旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

TOMOO農園の絶品さくらんぼと須貝邸ミニコンサート

2020-06-28 16:31:34 | 国内
《手造の旅》山形

東京へ戻る日だからさくらんぼをお土産にしよう(^.^)

みんなで須貝智郎さんのさくらんぼ農園へ※ガッツがはいっているのが須貝さん

「サーカスにも負けねぇぐらいこのハウスの上さのぼって仕事するんだ」と、智郎さん。
これだけの広さの農園をお世話する勤勉さと体力に頭がさがる。

今日は我々の為にこんな趣向もこらしてくださっていた(^.^)

有名な「さとう錦」をおいしく実らせるためには、他の品種もいっしょに育てなくてはならない。

この黒いのは日本産品種なんだそうな。

実の根元に次のシーズンに咲くちいさなつぼみがある

摘んでは食べ、食べては摘み。

こちらの箱に積まれている藁の穴には

受粉させてくれるマメコバチが休んでいる。

宝石のようなさくらんぼの配送まっさかり。
せっかくだから特上品を買って帰ろう。

おべんとう+ぜんまい

そして須貝さんのミニコンサート
小松もちょっとお手伝いさせていただきました(^.^)

手作りの紙芝居。
どちらも土地に根付いた、どっしり説得力のある言葉が響いてくる。
↓奥様の啓子さんの画いた絵が玄関先に置かれていた。お人柄がにじむ、優しく暖かい作品↓

同じ言葉の通じる日本国内を旅するなによりの喜びは、そこで魅力的な人に出会う事にある。

大団体で忙しく旅しても、個人で唐突に訪れても、なかなか出来ない「魅力的な人と出会う旅」を、
これからも力をいれてつくっていきます!


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「古民家孫太郎」米沢の宝箱

2020-06-28 10:51:20 | 国内
«手造の旅»山形2020
伊達正宗が米沢で産まれたころから伊達の家臣で、
今も同じ場所にお住まいの進藤さん宅「古民家孫太郎」を訪ねた。

蔵にはこんなのぼりも掲げられ

今も伊達家の家臣筋であったことを誇りにされている。
米沢は戦国時代に伊達家が隆盛した地だが
江戸時代になってからは越後から転封でやってきた上杉氏が治めた。

「米沢食肉公社」さんのおみやげカルパスも二種類あったほど(^.^)
二つの名家の歴史が刻みつけられた米沢。

今の玄関の向かって左手に位の高い人が訪れた時の別玄関がある↓

「亡くなった方を出す時もここを使います」とのこと。

正面入り口に古い木札がかかり「産婆」の文字が読める。
進藤さん宅は、数代前は産婆さんをしていたのだそうな。

玄関先に紅花が(^.^)

露寒の日、暖炉に火をいれてくださっていた。

埋火が暖かく、煙たくはない。

歴史の厚みを感じさせる神棚。

精巧な欄間がほとんど壊れずに受け継がれている。

城にあがる時に着る裃(かみしも)二揃い。ひとつは子供用。

裃のような硬い布に使われていた植物繊維「あおそ」も米沢で生産されている。

三十六歌仙の屏風のように目立つものだけでなく、そこここにびっくりするようなモノが隠れている「古民家孫太郎」。
ちょっとした宝箱のよう。※こちらにホームページがあります
下見の時にはすばらしい日本刀を見せていただいたが※こちらからごらんください

今日はなんと! 西郷隆盛の書をみせていただいた。

新政府軍の重鎮の書が、佐幕派の米沢の家にどうして残されいるのだろう?
西郷隆盛は降伏した人々に寛大な処遇をした。
ひとつ間違えば自分が敗軍の立場にあっても不思議でなかったことをよく理解していたからだろう。
書がここにある仔細は不明だが、所望されて一筆をしたためたとしても不思議ではない。

左下に「南洲」の名前があり、この署名は他の書の署名と同じ。
鹿児島の西郷隆盛の研究者に照会してホンモノとされた。
流麗な書だが、これを何と読むのか?
何人もの人に鑑定してもらって、いくつもの違う解読・解釈を整理しておられた。
進藤さんが推奨しておられたのが下記のもの↓

百五十年を過ぎれば、同じ日本人の日本語でも、同じように理解することは難しくなる。
***
「古民家孫太郎」を出て赤湯の須貝さん宅に向かう途中、かつて伊達家が住んだ舘山城跡によってくださった。
家に残る資料では、「馬で十五分」の「通勤」をしていた近さにある、木々に囲まれた小山↓

発掘は行われたが復元はされていない。

「伊達正宗公生誕の地」という印があるだけ

今は発電所がある小さな広場だが、この場所を訪れて伊達家の時代の米沢を感じることができた。

舘山城を中心にしてつくられた道が今も残り、ところどころに往時の石垣跡があるのだ。
ただこの説明版を読んだだけではなかなかわからない、伊達氏の米沢がこの地区には残されている。

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上杉御廟

2020-06-28 09:18:03 | 国内
《手造の旅》山形
上杉家が越前から会津を経て米沢に移されたのは関ヶ原の戦いで西軍に加担した後。

上杉謙信が掲げた「毘」毘沙門天と「龍」不動明王の旗印をくぐると歴代の墓所がある。
ひとつだけ奥まった場所にあるのが謙信の墓。

初代・上杉謙信の遺骸をここに改葬したのは第二代景勝公の墓を造営した後だった。

最初の参道は二代景勝公の墓にむけて真っ直ぐだったのを
謙信が改葬されることになり参道をそちらに向け敷きなおした。
なので、入口から外の道がまっすぐに続かなくなっている↓


確かに門外から曲がっております↑

禄高は四分の一に減らされたのに、家臣はまったくリストラせずに米沢にやってきた上杉家。
代を追うごとに藩政は困窮していった。
江戸も中期を過ぎると藩の負債は利子も払いきれないほどにふくらみ、幕府に領地を返上して面倒をみてもらう策まで出されたほど。
それを救ったのが第十代上杉治憲(のちの「鷲山(ようざん)」。
彼の言葉で誰でも知っているだろう言葉↓

養子だったので十七歳で当主になった責任は相当感じていたのだろう。

倹約に殖産興業に務め、自らも粥食にしたそうな。

藩の救世主の廟も同じように並んでいる↑
「おや?」っと思ったのは、そのすぐ左後ろに隠れるようにしてつくられた廟↓

これは治憲公の実子、顕孝( あきたか)の墓。
十九歳の若さで疱瘡により没した息子を「本来ならば次の藩主だった」という意味でこんな場所に墓所をつくらせていたのである。

中央の謙信の墓↓

遺言により甲冑を着た姿で甕の中に漆で固めて葬られていると信じられている。
発掘調査は墓を暴くことと同じなので子孫の許可が得られない。


↑不思議のは第四代(左)と第二代(右)の間に、第十四代の墓がつくられていること↑
↓他と違い、石碑のようなものが置かれているだけ↓

文字を読むと遺髪だけが入っているようだ。
「十四代茂憲侯は明治維新後に亡くなったので墓は東京にあります」
調べてみると、二十四歳で明治維新を迎えた後、なかなか波乱にとんだ人生をおくった人物だった。
明治四年の廃藩置県で米沢藩知事免官になった二十八歳。
翌年から一年間イギリスに私費留学。
帰国後三十二歳で明治政府に仕えるようになり、四十一歳の時になんと 沖縄県令兼判事に任命されている。
お飾りのトップではなく、自ら島々をめぐり三十五の行政区すべてに足を運んだ。
フィールドワークに基づく上申書を提出して却下されるなど、けっこう煙たい存在だったのかもしれない。
東京に戻されて後、四十六歳で貴族院議員に当選し二期務めている。
大正八年(1919)に七十六歳で没。
米沢には遺髪のみが納められた。
二代目と四代目の間がちょうど広く開いていたのが不思議でそれを訪ねると、
「石高が三十万石から十五万石に半減されて以降、墓との間隔も半分にしたのです」
とのこと。

★それぞれの廟の前の参道はかつてはずっと屋根で覆われており、家臣らが奉納した灯籠ももっとたくさん並んでいた。
時代を経て施設の維持が難しくなるとこれらは取り壊され、灯籠の石は石畳として再利用されている。

初代・謙信公の廟へ続く敷石を注意してみると、それが分かる。

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亀齡山明壽院明海上人

2020-06-27 17:30:06 | 国内
《手造の旅》山形。初日にお参りした大日坊の真如海上人は最高齢の九十七歳での入定。今日お会いした明海上人は最も若い四十四歳。若くして、永遠に人々を救う即身仏になると決意した人の人生とはどのようなものだったのだろう。


「盲目の明海上人が即身仏となる決意をしたのは、ずっと世話をしてくれていた父の死がきっかけだったのかもしれません。」

↑お堂のちかくにひっそり残る、文字もかすんでしまった丸い墓石が上人様の父のものだと、慈英さんがおしえてくださった。
**
明海上人は林の中にぽつんと残る小さなお堂におられる。

何故、お寺もなく小さなお堂なのか。日本唯一、子孫の方が護っておられるのか。

お堂近くにある上人の子孫の松本さんの両親がお住まいだった家で、松本さんと慈英さんにお会いした。
上人と同時代の友人が残した「明海上人の生涯」を記した手書きの本を開いて解説してくださった。
これらの書き物はお堂に「お蔵入り」していたもの。
ある時訪ねてきた慈英さんが読んで感銘を受け、上人の人生を調査するようになった。「大阿闍梨」の称号のある方だが、若くてきさくで、威圧感などまったく感じさせない。今日も遠路会津から我々のために来てくださった。

鈴木嘉左衛門という農家の長男春治は十三歳の時川で泳いでいて眼病を患った。一時は治癒したが天保七年(1836)の飢饉がきっかけで再発し翌年には盲目となってしまった。
父母と弟二人を自分のせいで極貧に落としてしまったのを悔いて仏門に入る、湯殿山で修業し「明海」の名を得た。祈祷師としての評価は高まり近在の人々に敬われるようになった。評判をきいて上杉家の瑞松院の病気平癒を祈祷する依頼がくる。出向かずに遠方からの祈祷にもかかわらず平癒を成就し、その評判はいや増してゆく。
逆に、他の寺社からは妬まれるようになり、身に危険が及ぶようなことも起きた。
寺社奉行が調停にはいり、身辺警護の為に上人の弟に十手が下された。

嘉永五年(1853)亀齡山明壽院を創建する許可を得た書状がきれいに残されていた↓

書状の宛先に明海上人の称号は「権僧正」となっている。
これは十一ある僧侶階級の上から三つ目にあたる高位のもの。
貧農出身の明海上人がそれだけの人脈と人望を得ていた証である。

三十九歳の時に母親が亡くなり、その後身の回りの世話をしていた父も文久三年(1863)に亡くなる。
明海上人が即身仏となる決意をしたのはその一か月後だったとされる。


お堂の近くに巨大な石碑があり「入定の場所」と伝わっているのだが

↑石碑の文字と年号をよく見てみると安政六年と書かれている。

表面の文字から、「権僧正」という位を得て亀齡山明壽院を改山する認可を得た記念とするのが正いのではないか、とのこと。

開山の許可も相応の位も得たものの、幕末、明治維新、廃仏毀釈で多くの寺が壊されていく状況では、「亀齡山明壽院」をひらくことは叶わなかった。だから、明海上人は小さなお堂の中でずっと厨子に納められたまま、上人の弟の血をひく親族が護ることとなったのだ。
松本家では一般の人々に見せることはせず、厨子の前に木造を置いて代わりにしていた。
親族でも子供には見せなかったそうである。

昭和五十七年に新潟大学の協力を得て本格的な調査・改修。
厨子があけられ、はずれかけていた関節を治すなどお身体を整え、ぼろぼろになっていた衣もあたらしくなった。
信仰厚かった先代が決断し、求める人にはお参りできるように公開されるようになった。
「ひろく衆生を救いたい」と願った上人の意志を知ってもらうべきではないかと思ったそうである。
現在見るようなお堂に拡張され、納められていた上人使用の品々も納められた。
「これは上人様が履いていた足袋です」と慈英さんが見せてくださる。
移動する時の駕籠や、弟の持っていた十手なども納められている。

新聞でお堂の改修の記事を読んで祈った方から「病が癒えました」という手紙が届いたり
遠くからお参りにやってきた人からその功徳があったと知らされたこともあった。

上人のお堂はいつも開けられてはいない。
しかし、自ら苦難の人生を歩み、「衆生を救いたい」と祈願して即身仏となられた上人の助力を得たいと願う人々には丁寧に対応してくださっている。


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寒河江の慈恩寺、小野川温泉泊

2020-06-27 17:27:02 | 国内
庄内平野から米沢へ向かう途中、少し時間がありそうだった。
「途中でどこか見どころありますか?」とドライバーのマキさんに訊ねると、

「寒河江に雰囲気のある三重の塔がありますよ」と即答。
おお、これはなかなか。
江戸時代初期、1606年に山形城主最上義光が最初に建立。

鎌倉時代の大日如来を本尊としていたが、1823年に焼失。
現在のものは1830年の再建。七年で再建できたのだから十分財力があった。

この塔を境内にもつ寺は、かつて山の半分をうめるような一大寺院勢力だったようである。

見えてきた山がそれ↓

ここに三か院四十八坊がたちならんでいた。
※現在は十七坊

山門も重要文化財。1738年建造で、上階に奉納舞のための舞台があるのが特徴。

仁王像は鎌倉時代からのもの。

寺の起源は奈良時代にさかのぼるとされる東北屈指の名刹。

茅葺の屋根を保存している本堂

数々の秘仏があるのだけれど、今回はゆっくり見られませんでした。
宿題がまた増えました。
***
米沢についてすぐに「紅花音羽屋」を訪れる

この時の話はこちらに書きました
****
明海上人への訪問記はまた別に書きます。
※米沢下見の時のブログをこちらから

今晩の泊まりは小野川温泉


米沢牛、おいしうございました。
夜の散歩でほたるも楽しめました(^.^)






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