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まち歩き伏0362 伏見桃山城内 歴史

2017年01月23日 10時56分05秒 | まち歩き

平成28年10月

 

 

 

泰長老・観月橋周辺

 中央上寄りの泰長老・寺沢志摩守(広高)の屋敷辺りに、指月伏見城がありました。また向島には向島城があり、本丸町などの地名が残されています。

 

 

近鉄丹波橋駅周辺

城下のなかでも京町などには町家が並んでいましたが、武家屋敷も混在しています。ほほ中央右寄りの田中筑後守(吉政)・島津右馬頭(以久)の屋敷あたりが、丹波橋駅です。右下の仙石左門(忠政)・木村丹波守の屋敷辺りが、伏見区総合庁舎になります

 

 

豊臣氏略系図

 

 

伏見城南側

宇治川から伏見城へは、船入でつながっていました。その痕跡は、現在も桃山町丹後の残されています。中央やや左上に、真田伊豆守(信之)の屋敷があります。

大きくはありませんが、大手門に近いのが注目されます。

 

 

伏見城西側

この辺りには、著名な大名の屋敷が並びます。絵図では、島津以久(右馬頭)、徳川家康(松平三河守)、池田輝政(三左衛門)、前田利長(肥前中納言)、浅野長政(羽柴長吉)、毛利輝元(安芸守)らが、大きな屋敷で書かれています。

 

伏見城跡周辺

中央の白い部分が伏見城の城郭です。本丸北東に天主閣が建っています。大手門は石田治部郭と日下部郭との間にあり、そこへ続く東西路が大手筋です。この模造天主閣は、名束(長束)大蔵郭に建っています。

 

中書島周辺

中書島の東半には、脇坂中務(安治)の屋敷がありました。中島とは、中務の別名です。西半には加藤清正(肥後守)の屋敷がありました。そのため、そこに架かる橋も肥後橋と呼ばれました。

 

 観月橋・桃陵中周辺

観月橋は、豊後橋と呼ばれていました。豊後とは現在の大分県地方の旧称ですが、命名の理由はよくわかっていません。弾正島には、浅野長政が屋敷を構えていました。長政は、弾正少弼という官途をもらっていましたので、弾正島と呼ばれます

  

淀伏見近郊図屏風より  豊後橋

 

津知橋~墨染周辺

城下の武家屋敷は、北の方にも広がっていました。中央左寄りの佐久間備前守(安政)屋敷あたりが京阪墨染駅、右下の森十蔵屋敷あたりが近鉄伏見駅です。

 

大手筋周辺

御香宮は、伏見城が築かれると大亀谷へ移転させられ、跡地は小早川英秋(筑前中納言)の屋敷になっていました。しかしその後、御香宮は旧地へ戻されました。周辺には、松平忠明(下総守)や松井康親(松平周防守)ら、徳川配下の屋敷も並びます。

 

 

伏見城の遺構が移されたところ(京都から遠方のところ)

三渓閣・彦根城・膳所城・三井寺・大和郡山城・大坂城・岸和田城・

宇和島城・福山城・明石城・尼崎城・亀岡城・西教寺(滋賀)・都久夫須麻神社

 

伏見城遺構・京都市周辺

 

大名屋敷に基づいた町名の一例

 

 

 

聚楽第と大名屋敷

聚楽第は豊臣秀吉が築いた居館です。「楽(たのしみ)を聚(あつむる)第(やしき)」という意味から命名されました。天正14年(1586)2月に平安京大内裏跡地で築城が開始、翌年(1587)9月にはほぼ完成します。その後秀吉は、甥の秀次に聚楽第を譲り、「隠居所」として伏見に指月屋敷を築き始めます。しかし、文禄2年(1593)に息子の秀頼が誕生、文禄4年(1595)に聚楽第は秀吉の命により破却されます。

聚楽第の様子は「聚楽第図屏風」に描かれているものの、その構造は明確ではありません。これまで発掘調査成果や地名、地形観察などにより範囲の復元が行われてきましたが、街中ていう立地上、検討材料が少ないという課題がありました。一方で、2015年に「表面波探査」という方法を用いた新しい復元案が提示されるなど、継続的に研究が進められています。当初、聚楽第は京都での拠点・政権の中心になるべく築かれたため、秀吉配下の武将たちは、秀吉・秀次のいる聚楽第周辺に武家屋敷を構えていました。しかし、秀吉が伏見に移ると伏見にも武家屋敷を構えることとなり、聚楽第の破却とともに伏見に集約することになります。これまでの聚楽第跡や周辺の武家屋敷跡で行われた発掘調査では、数多くの金箔瓦が確認されています。多くの種類の金箔瓦が用いられていることから、短期間で築かれた聚楽第に後れを取らないよう様々な所から持ち込まれたと考えられ、当時の様子を知ることが出来ます。

まだまだ聚楽第やその周辺については解明できていないことも多いですが、さまざまな手法を用いて多角的に検討することで、新たな一面を知ることができます。

 

聚楽第跡出土金箔瓦

 

 

 

 

 

伏見城と大名屋敷

伏見城は、慶長2年(1597)に豊臣秀吉により木幡山を中心として築かれ、武家屋敷や商工業者が集まる城下町が形成されました。しかし、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの前哨戦で伏見城や武家屋敷などが焼失してしまいます。その翌年、徳川家康は城の再建を始め、慶長8年(1603)には、この城で征夷大将軍に任ぜられます。元和元年(1615)の大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡し、二条城が造営されたことにより、城としての役割を終え、元和9年(1623)に廃城となりました。その後、奉行所などを残し、江戸に拠点が移され、周辺の武家屋敷もその役目を終えることとなります。

伏見城下の状況を記した『伏見御城郭並武家屋敷取之絵図』(桃山城蔵)などによって、当時の大名配置を知ることができます。現在も地名にその名残があります。また、文献史料より、慶長元年の地震、慶長5年の関ケ原の戦いの前哨戦、慶長10年の立売町焼亡、寛文2年大地震被害の4度の火事が認められ、発掘調査でも関連する土層が確認されています。2014年に伏見区桃山町鍋島で行われた発掘調査でも火災処理に関する遺構が確認されています。この場所は絵図によると鍋島信濃守、浅野但馬守、浅野紀伊守の屋敷地が描かれています。調査では、五七桐文や菊文、違い鷹の羽文などの瓦が建築部材とともに火災処理のごみ穴から出土しています。特に「違い鷹の羽文」は敷地東側に想定されている浅野家の家紋であることから、鍋島家や浅野家の屋敷が火事にあったこと、また再建された時のことがわかります。このように発掘調査を重ね、文献史料上の出来事を検証することで、伏見城の成り立ちや大名屋敷内の実情が明らかになり、本来の伏見城の姿に迫ることができます。

金の箔を貼った瓦

金箔瓦とは、瓦に薄くのばした紙状の金(金箔)を貼りつけ、金色に輝かせたものです。屋根を飾る効果があったと考えられます。金箔瓦は素地となる瓦を焼いた後、瓦の文様部分に接着剤として漆を塗り、そこへ金箔を貼ると完成します。(展示品の中には金箔が剥がれ、朱色(赤色)が見えている部分がありますが、これは金箔を接着させるための漆が見えています。)金箔瓦が見えはじめるのは、織田信長や豊臣秀吉が活躍した戦国時代になってからです。お城の天守や大名屋敷など主要な建物の屋根に葺かれていました。金箔瓦で葺きあがった屋根を想像すると、屋根全体が金色に輝いていたと思われるでしょうが、織田信長が築城した安土城の様子を記録したルイス・フロイスの『日本史』には「(安土城の天主は)我がヨーロッパで知るかぎりのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。それらは青色のように見え、前列の瓦にはことごとく金色の丸い取り付け(頭)がある。」とあり、金色に輝いていたのは絵図のように屋根の縁取りであったことがわかります。また、安土城跡から出土した金箔瓦は、文様にの凹面に金箔を貼っていますが、展示品や聚楽第跡などから出土した金箔瓦は、文様の凸面に金箔が貼られています。織田信長と豊臣秀吉の違いが分かります。

徐々に戦乱がおさまっていくなか、金箔瓦は堅牢な灰色(青色)の屋根から絢爛豪華な屋根へと変える特殊な道具の1つであったといえるでしょう。

伏見城跡・指月城跡

京都市文化財保護課では、今年度より伏見城跡および指月城跡の調査を行っています。調査は、8月下旬から10月上旬まで行っていました。調査地は、伏見区桃山泰長老に所在し、伏見城下武家屋敷(初代唐津藩主 寺沢広高と泰長老と呼ばれた西笑承・という僧侶)と指月城跡と考えられる場所にあたります。今回の調査では、石垣や桐文の軒丸瓦、金箔瓦など様々なものが見つかりました。これまでにも伏見城下では数多くの金箔瓦が確認されていますが、その中でも瓦の形や金箔部分のよく残っています。これら出土した金箔瓦は指月城に葺かれていた瓦である可能性が高いものだと考えています。

指月城は豊臣秀吉が築いたお城の1つです。長い間、謎に包まれていましたが、昨年の発掘調査でその存在が明らかになりました。なぜ謎だったのか?文献などからその存在は想定されていましたが、当時の文献などに「指月」と明記されたものはほぼなく、当時の絵図も残っておらず、わずかな発掘調査しかなかったためです。ですが、昨年の発掘調査で堀を伴う石垣が確認され、その存在を目にすることになりました。その時出土した金箔瓦などは、現在、文化庁が主催する「発掘された日本列島2016」展に出展されています。今回展示している金箔瓦は、昨年度調査と同様の意味を持つ瓦として、大変意味深いものと考えています。

 

 

 

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川柳                                        

ヘルプキー助けてくれたことはなし /カトンボ

ことわざ

頭の上の蠅を追え(あたまのうえのはえをおえ)

人のことより、まず自分自身のことをきちんと解決せよという意味。

用途・人のことに口を出す出しゃっばりな人をあざけっていう。また、自分のことを解決できない人を評して「頭の上の蠅も追えない」という

類・己の頭の蠅を追え

 ・人の事より足下の豆を拾え

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