旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

中城城(なかぐすくじょう)

2024-01-31 21:54:26 | 国内
このアーチは500年間一度も落ちていない。

黒船のペリー艦隊が調査して「エジプト式」と評した↓スケッチが残されている↓(下右)

見事な城壁は第二次大戦の被害も少なかった。

朝、南城市でグラスボートを楽しんでから北上。


↑西原町のショッピングモールになっている場所はかつて製糖工場だった↓

↑その記憶を留めようと昔の機械や↓さとうきびを運ぶ労働者の銅像が置かれている↓


途中沖縄銘菓「スッパイマン」を味わいながら ※「スッパイマン」を製造する上間さんのページにリンクします

11時には中城城(なかぐすく城)が見えてきた


驚いたのは種子島以前に鉄砲が実用配備されていたこと↓

「城壁に見えている穴は鉄砲狭間」です。
※沖縄観光のページにリンクします
鉄砲本体は見つかっていないが、弾丸がたくさん掘り出された。
種子島に鉄砲が伝来する百年近く前の話。

専門家が「日本最強の城」と讃えるのもわかる※yahooニュースにリンクします

★中城城は日本なら室町時代の15世紀半ばから
70~80年間にわたり四代の城主が建造した。

↑我々素人が見ても一目で違いがわかる↓「布積み(=豆腐積み)」※上の写真と下の写真の右側部分

↑「あいかた積み(=亀甲乱れ積み)」
後者の方が第四代領主護佐丸による部分と思われる。

これらははっきり違いがわかるが、
同じ場所にも何重にも積み続けられて混在している。

近年、石工の刻んだ印が発見された↓

↓黄色く塗られたものは首里城からも同じ印がみつかった↓

↓指先の部分、わかりますかしらん?

↓ここも

首里城と同じ石工集団が築城にかかわったと考えられている※所説あり

三つの廓(くるわ)を繋ぐ門のアーチが、

古代ギリシャや中世ヨーロッパにも比肩できる

頑強さと美しさを兼ね備えた構造だった。





↑城壁の北方向にだけちょっとした盛り上がりがあるのは↑鬼門封じ。


全体模型↓

↑いちばん高い一の廓に正殿があったが、それは天守閣でなく平屋。
沖縄の台風を避けるためである。

実際歩いていて石壁より下に入ると快適だった。

城壁の上は回廊になっていて兵士が巡邏していただろう。

けっこう狭くて足を滑らせたら落ちそうだけれど、
城壁を観光客に歩かせてもらえるのは幸い。
かつては首里城が遠く臨むことができた場所↓首里城を守る役割の城となり発展したのである。

現在見えているのは成田さんのお寺と昭和五十年代の都市↑
↓海岸線に石油の精製所

琉球神話の聖地久高島に光があたっていた



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奥武島の夕食、みーばるビーチのグラスボート

2024-01-31 12:50:13 | 国内
フェリーが欠航する天候なのに、この浜ではグラスボート遊覧ができた。
漁師さんのアドバイスは適確(^^)/

前日の夕方は奥武島(おうじま)へ。
本島と百メートルほどの橋でつながった周囲1.7㎞の丸い島↓人口は800人ほど。

↑遠望すると白いビルが建っている。

実際橋を渡っていくと、思った以上に「都会」だ。

遠くから見えていた白い建物はマンションだった。
「びっくりするぐらい値段があがってます」

本土から移住してくる人はさておき↑ここは今も漁師さんの島↑もずく漁の船は小さめで平底↑「一千万円ぐらいします」
一メートルぐらいの「赤イカ」は、船の下に仕掛けをたらして釣るのだそうだ。

↑イカ漁にいく船は大きめ↑「6千万円ぐらいかな」

↑四角いのは保冷倉庫。
「船はどのぐらいもつのですか?」
「『船は万年』で、年数経ってもそんなに安くならないんです」

↑明らかに形状のちがうクルーザーは某社長のレジャーボートだった。

奥武島は「天ぷらの島」と紹介されるが…
「ぼくらはフツーの天ぷらだと思うんですが(笑)」
↑夜は「天ぷら屋」は閉まっているし、我々の訪れた店も夜に天ぷらメニューはない。

夜開いているのはほんとうに地元民向けの食堂だけ。
「海産物食堂」

ぱっと目に付いたメニューは…

「イカ墨汁」定食の味噌汁を変更するだけで、
今日は900円だったが、注文した。

北スペインのイカスミパエリア、ヴェネチアのイカスミパスタ、思いだします(^^)/

宿泊するホテルのご夫妻も食事に来ておられた。
初対面だったが、レセプションの後ろにあった似顔絵とそっくりだったのですぐにわかった。
良い笑顔です(^^♪

息子さんが昨年DeNAからソフトバンクホークスに移籍した峯井捕手なのだそうだ。
※ソフトバンクのページにリンクします
よく似ておられました(^^♪
ちょっとしたご縁で親近感が芽生える。
この夢登(むーと)という宿、久高島に行くフェリーが欠航して急遽泊まることになったのだが、全室海が見張らせるし快適(^^)/
**
翌朝、部屋からの眺め



↑丁寧な家庭料理の朝食。
ホテルを出発して五分で
「みーばるビーチ」に到着。
冒頭の写真。

こんなきれいな浜がすぐ近くにあったのか。

久高島へのフェリーが欠航になったおかげでこちらへも来られた。
↑岸からだいぶ離れた場所に白波が見える。
「あそこまで歩いて行けるぐらい浅いサンゴ礁ですよ」

「風の方向からちょうど影になるので、
今日はここなら船がださるんです」
グラスボートはほとんど揺れなかった。


水中は別世界だった。

生きているサンゴと色とりどりの魚たち。

カメには出会えなかったがけっこういるそうな。

三十分ほどだがこれを見ると見ないとでは沖縄の海のイメージがちがう。

桟橋ではここに住んでいる犬の「リーフ」くん

飼い主さん大好きです(^^



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ジョン万次郎が帰国した浜

2024-01-29 08:28:37 | 国内
ジョン万次郎は沖縄を選んで上陸した。
《手造の旅》沖縄、久高島へ行けなくなったことでその浜を訪れることができた。


※2012年の12月、万次郎が暮らしたフェアヘイブンを訪れた時のブログにリンクします
この2012年の旅を造る過程で、ジョン万次郎が帰国するためにいかに周到に準備したのかを知った。
漂流民が他国の船に助けられて外国に永住した例は少なくない。そういう墓がたくさん残されている。帰国したくてもできなかったのである。


ジョン万次郎の賞賛すべきところは、周到に準備して帰国を実現したところにある。
時代も味方した。
記念碑にサクラメントから贈られた石があったのはその表れ↓
↓この石は金鉱の石だ

サクラメントがカリフォルニア州の州都になったのは、ジョン万次郎も帰国費用を稼ぐためにやってきた「ゴールドラッシュ」のおかげ。ジョン万次郎もいわゆる「フォーティーナイナーズ」の一人だった。
※2016年6月にサクラメントを訪れた時のブログにリンクします

金採掘で帰国費用を稼ぎ、
ハワイに残されていた先輩漁師を迎えに行き、そのうち二人と共に帰国することを決めた。
問題は、江戸幕府が漂流民の帰国さえ拒否していること。
打ち払われてしまう。

唯一、薩摩藩が秘密裏に外国貿易をしている琉球なら可能性があると判断したのだった。

打ち払われず受け入れられ、幸い役所に連れていかれた一行。

こんな楽しそうな日々だったのかも(^^)/↑琉球での日々は詳しく言及されないことが多い。
鎖国の江戸時代にあって、琉球というのは特別な場所だった。
鹿児島、長崎、江戸ではお祭りに参加なんかできない。

高知県足摺岬近くの生まれ故郷中浜に帰ることができたのは約二年後。

銅像の万次郎が指さしていたのは故郷の方角だったのか
劇団四季がちょうどミュージカル仕立てにしている。

三月いっぱいまで全国公演中※劇団四季のHPにリンクします

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沖縄の県魚を食べてから、玉泉洞と「おきなわワールド」へ

2024-01-28 16:18:29 | 国内
1987年以来の玉泉洞。
記憶していたよりずっと見るべき場所だった。

「斎場御嶽(せーふぁーうたき)」の見学を終えて、

↑今晩泊まる予定だった久高島(↑見えている平たい島)へのフェリーは欠航した。

「斎場御嶽」の案内所二階の食堂で沖縄の県魚をメインにした定食↑ゆっくり味わう時間ができた。
↑右上の赤いのが「グルクン」と呼ばれる↓沖縄の県魚。

↑和名は「タカサゴ」だそうな。

↑沖縄のどの食堂にも必ずある「コレーグス」とは「島唐辛子」を意味する。
↑泡盛(沖縄の焼酎でタイ米を原料に黒麴菌をつかっている)に漬け込んだこの調味料そのものも指している。
辛くてアルコールを感じるが、さらっとして味わいが増す。
けっこうかけました(^^)

↑これは「バタフライ・ピー」というハーブの一種を漬けた青い水↑美容効果があると言われて近頃人気になっているとか。
※某美容クリニックに解説ページがありましたのでリンクします

食堂から下を見ると海水をひきこんだビニールハウスが見えた↑
「海ブドウをつくっているんですよ」昨年もお世話になったNさんが教えてくれる。
※2023年1月に久高島の海ブドウハウスを訪れたブログにリンクします
「海の下はもずくの畑がありますよ。
上からみるとよくわかります」↓

↑案内所にあった航空写真に↑なるほど黒い四角がたくさん写っております↑これが「もずく畑」だなんて、言われなければわからない。
**
久高島へ行けない午後、
玉泉洞へ行くことにした。

小松がはじめて訪れた1987年にはなかった「おきなわワールド」なるものが、洞窟の上にできていた。

しらべてみると、1979年には「玉泉ハブ公園」なるものがここにあって、
当時はマングースと戦わせるショーをやっていた。
小松は1987年にここで見たのかもしれない。

残酷な決闘ショーは2000年に廃止されたが、敷地内には今もハブの博物館+ショーハウスもある。

今はどんなショーをやっている?
15時半から見学してみよう。

まずは玉泉洞へ。

入口ですでに、地下からのむわっと暖かい空気を感じる。
洞内は年中21℃なのだそうだ。

今日は21℃がとても暖かく感じるぐらい寒い。

天井がドーム野球場のように高い部屋からスタート。

天井から細いストロー=鍾乳管がびっしりとのびている。

↑なるほど「槍天井」の名前どうり

2万本もあると書かれていた。どうやって数えたのかしらん。

鍾乳管の先から滴る石灰分を含んだ水。

流れる川を効果的に見せる照明。

雨の多い沖縄らしい「生きている」雰囲気の鍾乳洞である。


★これまで世界中で様々な鍾乳洞を見学したが、これほど湿度が高くはなかった。
※2015年に訪れたニューメキシコ州(アメリカ)の「カールスバット洞窟」がこれまで見たなかで最大の規模
※その日のブログにリンクします
美しさなら2007年に訪れた南イタリアの「カステラーナ洞窟」
※その日の旧ブログにリンクします。あの「白の部屋」は圧巻だった。

最後はエスカレーターで地上にもどってくる。
1987年、このシステムを世界ではじめて導入した鍾乳洞だったそうな。

***
地上の「おきなわワールド」14:30からの「スーパーエイサーショー」だが↓

↑写真撮影禁止

同じ場所で15:30から「ハブとマングースのショー」

2000年から決闘はなくなって、どんなショーを見せてくれるのだろう?

ハブの生態や習性、温度を感じて攻撃していることを実証実験してみせてくれた。
マングースは上の管↓右からちょこっと顔を出している↓

↑下の管にはウミヘビが居て、水泳競争をするショーでした(^^)/
平和がいちばん。

****

ロビーの一角に等身大より大きな「白旗を持つ少女」の銅像があった↑※左の暗い場所↑

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斎場御嶽(せーふぁーうたき)再訪

2024-01-26 05:46:56 | 国内

一年前よりだいぶ理解できたと感じる。
※2023年1月訪問時のブログにリンンクします

「窟屋のむこうに光が入るようになったのは、アメリカ軍の爆撃で壊れてからで、久高島を遥拝したのは岩窟の外だったようです。」なるほど、その方が自然。
窟屋の中で祈る方が絵にはなるけれど。

「斎場」と漢字で書くと違った雰囲気になってしまうが、「清い場所・聖なる場所」というような意味。「御嶽(うたき)」は琉球王国時代から、島中に何百(何千?)とある拝所。沖縄全島で最も大事にされてきた御嶽がここ。

どういう場所だったのか?
「琉球王にはそれぞれ神の声を伝える『聞得大君(きこえのおおきみ)」がいて、その就任式が行われた場所なのです」
就任式は「御新下り(おあらおり)」という。
就任式をしたあとに休む小屋が建てられていた場所が↓ここだった↓現代の建物は入場案内所。

↑就任式の時にだけ↑この広場に建てられていた↑
就任式のあとお休みになる様子↓

↑となりに置かれた金の枕に神様が寝ているのだそうな。
↑真夜中にもかかわらず、天から光が…↑

↓就任式が行われるエリアは女性しか立ち入ることが許されていなかった↓この階段から先

↑右手奥に重なっている六つの香炉が琉球王国時代のもの↑左にある灯篭のようなものは江戸時代になってから薩摩藩が立てた↑もともとは六基あったそうだ。六つの御嶽がこの先にあるので、この先に進めない男たちはここで拝んだ。

↑この先に進む王族の男性は女性の着物を羽織ったそうな。

↑「大庫利(うふぐーい)」↑真夜中にここで「就任式」が行われる。
年配の神女が新たに就任する女性の額に水をつける↑

↑「香炉はホンモノです」
ただの石の香炉だったことで現代までそのまま残されてきたことに感謝。

↑儀式を行う場の中心が↑入口とずらしてあるのはなぜ?
「まじむん(魔物)は真っ直ぐにしか進めないのでそれを避けるためです(笑)」

↑そばの大きなガジュマルの木を見上げてガイドさんが言った。
「ガジュマルの木の上にはキジムナーが住んでいて、心の清い人にだけ見えると言われています」↑
↑「見えます」というのはたいてい男性だそうな(笑)

「寄満(ゆいんち)」は↓

↑首里城の台所が同じ名前だが、ここは調理する場所ではない。
奉納された豊穣の品々が集められていた場所なのだろう。
↑かつて馬の形をした石があって吉凶を占っていたそうな。
ここは前出の「大庫利(うふぐーい)」の大岩の裏に位置している。


三叉路にもどり↑冒頭写真の「三庫里(さんぐーい)」に向かう。
この道は真夜中の儀式にわかりやすいように、
久高島から運ばれた白砂が敷かれていた。
※久高島を訪れた時にその砂のある浜を訪れました。リンクします。


「さんぐーい」すぐ手前に↑鍾乳石?が二つ垂れ下がっている場所がある。

それぞれから滴る水を受けるツボが置かれている↑手前のツボの水が「きこえのおおきみ」就任式で額に塗られる。
↑後ろのツボの水は皇太子の就任時につかわれる。


ここは「かつての」聖所なのか、
「今も」聖所なのではないか、

パンフレットに載せられていない↑もうひとつの御嶽がこの道の奥にある↑
2018年に「呼ばれた」と言って分け入った男性があったが、
夜になっても戻ってこなくて捜索がはじまり、二日後に残念な見つかり方をしたそうだ。
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