アートプラス京めぐり

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黒谷 金戒光明寺

2015年07月30日 01時15分22秒 | 寺院

法然上人、熊谷直美のゆかりの寺

法然の没後、黒谷の草庵は信空、湛空と継承されたが、寺として整ったのは五世恵のときである。

その後、後光厳天皇より「金戒」の2字を賜い。

後小松天皇より「浄土真宗最初門」としるした勅額を賜った。

応仁の乱に罹災し、さらにその後の火災で堂宇を焼失したが、その都度再建されてきた。

寺は栗原の岡の大半を占め、多くの堂宇が建っている。

 

有名人の墓が多いように感じた。案内道標が目立つ。

 

文殊塔付近に徳川秀忠夫人崇源院・徳川義直母・国学者山崎闇斎国学者今井似閑、

筝曲開祖八橋検校、茶人藤村庸軒、儒医藤林普山、茶人土肥二三、国会議員水谷長三郎等

 

西雲院付近には、歌人池玉瀾、歌人梶女、文人中島棕隠、文人橘南谿、画家竹内栖鳳、

 

本堂東北の墓地には、京都府知事 北垣国道、南宋画家重春塘、文学者厨川白村、

平安名家墓所一覧の山本臨乗、京都坊日誌の碓井小三郎、

工学博士 天沼俊一(御影堂の設計者)

 

岡崎神社の脇から登ってくると

ここへ着いた

 

徳川秀忠夫人 崇源院 (1573~1626)

徳川2代将軍 秀忠の室。名はお江、あるいはお江与、諱は遺子という。

父は戦国の武将、近江 小谷城主 浅井長政、母は織田信長の妹小谷の方お市。

天正元年(1573)に生まれる。姉に豊臣秀吉の側室淀殿、

若狭小浜城主京極高次の室お初(常高院)がある。

同年8月、浅井氏が滅びたのち、母姉とともに伯父信長に養われ、

天正10年、母お市が越前北庄城主柴田勝家に再嫁する際、

姉とともにそこに伴われ、翌年、柴田氏が滅び、母お市も自害すると、

姉とともに秀吉のもとに引き取られた。

 

のち秀吉の養子丹波亀山城主豊臣秀勝(秀吉の姉瑞竜院日秀の次男)に嫁して

女子(秀忠養女・九条幸家室・同道房母)を儲けたが、

文禄元年(1592)9月、秀勝が没するに及んで寡婦となった。

一説によると、秀勝のもとに入輿する以前に、尾張大野城主佐治与九郎一成に嫁し、

後日一成が秀吉の忌諱にふれて離別したという。

同4年9月、秀吉の計らいによって秀忠に再嫁し、

家光・忠長の二男、千姫・子々姫・勝姫・初姫・和子の五女を儲けた。

この内、元和6年に和子は入内した。(東福門院)

寛永3年(1626)9月15日没。54歳。法名は崇源院殿昌誉和興仁清。

墓所は、家光の乳母にして、

三代将軍をめぐって夫人と争った春日の局が、

同夫人の死後、追善菩提のため建立したもので、

夫人の遺髪が納められている。

 

会津藩墓地へは道標がたくさんあり 間違いなく案内してくれる

 

 

 

 

 

黒谷は 岡の上にあり 眺めがよし  

京都駅、京都タワー、平安神宮の鳥居、京都市美術館の屋根が見える

 

 

文殊塔

三重塔で、寛永10年(1633)徳川秀忠菩提のために建立された。

本尊文殊菩薩は古来 日本三大文殊の1つとして崇敬されている

今は、他の所に移されています

 

 

最初の登ってきたところまで戻りました

 

頭のつぶつぶ すごいなー

 

 

 

ハスの花

 

 

 

 

 

御影堂

昭和19年の建築 新しい

 

 

阿弥陀堂

豊臣秀頼が慶長10年(1605)大仏殿建立の余材をもって再建したと伝わる。

堂内に安置する本尊阿弥陀如来像は、恵心僧都の最後の作で、

彫刻に用いた器具をその胎内に納めるところから、

世に「乙如来」または「鑿納めの如来」と呼ばれている。

 

 

観音堂 画像なし 石柱の上に屋根だけ見えるところ

収蔵庫を兼ねている。本尊千手観音像は平安時代前期の作品。もと、吉田寺の旧本尊と伝わる。

 

 

経蔵

元禄2年の建立

鐘楼

 

三門

楼上に掲げられている額は後小松天皇の宸筆で「浄土真宗最初門」

 

 

 

総門は工事中

 

 

戊辰戦争90周年

 

 



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