ、
「愛の流刑地」にチャンネルを回すことさえなかったでしょう。
しかし、ひとつの意見であることは確かです。
男の視聴者よりもおそらく多いであろう女の中にも、
嫌いな人も少なくないはずです。
では、このドラマを“つい”見た人も含めて、
心の琴線に触れた視聴者で多かったのは“母”でしょうか、
それとも“女”でしょうか。
この“母”と“女”に一線を引く考えはひとつの捉え方です。
中には両方の立場に立つ人もいるだろうし、
母になったからと言って、女ではなくなったとは言い切れません。
ただ、おおよそ単純な立場にいる男よりも、
女はいろいろな顔を持っているということは確かなようです。
電話を掛けてきたその人は、下の幼い子どもがぐずり始めたのを機に、
「じゃあまたね」と言いました。
電話を切ってすぐに子どもをあやしに行ったのだと思います。
頭に浮かぶそんな彼女の姿は、
紛れもなく“母”なのでした。