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アートプラス京めぐり

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染殿院

2016年01月13日 08時05分17秒 | 寺院

 

 

 

染殿地蔵

正しくは染殿院と号する時宗の寺。もとこの付近にあった金蓮寺の塔頭で、堂内厨子に安置する本尊地蔵菩薩像は秘仏。高さ2メートルの裸形立像といわれる。文徳天皇皇后(染殿皇后)はこの地蔵尊に祈って清和天皇を降誕されたといい、これに因んで安産守護の信仰がある。もと十住心院と号し、ここで弘法大師が十住心論をあらわしたといわれる。しかし、天明以来の大火にしばしば罹災し、寺記を失い、その由緒沿革がはっきりしない

 

染殿院は大同3年春(808)空海(弘法大師)の開基にして、大師入唐帰朝の後当院に留まり十住心論を清書調巻されたことから十住心院と称した。古往は釈迦院或いは敬禮寺又は清和院釈迦堂其他釈迦堂(鎌倉期の一適聖絵巻)とも呼ばれた。本尊は地蔵菩薩にして高さ2メートル余の木彫裸形の立像にて秘仏である。人皇55代文徳天皇(850~858在位)の后藤原明子(藤原忠仁公の息女)は染殿皇后と申し、この地蔵尊に祈願して皇子を降誕された。後の清和天皇である。これより染殿地蔵尊と称された。人皇62代村上天皇(946~967在位)第3皇子一品式部郷久賀為平親王は、四条中川のあたり(中川は御所より今の寺町通りに流れていた川)境域広く家造りされた。染殿地蔵堂も自然この内に含まれ御願寺となって皇子を染殿親王と申した。66代一條院永延元年(987)に東大寺沙門然が入宋帰朝し赤栴檀の釈迦像を伝来し嵯峨野の清凉寺に安置されたが然はまた自ら御丈三尺余の釈迦像1軀を造り当院に奉納(金蓮寺霊宝庫に現存)これより世に四条京極の釈迦堂と呼ばれた。鎌倉期の一遍聖絵巻に「弘安7年閏4月16日関寺より四條京極の釈迦堂の釈迦堂に入り給ふ。貴賤上下群をなして人はかえり見る事あたはず、車はめぐらすことをえざりき17日ののち因幡堂にうつり給ふ」とある、すなわち一遍上人が大津関寺から入洛四條京極の釈迦堂にて念仏賦算をしたというのはこの寺のことである。金蓮寺よりも釈迦堂の方が歴史も古く、一遍とのゆかりも深いのであるが、室町時代はどの寺社にも属しておらず時の移りとともにその時代の権力者によって次から次にと護持傳来されて来たが、偶々足利義満が嘉慶2年12月22日金蓮寺に寄進したため本末顛倒して金蓮寺の塔頭になった。

無窓国師苔寺(洛西西芳寺)の作庭に没頭したとき、この地蔵尊が一旅僧となって国師を助けたという傳え」、嵯峨天龍寺開山無窓国師が松尾に西芳精舎(苔寺)を創し、泉水の美観を好み築山の構えを営もうとしたとき、石は重く大きく少しも動かなかったが、たまたま一人の僧が忽然として現れ、ただ一人で自由に大石を動かし国師の意の通り庭園を作ったので、国師は歓喜の余り何かお礼をしようかと思案したが幸にその僧は袈裟をもたないのがわかったのでこれを進しようと自ら着けていた袈裟を贈った。その僧はその袈裟を受け、錫杖を地に立てたまま消え失せたのである。後日国師が四條の辺に托鉢し、たまたま四條京極の染殿地蔵堂に詣り、御扉を開けて拝すると、先の袈裟は地蔵菩薩の肩にかかっており手に錫杖はなかったので、疑うところもなく件の僧はこの地蔵の化身であったことを知り、国師は感激の涙を流されたということである。現存の染殿院の建造物は、元治元年に京都御所以南が大火に見舞われた(通称ドンド焼け)その時に建てられた假堂である。

その錫杖はいまも西芳寺の南地蔵院に残されています

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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