旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

台湾でお料理を

2019-09-04 07:13:34 | 台湾
台北の市場で材料を買い出し

クッキングスクールの先生といっしょだとただ見ているよりずっとおもしろい
この黒いゼリーは↓

台湾スイーツのチョイスでよくみかけるが、
こんな薬草を煮出してつくっている↓

↓タケノコを剥く名人

↓細めだけどエシャロット

↓みごとなスピードで包む包む

わからない果物いっぱい

↓肉屋さんは部位がはっきりわかります


市場へいく前にスクールで集合し、全員が材料を入れる袋をもって買物に出

調理器具も全員分きれいにセットしてある
いっしょにクッキングを楽しんだのはアメリカやカナダやらなやってきた欧米人たちだった


市場からスクールへの道
公園にリスがちょろちょろしている
顔をよく見ると、スリランカでみかけたのといっしょ↓

イギリスの公演でみかけるようなのとはちょっと違う種類
**

一品目はイカの五香味ソース
↓皮を剥いたら、斜めに均等に切れ目を入れて

↓お湯に入れるとくるっとまるくなる

↓ミニコーンは

食べやすいサイズに切って

同じく少し湯がく
↓五種類の材料を混ぜてソースをつくるのだが

お酢が独特で、ウスターソースの味わいがあるのです↓これが味わいの決め手なのか(^.^)

↓完成~

この他にカラスミチャーハンをつくりました(^.^)

2020年二月に予定している台湾《手造の旅》第二弾にはこういう体験を入れたいと思っているのです。食べるよりも、つくるのがもっと楽しい!


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台南をもうすこし見てから新幹線で台北へ

2019-09-03 12:00:00 | 台湾
林百貨店の屋上にはアメリカ軍の機銃掃射で破壊された神社がそのまま残されている。

今年二月に訪れた時は夜だったが、こうして昼間の光で見ると、その時の様子がリアルに感じられる。
↓低空で襲ってきた飛行機からダダダダっと機関銃をあびせて石の欄干に穴があいたのか↓

小松の八十歳近くになる叔父が、小学校の帰りにアメリカ軍の機銃掃射に遭ったと話していたのを思い出した。
↓台南の中心部が見渡せる屋上。昭和七年に完成した時から街の構造は変わっていない↓

↑印象的な四角い建物もその日本支配時代に建設された銀行
↓再オープンした林百貨店は今、こじゃれたグッズを売るお店になっているのだが。


道を隔てた交差点には、日本軍の南京での蛮行を糾弾するこんな像も置かれている↓


**
鄭成功の廟が近くにある。ここは鄭成功亡き後にも邸宅だった場所で、ここで清朝によって滅ぼされたと伝わる

↓すぐ前の井戸から見つかった砲弾↓


長崎・平戸で鄭成功が生まれたとされる海岸から持ってこられた石↓

※平戸を訪れた時のブログはこちらから
「鄭」という名字がつく一族は、彼の足跡のあった各地に住んでいる。
そういう人々の連携している組織もある。
この廟の後ろにはこんな場所があった↓


***台南の現代美術館もすぐ近くにある

↑今回は中には入らなかったが、さてこういう場所を見てもらうのも現代台湾を理解するのにはよい?

↓いや、それよりは、目の前にある日本統治時代1914年に建設された地方法院(裁判所)の方が相応しい

↓これは往時を復元したモデル。塔があったのがわかる↓

ルネサンスというかヴィクトリア朝的というか当時の欧米追従路線が感じられる装飾


****
建築としてはこの↓天文館の方がおもしろいといつも思う

↑今は街中に埋もれてしまったが1897年という日本統治の三年目に建てられた当時には最も目立つ高い建物だったのだろう。
一度中をゆっくり見学してみたい。

*****
電車の時間があったが、急いでタンツー麺と

百年粽だけは食べて↓

新幹線に乗った↓



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台南~赤崁楼の前に置かれるはずだった十匹目の亀は

2019-09-02 20:00:00 | 台湾

赤崁樓の前にある九枚の石碑が気になっていた↓夜はカラフルにライトアップされている

2019年9月、すぐ前で発掘工事作業中。
オランダが1653年に建設したプロビンディア城がこの場所のルーツ。何が出てくるか楽しみ。
※今年二月に訪れた時のブログにその歴史を少し書きました
現在の石垣壁の奥に、オランダ時代の階段の跡が見られる↓

↓オランダ時代の復元図

**
九枚の石碑はこんな感じで、それぞれ亀のかたちをした石の上に設置されている↓※下の写真は台湾観光のサイトより

「はじめは十枚セットだったのです」とガイドさん。
え?もう一枚はいったいどこに?

★この碑はもともと大陸で制作された。
1787年に清朝に対して反乱を起こした林爽文を討伐した福康安を讃えるための碑を皇帝が下賜したのである。

厦門の特別な石を使って工房で制作され、台南に船で運ばれてきた十枚の石碑とそれを背負う十個の亀石。
輸送船から小舟に載せ替えようとしたその時、亀石のひとつが海に落ちてしまった!

皇帝から下賜された碑を損なったと知れれば首がとびかねない。
この出来事を隠ぺいするために台湾の現場では急いで偽物の亀石がつくられた。
ところが、大陸の一流工房で制作されたものは白い上質の石を用いていたので、並べると台湾製は黒く見えて差は歴然。

困った地元は一枚石碑だけを反乱討伐に功績のあった嘉儀に贈呈することにした。
「嘉儀に置かれた亀石は今もあるのですか?見たいですね」というと、この話をきかせてくれたガイドさんは「見てきました。色は黒かったです(笑)」と言った。
↓台湾観光のサイトにあった嘉儀の亀石

あ、たしかに色が黒い…だけでなく、つくりもずいぶん荒い↑
石碑はホンモノなので上に皇帝の印である龍が彫り込まれている。
その石と亀石との差がはっきり感じられる。

海の底に沈んだホンモノの亀石はなんと、1911年に漁師によって発見された↓
↓現在は台南の某廟にこんなかたちで置かれているそうな※こちらの写真も台湾観光のサイトより。
次回には自分で訪れて確認してきます

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台南の大天后宮、武廟

2019-09-02 18:00:00 | 台湾

1984年清朝康熙帝23年に、皇帝の命令によるものとしては台湾ではじめての媽祖神への廟が建立された。それが、これ↑
「大天后宮」とは媽祖のこと。媽祖は中華圏の海岸部の多くの場所で信仰されていた。マカオの名前は「媽祖」からきている。

現在みられる廟は1775年清朝乾隆帝40年に改修されたもの↓石の階段は当時からのものそのままだという

廟への正面玄関は神様の道なので人がとおってはいけない。
真ん中の敷居が意図的に高くして入れないようにしてある↓


まずは右側の龍の入口から入る↓

ここへ神意を伺いに来る人々は真剣↓こういう二つを投げて、その裏表でくじをひく



歴史あるこの廟には歴代の皇帝だけでなく現代の政治家も扁額を奉納している↓
↓現在の蔡英文総統のものもあった↓左下に名前が読めます


出る時は向かって左の虎の口から↓


**大天后宮を出て細い路地をゆくとすぐに武廟に達する

小さな占いの店がいくつもでている。
↓武廟とは、三国志の英雄・関羽を祀っている。※孔子が文廟のトップ

↓中央の入口はやはり敷居が高くしてある神様用の道

↓清朝の乾隆帝時代に奉納された趣意書石碑

この廟も前出の大天后宮と同じく皇帝の命により建設された
↓入口を振り返ったところに掲げられているこの扁額がいちばん人気なのだそうだ↓

「大丈夫」なるほど(^.^)









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台南~神農街、延平郡王祠

2019-09-02 15:00:00 | 台湾
台南の老街(旧市街)のひとつ神農街入口に復元された石の門↓

細部は摩耗してしまって読めない↓バラバラにされていたのを組みなおしたのだろうと想像できる。

今はすぐ後に建物があってかつての様子を想像することもできないが、この向こうは港だったそうだ。
↓昔のこんな絵が残されている↓なるほど

停泊した船から門をとおると目の前にある廟は「神風廟」↓
↓北京から派遣されてきた役人が到着すると無事の到着を風の神に感謝した

清の乾隆帝時代(18世紀前半)建設されたが、日本時代の大正七年には道路拡張の為破壊して別の場所に移動されられた。
1995年になって元の場所に復元した。
住んでいた家を移動させてまで廟の前の広場を再現したそうだ。
台湾政府の歴史復元への尽力がうかがえる。
※帰国してから解説してもらった話を検証していたらネットで出てくる写真と背景があまりにちがって戸惑った。
この場所が二度移築されたという経過を発見してようやく納得できた。

古い港だった場所から近い神農街は細い路地



↑いちばん奥に一段高くなっているのが薬の神様を祀る廟。いわば薬師堂前の門前町か。
木彫の老舗が一角にある

台湾でもこういった職人は減っている

全土から修復や新装の注文が集まるのだそうだ



古い家を改装したおしゃれなお店もたくさん並んでおりました。

**
日中ハーフ、十七世紀の英雄・鄭成功の廟のひとつ「延平郡王祠」を訪れた。

明が清によって滅ぼされていった時期、北京を追われた明の皇帝を復位させるべく尽力し「国姓爺」の称号を得た人物。
※彼が生まれ育った平戸の村を訪れた時の話をこちらに載せました
台湾島からオランダ人を追い出し、はじめて台湾を事実上の首都とする独立国を主導した。
この廟は1875年(清の光緒元年、日本の明治八年)に建設された。北京本国から牡丹社事件の処理のために派遣されてきた沈葆楨が現地で敬意を払われていた鄭成功のために許可をとった。いわば「人気取り政策」のひとつだったのかもしれない。

戦後に国民党が建てたこんな門もすぐちかくにある↓

第二次大戦後に台湾を取り戻した国民党政権が、民衆を弾圧した「二二八事件」。これを鎮圧し、民心を安定させるために派遣された役人が建てた。つまり、こちらも地元の人々の心を得るための「人気取り政策」だったのかもしれない↓国民党のシンボルがとりつけられている。政治的なこのマークのとりはずしも検討されたそうだが、歴史の改編をする姿勢につながるとして行われなかった。懸命である。

下に「忠義を肝にめいず」という意味の言葉を刻んでいる。

日本統治下に入った翌年の1896年には「開山神社」と改名され、日本式の社殿も建てられたが今はとりこわされた。

当時使われていた神社の用具も保管されていたのだが↓供物を置く台が逆さに展示されていた↓

鄭成功関連のお土産販売には力をいれている

人気の「鄭成功ビール」↓

↓少年時代の鄭成功と母の田川マツの図柄のメダル

母の田川家の位牌が本殿の後に安置されている↓

彼女の父は平戸の医者で、居留する外国人に人望があった。
娘のマツは助手をつとめる才媛で、平戸を訪れていた鄭芝龍に見初められ結婚。
生まれたのが鄭成功である。

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