旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

關渡宮(関渡宮)と蘿蔔湯

2024-04-27 14:36:45 | 台湾
きらびやかな千手千眼観音は1980年代に完成したもの。

三百年の歴史がある關渡宮(関渡宮)へ

3月4日の午前、
朝いちばんでホテル近くの「森林公園」に残る鳥居をご案内した。

※2020年に訪れた時にどんな歴史があるか書きました

10時にチェックアウトして、信頼するガイドさんに四時間ほどの行程をお任せした。
小松が思いつくような場所は限られている。

ホテル近くの台北中心部からMRTに乗る↓
地下への入り口が高くなっているのは雨水が入り込まない工夫

淡水方向へ三十分ほど↓

關渡宮(関渡宮)で降りると

少しの距離だがタクシーに乗った。

少人数だから身軽にうごける。

★関渡宮は17世紀後半創立
1661年に大陸から曹洞宗の僧侶・石興和尚が媽祖の像をもたらしたのがはじまり?

現地の案内板で1712年清朝の康熙帝時代の創立と訂正されている↑
台湾島北部随一の信仰を集める場所になっていた。

日清戦争の結果、清朝北京の意向で台湾が日本に割譲されると、台湾の人々は抗日運動をはじめた。
関渡宮はこの地域の抗日主要拠点になった。
日本軍に鎮圧され、焼き討ちで古来の建物は消失した。

↑本堂のひときわ技巧のすぐれた柱に↓

↑「乾隆發卯年」=1783年と刻まれている
現在の本堂は1950年代に再建されたものだが、消失以前の建物からのものをできるだけ再利用しているのである。


お詣りするひとたちがおみくじをひくのに↓これを投げている

いちど引いてからも「この番号のおみくじでよいでしょうか」と、もういちど投げるのだそうな。


↑本堂の横に「古仏洞」の入り口がある↓

↑もとは防空壕だったトンネル↓

十一面観音を守る二十八部衆がならんでいる。

↑冒頭写真の千手千眼観音の背中がみえてくると出口
この千手千眼観音は淡水河を見ている。

基隆河との合流地点にあたる。
大陸からの人々がやってくる以前から信仰の場所だったと思われる立地。

大型バスの駐車スペースもある

山上への階段をのぼってゆくと

かつて神社があったころのなごり?鳥居もあった


***
関渡宮を出て旧参道らしき道を駅に向かう。
そろそろお昼。

少人数だしこんな店↑どうでしょ
入って座るとテーブルはいっぱいになった。

↑メニューはこれだけ。近所の人がお昼にやってくる店は味にも値段にも手を抜けない。
冬天=冬場だけのメニューの「蘿蔔湯」は大根スープ。日本円なら150円ほど。

シンプルながらこれが忘れられない味で、
※帰国後にまねしてつくってみました

こちらももちろんいただきました(^^♪

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長浜駅舎はかつて琵琶湖に面していた

2024-04-22 12:00:30 | 国内

↑1887年(明治二十年)の長浜駅の模型↑琵琶湖に接し↑船との乗り換えが便利なようにつくられている。
現存する日本最古の駅舎。
↓今も同じ姿で「鉄道スクエア」博物館として使われている↓

※ホームページにリンクします
※後半でもう少し詳しく書きます


4月2日の午後は
まず、「国友鉄砲博物館」を訪れた。

国友は江戸時代に天領。鉄砲の生産地として保護された特別な街だった。トータルで100万丁ぐらい生産したと考えられている。

解説ビデオを見せてもらってから

20分ほど館内を案内していただいた。


鉄砲本体の数も大事だが、使える弾の数が勝敗を決めたという話。
長篠の戦では多くの弾が輸入品で、
ゆえに堺をおさえた織田方は有利で
港をもたなかった甲斐武田軍に不利だった。

鉄砲ミュージアムではあるが、
小松が特に知っていただきたかったのは国友一貫斎による天体望遠鏡製作

※2022年2月雪の長浜城博物館を訪れて専門の学芸員Oさんからお話をきいた
2023年2月には一貫斎製作の四基が勢ぞろいした展覧会にも訪れた※リンクします


長浜城公園で軽くお昼時間をとり↑お城のカタチをした博物館にも入った。

最上階から↓

↑伊吹山の向こうは関ケ原
**
冒頭写真の長浜旧駅舎を入ると

↑かつては窓から琵琶湖が見えていたのを再現してある

↑走ってきたのは蒸気機関車。
明治15年の鉄道開通時↓長浜から南に線路はなく

↑琵琶湖をゆく蒸気船に乗り換えなくてはならなかった↓

↑上の鉄道路線図を見ると↑日本海側への線路が途切れているのがわかる↑
この鉄道建設の難所に、当時の日本最長の「柳瀬トンネル」が開通したのが明治17年。

日本海側からのこのルートは明治2年の鉄道構想と同時に計画された重要ルート。
長浜駅は重要な中継地点。

↑初代駅長の高橋善一はのちに1914年東京駅の初代駅長になる。

↑開通した「柳瀬トンネル」の滋賀県側に掲げられていた扁額↓

↑伊藤博文が「萬世永頼」と揮毫している。
↑「柳瀬トンネル」開通後五年を経た1889年(明治22年)には米原から膳所(ぜぜ)への路線が開通=東海道全線が開通。
長浜で船に乗り換える必要がなくなる。

↑北陸本線と東海道線の交差は米原駅となり、長浜駅の重要性は薄れた。

↑使われなくなった古い駅舎が壊されず・戦争の時代にも爆撃を逃れたことは幸いだ。


長浜スクエアにはSLと共に交流電気をつかった機関車の一号機も展示されている↑
このあたりのことについては小松の理解が足りていないのでまたの機会に('◇')ゞ





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近江孤篷庵のウグイス

2024-04-18 09:24:04 | 国内
ろうけつ染めの鶯が白梅の枝で鳴いている。

近江孤篷庵は小堀遠州ゆかりの庭も見ものだが、皆川月華(1892-1987)最後の襖絵群を観ていただきたかった。
十日前3月22日に下見をしてそう思っていた※その時のブログにリンクします

公共交通機関では訪れにくい立地

↑素盞烏命神社(スサノオノミコトじんじゃ)の参道を左に、細い道を入った行き止まり。

枝垂れサクラが開きはじめている。

小堀家と家臣の墓を左に見て緩い坂道をのぼると

突き当りに↑劇場入り口のように門がある。

18代目の住職が迎えてくださる。

ただ見て味わうのもよいが解説していただくと得心する。

二面の庭↑

「奥の三つの石が三尊像、手前左の先が上がった石が船。「蓬」は舟を意味しているのです。あの船に乗って西方浄土へ向かっているのかもしれません。」

昭和40年に江戸時代の庭を上手に復元されている。

十日前より花も開き、茶室の軸も架け替えられていた。


お願いして、それぞれの部屋の襖を閉じていただいた。

↑茶室の隣、いちばん奥の「松の間」この空間があることで庭も生きる。

「月華」の署名↑
皆川月華が90才最晩年に全力を注いだ空間。

次は「竹の間」 面によって季節が変えてある

生き生きと飛び集うスズメたち

筆勢が風のよう 空気を感じさせる



玄関に近い「梅の間」
冒頭写真のウグイスはここにいる。

この三室のほかにも、仏間祭壇の横や下に

趣向を違えて描かれている


襖絵が部屋から外されて美術館の展示室で公開されているのを見ても
その場所を演出しようとした描き手の意図は見えてこない。
皆川月華の晩年の仕事を知りたければ、ここに足を運ぶしかない。

****
門を出て駐車場までの道、

高台にある小堀遠州一族の墓まで送ってくださった。

見晴らしの良い場所に枝垂れサクラ

見下ろすと家臣団の墓がずらりと並んでいる。

↑領主・小堀家の墓の真ん中に初代遠州とその妻の墓↑

↑となりは「織部灯篭です。キリシタン灯篭とも言います」

↑横に張り出した部分から十字架に似せている、というのだ。
小堀遠州の師・古田織部はキリシタン大名だった?

↑家臣団の墓の中に三角形の墓標がある

「これもキリシタンの墓かもしれないんです」
近江孤蓬庵にはまだまだ分かっていないことがたくさんある。

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余呉湖はダム湖のように使われている

2024-04-16 07:03:50 | 国内
余呉湖は琵琶湖より47m高い位置にある、周囲6㎞の小さな湖。


4月2日、最初に訪れたのは「黒田観音」。

黒田官兵衛一族の出身地と伝わる黒田村の小さなお堂※「長浜米原を楽しむ」HPにリンクします

お厨子が開くと等身大より大きなお像が姿をあらわす。

いつも観音様ばかりに目がいっていたが↑今回はこのお堂の木彫も観るべきものだと感じた。
**

余呉湖へ向かう

余呉湖は賤ヶ岳によって琵琶湖と隔てられている↑「賤ヶ岳の戦い」は実際には余呉湖畔が主戦場だった。

流れ込む川はない湧水の湖…と思って湖畔の地図を見たら↓

↑なんと琵琶湖から巨大ポンプで水をひきあげているではないか↑※余呉湖と琵琶湖の間を点線のトンネルがつないでいる↑
琵琶湖がすぐ近くにあるにもかかわらず、湖北は江戸時代以前からずっと水が足りない地域だった。
杉野川、高時川、余呉川という三つの小河川からの水の取り合いで集落は常に争っていた。

1950年代、60年代、農業に加えてヤンマーをはじめとする工場もたくさん進出し、工場用水も必要になってきた。
水問題の根本的な解決のためダム建設が検討されはじめた。
画期的な解決策として余呉湖を実質的なダム湖として活用するアイデアが採用され、昭和40年から22年をかけて琵琶湖の水をひきあげて分配する現在のかたちができあがったのだった。
余呉川、高時川は幅をひろげられ取水口が整備された。

自然に見える湖の地下がそんなふうになっているとは。

日本中にある羽衣伝説発祥の地とされている。

さらに、三橋節子という画家の話をおしえていただいた。

梅原猛が彼女について書いた「湖の伝説」↑
昭和50年に、35歳で二人の子供をのこして早世した画家が、晩年の主題にしていた余呉湖。

「あの民宿に滞在していたんですよ」とガイドさんがおしえてくださった↑
骨の癌で片腕を失っても、夫の画家鈴木靖将の助けを借りて作品を発表し続けた。
今回宿泊した「紅鮎」さんに鈴木さんの絵が飾られていたっけ↓

※COREZOのページにお二人のことが詳しく書かれていました、リンクします
絶筆は「余呉の天女」。
大津に彼女の美術館がある。
※アイエム(インターネット)美術館にリンクします
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大音(おおと)から木之本宿へ

2024-04-14 22:17:27 | 国内
大音(おおと)集落は近江長浜、賤ヶ岳のふもとにある。
名前の由来は小さな村には立派すぎる伊香具神社。

延喜式の大社で、「正一位勳一等大社大明神金剛覚印菩薩」の勅額が下賜された※伊香具大社HPより

賤ヶ岳へのチェアリフトは4月下旬からの運行。
天気が良い日に上がる機会をつくりたい。
村はずれの小さなこの祠にも由緒あるお像があるそうな。
こんなお地蔵様も。
今回は車窓から。

↑絹糸を使った邦楽器の糸が大音の名産
※ながはまくらしノートのページにリンクします

こちらも案内の方を予約して訪問できる時間をつくりたいとおもっている。



↑黒田集落は明日4月2日朝に訪問予定
**
午後五時前、木之本の宿に到着。
↓高さ6m、日本最大のお地蔵様は秘仏の写しとされている↓


※片目のカエルの由来をこちらに書きました
秘仏の地蔵の由来を今回はじめて知った。
何度もお参りしていたが、はじめて内陣に展示されていた縁起絵巻を見た。

天武天皇の御代↑難波の浜に唐より流れ着いた地蔵菩薩像↑光を放ちご利益があるので祠に安置↑

↑この威光を広く衆生に知らせるべく薬師寺の僧祚蓮(それん)がお像を背負って全国行脚↑

↑北國街道の宿場で柳の木の下で動かせなくなった↑
そこに寺を建立し、宿場は「木之本」という名前になった。

千年以上人々が歩いてきた旧街道である。

皇太子時代の現上皇様夫妻が来られた時に食事をされた店で夕食。


どれも逸品だが、特に味わっていただきたかったのは鯖寿司

「鯖街道」でもある!(^^)!

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