ふるさとの山歩き、樹木、カメラ、家庭菜園の日記

山歩き・歴史の散歩・樹木観察・デジタル一眼レフ・家庭菜園などの活動記録です。

2021年オクラ!

2021年08月28日 | 家庭菜園

 2021年8月28日(土)、オクラが異常に良く出来た。昨年と同じ、58円の苗を5株植え、同じように育てたつもり。昨年は、6月16日から8月25日までに、108個。今年は、6月26日から8月26日までに、なんと442個。昨年の4倍で、1株当たり88個。まだまだ収穫できるが、さすがに飽きたので片付けた。

ナスも順調である。2株植え、6月27日に初収穫し、8月26日現在で75本である。(昨年は3株植え、6月18日~11月12日までで、155本)

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50年前の韓国旅行(その後2)

2021年08月11日 | 旅行

 44年前、釜山から慶州に向かう列車から見えた山々には木が生えていなかった。このことについて、五木寛之の著書「朝鮮半島 百寺巡礼」に『最初に訪れた1960年代の韓国では、赤茶けた岩肌、そして禿山がずっと続いていて、なにか荒涼とした印象を受けた。・・・朝鮮戦争では、朝鮮半島全体が戦場となり、大地は見る影もなく荒廃した』と書かれている。44年ぶりに、慶州に向かう列車の車窓から見える山は、日本同様、新緑に覆われていた。
   広々していた慶州駅前は、道路の両側にビルが立ち並んでいた。宿泊した旅館の場所あたりを探したが、分からなかった。
  
 44年前に巡った慶州の史蹟を、バスとレンタサイクルで見て回った。
○鶏林(ケリム):世界遺産。新羅の王族がうまれたという伝説の林。
  
   当時は、歴史的意義が分からないまま見学していた。ケヤキと柳の古木が印象的だった。
○雁鴨池(アナプチ):新羅時代の離宮の庭園。
  
   当時、葦が密生した池と瓦葺の今にも壊れそうな建物だった。池は浚渫され錦鯉が泳ぎ、極彩色の
  建物が護岸の周りに
3棟建設され、大きく様変わりして当時の面影は全くなかった。
○武烈王陵(ムヨルワンヌン):7世紀に統一新羅の基礎を作った名君武烈王の墓陵。
  
   よく似た墳墓が多い中で、斜面の崩壊を防ぐ石が相変わらず写真と同じ場所にあったので、偶然発見できた。

 海雲台には、当時海岸線を走っていた鉄道が山側に移設され、地下鉄で行った。当時海の家が並んでいた海岸通りには、高層ビルが建っていた。宿泊した旅館は、街全体があまりにも変わって、全く分からなかった。
 
 焼き肉を食べてほろ酔い気分でビーチ近くのゲストハウスへの帰り道。地階のカラオケ屋から、薄明りの階段を伝わって聞こえてきた女性の歌声「・・・歩いても歩いても♪ 小舟のように私はゆれて ゆれて♪・・・」。懐かしいメロディーと歌詞に思わず立ち止まった。「足跡だけがついて来るのよ♪ ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ♪・・・」。こんな偶然があるだろうか。44年ぶりに訪れた海雲台ビーチ近くで聞くなんて・・・。
 ブルーライト・ヨコハマは、1970年代末まで日本の音楽が禁止されていた韓国内で最も知られた日本の歌のようだが、ほとんど奇跡的な出来事に呆然と佇んだ。
 旅は感動だ。

 

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50年前の韓国旅行(その後1)

2021年08月09日 | 旅行

 2015年4月25日(土)から5月2日(土)まで、44年ぶりに釜山・慶州を訪れ、当時行った場所がどのような所だったのか、どのように変わったか確かめた。インターネットで予約した慶州のゲストハウスに3泊、釜山海雲台のゲストハウスに2泊、往復のフェリーにそれぞれ1泊した7泊8日のバックパッカー  in  釜山・慶州
 必需品は、パスポートと日本円。44年前に必要だったビザ・ドル・イエローカードは不要。往復10,080円(学割で7,000円)だったフェリーの2等船賃は17,100円と、4倍以上になったJR運賃(広島・山口間 640円⇒2,640円)に比べ、割安だ。
 広島より10年は遅れていると思った釜山は、50階以上の超高層ビルが25棟あり、107階と101階のビルを建設中で、広島より遥かに進んだ近代的な都市に変貌していた。
 
   竜頭山(ヨンドンサン)山頂の土産物店で、壁に展示された1970年代の釜山港周辺の写真を見つけた。左側の正面にスロープがある建物が釜山駅で、当時このスロープで写真に写った。右側がフェリーの桟橋で、手前の禿山が竜頭山(ヨンドンサン)。
 
釜山駅前は、当時殺風景だったが、オブジェと噴水がある都会的な公園になっていた。
 
釜山駅裏の釜山港湾整備工事の仮囲いの鋼板に、1990年代ころの釜山駅の写真が張り付けてあった。スロープを撤去し、駅前広場を縮小し、ガラス張りの新棟を建設する大規模な増築工事が行われ、2004年に新駅舎になっていた。
 
   竜頭山からは、公園の木々とロッテモールなどのビルに遮られ、釜山港を見ることが出来なかった。ロッテモールの屋上から漸く釜山港と釜山大橋を眺めることが出来た。振り返ると、ビルに囲まれた竜頭山公園が見えた。
 
  

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50年前の韓国旅行(8・9日目:板門店と帰国)

2021年08月06日 | 旅行

 8月6日(金)9時半、大韓旅行社のツアーで、ソウルの北西約60kmの板門店(パンムンジョム)に行った。バスの中で、当時放送禁止となっていたフォーク・クルセダーズの「イムジン河」を口ずさんだ。板門店近くでバスに小銃を携えた米兵が乗り込んできた時は、死んでも損害賠償請求しませんと誓約してツアーに参加したはずだが、さすがにひや汗が出た。
 
 朝鮮半島の南北分断を象徴するとともに、冷戦のさなか、南北が対話する唯一の場所である板門店に来ることができ、感慨深いものがあった。軍事停戦委員会本会議場で、テーブルの2つのマイクを結ぶ線が南北の軍事境界線と聞いて、何度も北朝鮮に足を踏み入れた。
 
  丘陵が続く北朝鮮を背に写真を撮った。バスの中で、駐留の米兵は北朝鮮兵を威圧するようみんな大柄だと聞いていたが、ほぼ背が同じくらいの米兵がいて気軽に写真撮影に応じてくれた。
 
   大韓旅行社の通訳兼ガイドの女性二人と、朝鮮戦争に参加した16か国の旗の前で写真に写り、同じテーブルで昼食を取った。そのとき、二人が、韓国や米国が前線で防衛しているので、日本は繁栄を享受できると話したのが印象的だった。
 
 16時過ぎソウルに戻ると、板門店に行って安心したのか、残金が少なく不安になってきた。早く帰国しないと不味いことになると思い、釜山まで夜行列車で帰ることにした。ソウル駅で、夜行列車の切符を買おうとするが、駅員に日本語が通じない。大きな声を出していたのだろうか、近くにいたおばさんが寄って来て、切符を買ってくれた。日本語世代はあちらこちらにいた。

 8月7日(土)朝、釜山駅に着いた。歩いて釜山港まで行き、ほっとして港の食堂で朝食を食べた。支払いのとき、ウオンが足りず、たまたま近くにいた日本人に円と交換してもらい、支払うことが出来た。
   9時に釜山港を出発し、16時過ぎ無事に下関港に着いた。
 
    板門店以外の行き先や宿泊場所、帰国の日も決めず、思いつくまま気の向くまま。持参した金も極めて少額。旅の間、日本人や韓国人、いろいろな人と出会い、助けられた。若さゆえに出来た9日間の韓国旅行だった。

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50年前の韓国旅行(6・7日目:ソウル散策)

2021年08月04日 | 旅行

 8月4日(水)、板門店(パンムンジョム)ツアーを予約するため、朝一歩いて大韓旅行社に行くと、6日の予約(3,500W)が取れた。その後、ソウル市内を散策した。
 
徳寿宮(トクスグン):激動の朝鮮王朝末期の離宮。ルネッサンス洋式で韓国初の西洋建築である石造殿がある。
   
   俯瞰した写真の右端下に見える第4代国王「世宗大王像」
景福宮(キョンボックン):朝鮮王朝初代国王・李成桂が造営した王宮
   
 敷地内に、1910年日本の韓国併合に伴い建設された朝鮮総督府の建物があった。その後、この建物は、日本侵略の屈辱的な象徴として、1995年に取り壊された。また、敷地内に、1907年に日本に不法に持ち出され、1918年に返還されたという波乱な歴史を持つ「敬天寺十層石塔」があった。この石塔は、2005年に韓国初の国立中央博物館の開館に伴い移築された。

ソウル市庁舎:1926年、日本統治時代に建てられた京城府庁舎
   
 その後、この庁舎は、2012年にソウル図書館に改造された。

 8月5日(木)、終日ソウル市内を散策した。

 

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