旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ミラノはもっとおもしろい2017その③サン・ロレンツォ・マジョーレ教会

2017-11-26 18:38:09 | イタリア
ミラノの下町、周囲のごちゃごちゃした現代のビルを圧するように16本の古代の柱がそびえている↓

四世紀、最初の教会を建設する時に、二世紀のギリシャ神殿か浴場からもってこられたと考えられている。
ちょうど旧市街の門の入口で、教会との位置関係も考慮して設置されたのではないだろうか。

柱から教会の入口までは広場になっている。戦前にはここも民家で埋めつくされていたのだが、戦後にとり壊された結果の教会への効果的な前庭になっている。
↓教会の入口から、古代の柱をみたところ↓

↑片手をあげている銅像は現代になってから設置されたコンタンティヌス帝のブロンズ像。

ここはミラノの南に位置するきのう我々がおとずれたパヴィア=古代のTicinumへの主要街道沿いになる、ミラノ屈指の歴史ある教会だ。

教科書の「ミラノ勅令」西暦313年後、アンブロージョの活躍した4世紀後半の時代にローマの競技場を取り壊して建設された。
20世紀の発掘で、礼拝堂の基礎にその石が今でも見られるようになった。

教会入口から見上げる八角形のドームは、横の塔に比べていやに新しい↓

それもその筈、このドームは中世の建設時に二度崩落(1071年と1124年、教会にある案内によると「火事と破壊行為」と説明していある)、現在のものは1573年に三度目の崩落があった後1589年ごろに後述の奇跡によって寄付があつまり、再び完成したもの
※こういう天井崩落の話はどこの教会でもあまり詳しく紹介していない

内部に入ると、円形に配置された柱が古代風な空間を維持している↓

柱をよくよく見てゆくと、古代の柱が逆さになってはめこんであったりする↓

中央の祭壇には奇跡を起こした絵が高々と掲げられている↓

もともとこの教会の礼拝堂外壁に飾られていたこの絵の前で、1585年ボロメオの死後ちょうど一年を経た日に、ひとりの女の子の不具が治癒した。
これは、ミラノの守護聖人になるカルロ・ボロメオが、生前予言していた出来事。
絵は教会の内部に移され、人々はご利益にあずかろうと詰めかけた。

この当時、教会の天井は前述のように1573年に崩落したままだった。
この奇跡は天井を修復するための寄付を効果的に集めたのであります。

***
サン・ロレンツォ・マジョーレ教会でいちばん見るべきものは、古代の礼拝堂↓
教会中央から右手(南)へ伸びた円形の聖アクイリーノ礼拝堂(建設当時は聖ジェネジオ礼拝堂)への入口には四世紀建造当時の装飾された石の門がある↓

入るとすぐに、青色が美しいモザイクがが修復の最中↓


内部に残るモザイクでいちばんきれいに修復されているのが
「十二使徒にかこまれた青年キリスト」↓

ここまで完璧に修復されたものよりも、一部だけ残された「太陽神としてあらわされたキリスト」の部分の方が、もっと見ごたえがある↓

↓左右の羊の花を嗅ぐ様子↓あっけにとられているような羊飼いのぼっとした顔

↑陰影、動き、ラヴェンナに残るガラ・プラチディア廟のモザイクに負けない出来栄えだ

正面に聖アクイリーノの遺骨が納められた銀の容器は16世紀のもの。

この後ろから、1913年に発掘された地下の部分へ降りることができる↓

見つかったのは、古代ローマの競技場の石材↓

古代の石材が八角形に広がるコンクリートの屋根をしっかり支えていた↑

外へ出るとそろそろ夕暮れ、中心部のホテルへもどろう↓

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ミラノはもっとおもしろい2017②聖アンブロージョ教会

2017-11-26 16:46:01 | イタリア
ミラノ地下鉄に乗って
⇒※地下鉄の写真こちらにもう少し載せました

幸運なことに予約のとれたダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の見学に、サンタ・マリア・グラツィエ教会へやってきた↓

壁画が描かれているのは本堂ではない。上の写真に写っている八角形のドームは教会の正面まで行くと見えなくなる。
だから、本堂には入らずに「最後の晩餐」だけ見て去っていく人は多い。
でも実は、離れた場所からこうしてみるブラマンテ設計のドームはとても美しい。
内部に入って、ルネサンスの理念を実行するブラマンテらしい幾何学的なデザインを見上げる↓


※「最後の晩餐」は、最近写真撮影がOKになった。
**
本日、午後ひとつめの教会は、ミラノの守護聖人・聖アンブロジウスの遺体を安置した、同名の教会↓

左右に二つの塔があるのを何気なく撮影していたが、後から教会の歴史を調べてみて理由がわかった。
敷設されていた修道院の僧たちと、教会の運営をする参事会の対立があって二本になったのだそうだ。

入り口の門を入ると前庭回廊になっている。そこから教会の入り口を見上げる↓

↑右の塔は9世紀、左の塔は1128-44頃と、「イタリア旅行協会公式ガイドブック」に記載。
※この本は写真一枚使っていないけれど、歴史的な事が最も詳しく書かれたガイドブックです

早くも西陽をあびはじめたファサードの装飾が輝く。中央の十字架下に美しい緑色の焼き物をはめこんで装飾にしている↓


周囲の植物文様、
そして、回廊の柱頭に刻まれた彫刻群が、ロマネスクの魅力を存分に体現している↓


★聖アンブロジウス教会の起源は四世紀にさかのぼる
西暦386年のある日、ミラノ大司教のアンブロジウスは夢を見た。当時ミラノの守護聖人だった聖ジェルバジオとプロタシウスがあらわれて、彼らの遺骸が埋められている場所を示したのである。
当時のミラノ市城壁の外に位置した墓地の一角から、夢のとおりに二人の遺骸が発見され、ここに彼らのための聖堂が建てられることになった。
アンブロジウス自身も397年の没後、この二人と同じ棺に葬られている。地下聖堂のガラスの棺桶の中に彼ら三人が眠っているを、間近に見ることができる↓


紀元後四世紀末のアンブロジウスが実際にどんな顔をしていたのか?
ここには、たぶん本人を見ていた人が製作したのだろうと思われるモザイク画が残されている。
教会を入って右奥手の宝物室、そこからかつては教会と離れて建っていたサン・ヴィットーレ・チェル・ドーロ礼拝堂となる↓
入場券を買って入る↓

アンブロージョの弟サティルスが西暦378年に亡くなった時、兄が弟を埋葬するのに選んだのが、二世紀ダマスカスで殉教したローマ兵士でキリスト教徒の聖ビクトール(ヴィットーレ)の聖遺物が収められていた礼拝堂だった。
見上げた丸いドームいっぱいに↓金のモザイク

聖アンブロージョの姿は横壁のところに全身像で描かれている↓
実際に小松が撮影した写真では正面からにならないので、ここでは説明看板に載せられていた三聖人の姿をみてください↓

左右の二人もリアリティがあるが、中央の髭の濃いアンブロジウスの姿は特に優れている。
優秀なモザイク製作者が実際のモデルを見て製作したと信じるに十分の出来栄えではないか。
紀元後四世紀の人物の雰囲気がありありと伝わってくる。

このモザイク装飾が行われたのは、弟を埋葬したタイミングでなのか、そのあとなのか?(小松の考えでは、アンブロジウス本人の没後すぐなのではないかと思う。なぜなら、前出の二人の先輩聖人ジェルバジオとプロタシウスとならべて描かれているのだから、本人が生きていたらこんな配置を良しとしなかったのではないだろうか)

アンブロジウスの没後もこの教会はどんどん大きくなり、変化をとげていった。
784年にはベネディクト派の修道院が併設
大司教AngilbertoⅡ(位824-859)の時にオリジナルが製作されたという後陣を覆う金色のモザイク↓

※今回はミサが行われていてしっかり見ることができなかった
手前の天蓋は10~11世紀ごろのもので彫刻ではなくストゥッコだそうだ↓


大司教Ansperto(位869-881)の時に、教会入口手前のアトリウム(前庭回廊)が建設↓
最初の中庭の彫刻はその時代のものだったのか。ロマネスクの美しさと面白さ爆発してます↓



教会の身廊部分にある説教壇も見事↓

説教壇自体は1130から1143年に作られ、1196年に天井が一部崩落した時ダメージをうけ、それを修復したGulielmo da Pomoが修復した際のサインをのこしている。あとから写真を見なおして、「あ、これだ」と、発見しました↓

※この説教壇の彫刻についてももっと知りたいのだけれど、また次回(いつ?)

下に隠れている石棺は「スティリコーネ」と呼ばれる四世紀末から五世紀のものとされる↓この呼び名は19世紀になってからつけられたそうだが、それは、テオドシウス、ホノリウス両皇帝の時代に仕えていたヴァンダル族の将軍の名前なのだそうだ↓描かれているのは新・旧の聖書物語↓


その近くにある柱の上の「青銅の蛇」はなにもの?

聖書の世界で「青銅の蛇」というと、モーゼが毒蛇に噛まれた人を癒すためにつくって旗竿の先に掲げた話を思い出す。
伝説では「これがその青銅の蛇」とされているけれど、実際にはビザンチン(東ローマ)に由来する別の構造物に付属していたと考えられている。

↑11世紀の改築の際にこの柱の上に設置される。
「身廊の逆側には対比として青銅の十字架がある」との記述に後から気付いて、写真をみなおすと、あ!確かに。
無意識に撮影していたのか。
ううむ、これも次回もういちど確認してこよう(いつ?)
**
前出の黄金のモザイクドームがある宝物館には、古代ローマ時代のものから
16世紀に(後にミラノの守護聖人となる)カルロ・ボロメオが暗殺未遂に遭った時に着ていた銃弾の穴の開いた衣も収蔵されていた↓

※これについての話はこちらから

まだまだ見所はあったが、また次回に掘り下げようとおもいます


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スカラ座博物館と劇場をちょっと見る

2017-11-26 14:05:43 | イタリア
ミラノ大聖堂前から、ガラス屋根のガレリアを抜けると

スカラ座前の広場に出る↓かつてヴェローナのスカラ家から輿入れした妃が建てた教会があった場所なので「スカラ座」と呼ばれるこの劇場は、ミラノがまだオーストリアの治世下にあった18世紀にオープンした↓

今日は博物館と共に劇場もちょっと覗ける。リハーサルがないことを確認しておいてくださった時間に、正面入り口の左手にある長い階段を登って博物館の入口にたどりつく。
クラシックな馬蹄形の座席。六人までは入れるボックス席↓

いちばん見やすい席ならこんな感じでステージが見える↓

だが、横のボックス席で、しかも後ろの列(ボックス内は椅子が二列になっている)だと、ステージの半分ぐらいしか見えないだろう。



博物館スペース、解説していただきながらまわるとおもしろい↓けっこう展示スペースがたくさんある


豪華な古いピアノ↓文字は「下手な手で私を触るな」と書いていあるそうな↓

リストの使っていたピアノもあった↓

このピアノは娘のコジマと夫の指揮者ビューロー氏の娘(リストの孫)が曲折の末に寄贈した。
●ヴェルディのデスマスク↓

ヴェルディは晩年、ミラノのグランド・ホテルに住んでいた。1901年1月20日に意識を失い27日にホテルの部屋で亡くなった。
「ヴェルディ最後の昼食」と題されたメニューカードも展示されていた↓

●マリア・カラスの展示会が開催中

舞台衣装

階段の上に展示されている青い衣装は、ファンが裾を少し切り取っていった事件のある衣装↓なのだそうだ

もうすこし理解できるようになってから、また訪れたいです(^.^)

*****
我々のこの日のお昼ごはん、「軽く」ピッツァとおもい入った↓

チェーン展開している店なのだそうだが、さすが平均点高い↓

特に、この「季節の焼き野菜」の一皿は、ぜひまた食べたいです↓(^.^)









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ミラノはもっとおもしろい2017その①マルコ・カレッリとジャン・ガレアッツォ 、大聖堂博物館も見学

2017-11-26 08:41:51 | イタリア
きのうの霧とうってかわった青空のミラノ↓
まずはホテルから徒歩で大聖堂へ

百メートル以上もの高さに輝く四メートルの巨大な「マドンニーナ」像も輝いている

定番の場所だが、見所が尽きることはない場所だ。
内部に入って「あっ」と驚いた写真を撮ってくるだけではもったいない↓


飾られたタピスリーに描かれた場面が、ここで起きた暗殺未遂事件を描いていることを、今回はじめて知った↓

⇒※ここにもう少し詳しく書きました

今回、ちゃんと理解したもうひとつのものが、壁にくっつけてある古そうな墓↓

これは、1394年に没したミラノの豪商★マルコ・カレッリの墓。ミラノ大聖堂は1386年に起工されたことになっているから、マルコの死んだ年には大聖堂はとてもここまでできていない。大聖堂が最終的に完成するまでには五百年を要しているのである。マルコは最初はサン・バビラ教会に埋葬されていた。
大聖堂に改葬されたのは、マルコがその莫大な財産をミラノ大聖堂の建設の為に寄付したからである。

マルコ・カレッリ(1320~5?‐1394)は、当時の支配者であったジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1351-1402)と、年齢は二十から三十違うが同じ時代を生きている。
ジャン・ガレアッツォがきのう午後に訪れたパヴィアの僧院の建設をスタートさせ、その少し前にこの大聖堂の建設も決めていたことは、この時代のミラノがどれほどの繁栄を享受していたのかをあらわしている。
マルコ・カレッリはヴィスコンティ家と強いつながりを持って主にヴェネチアと取引をし、ヴェネチアにも住んでいた(亡くなったのはヴェネチアだった)。
故国ミラノに、ヴェネチアのサン・マルコに負けない教会を建てたいと強く思っていたのは想像できる。

大聖堂には現在135本の尖塔があると言われるが、その最初の一本が「マルコ・カレッリの尖塔(guglia)」と呼ばれている。
尖塔の先端に立つ人物は、とても下から確認することは出来ないのだが…
今回訪れた「大聖堂博物館」で、本物の尖塔が保管されているのにであった↓

この人物、「聖ジョルジョ」ということになっているが、実在した人物をモデルにしているのは明らか。
この尖塔が建てられた1403年の前年に没していた、ミラノの支配者ジャン・ガレアッツォその人である。
きのう、訪れたパヴィアの僧院で何度もその顔を見せられてよく記憶しておりました
⇒※こちらのページの後半、パヴィアの僧院の話で二回、彼の顔がでてきます

16世紀。新しい大聖堂の建設が進み、このページの最初で言及した暗殺未遂に遭うカルロ・ボロメオはトレント公会議の後、大聖堂の中にあった聖職者以外の墓を撤去することを決めた。力を増していたプロテスタントから批判される「金持ち次第の贅沢なカトリック教会」というイメージを払拭するためであろう。この命令の中でも、大聖堂内ににただ一つのこされた商人の墓がこのマルコ・カレッリのものである。

***
「ミラノはもっとおもしろい」という題名で、2014年にも書きました。
⇒※こちらからお読みください

****

★大聖堂博物館
大聖堂向かって右側の、もと王宮があったあたりに位置する総合博物館から入る↓ここに、前出の「カレッリの塔」のホンモノが収蔵されていたわけだ。※ちょうどカラヴァッジョの展覧会もやっていたが、こちらは入る時間がなく断念。

展示物は多彩で多岐にわたるので、三十分でさっとみるというわけにはいかなかった↓
精緻な象牙彫刻の古い聖書カバー↓

↓1500年代後半に、南米からもたらされたハミングバードの羽で織られた司教の服↓


↓大聖堂にあった天使セラフィムの大立像↓

大聖堂のステンドグラス(こちらがホンモノ)↓

↓大聖堂の当初完成予定模型↓

2014年に入ろうとして修復していたサン・ゴッタルド教会は修復を終えていて、この博物館から入場できるようになっていた↓この塔を記憶していた↓

↓内部にも言及したいものはあったのだけれど、また別の機会に↓


現在の大聖堂正面ドアは20世紀に公募して当選した作品がはめこまれているのだが、そのコンペの時に落選したけれど、芸術的にすばらしい作品が展示されていた↓これ、表現として斬新ですばらしい。大聖堂の扉には、当時は新しすぎると思われたのも理解できるが↓


大聖堂周辺がだんだん混みはじめた↓そろそろ地下鉄で移動しよう↓

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