旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》山代温泉を歩いてから「おんせん図書館みかん」へ

2022-05-31 22:27:10 | 国内
朝六時半過ぎに山代温泉の「古総湯(こそゆ)」に入った。
※こちらに書きました

**
9時にホテルを出て、まずは温泉寺へ。

山代温泉は「あいうえおの里」。
※こちらに詳しく解説されております(^^)
平安時代後期に比叡山で「悉曇学(しったん学)=サンスクリットのシッダム(siddham)=母音またはサンスクリットの文字」を学んだ明覚上人が、ここ山代温泉:温泉寺ではじめて「あいうえお」を考案したとされている。それまで「いろはにほへと」だった日本語を母音と子音に分類し、サンスクリット文字の配列に準じて並べた。

この功績は近年やっと注目されはじめ、2021年温泉寺の入口に記念碑が建てられた↑

明覚上人が死ぬまで学んでいた↑温泉寺の入口

境内を抜けると「あいうえおの小径」があって、その階段には九谷焼でいろいろな言葉がちりばめられている。

先に明覚上人の墓があるというのでのぼっていった。

室町時代はじめにつくられたとされる明覚上人の墓=五輪塔が新しいお堂の中にあった。

それにしても、明覚はなぜ山代温泉を研究の場に選んだのだろう?
もともと学んでいた比叡山の方がよほど資料も人もあるように思える。
冒頭のリンクを細かく読んでいたら「山代では、比叡山で習った古い中国語から変化した新しい、『近世語としての中国語』が聴けた」という説明がされていた。
そう思って地図をみると北陸は大陸にとても近い。
温泉は古来人を集めるから、山代には中国人学僧が住んでいたのかもしれない。
**
山代温泉の源泉↓八咫烏に導かれて行基が発見したと伝承されている。

山代温泉の「旧市街」にある十七の温泉宿はすべてここから湯をひいているのだそうだ。
ところが、「旧市街」の少しだけ外に位置する我々の宿泊したホテルは2007年に独自に掘削申請して却下された。
従来の源泉を利用する「旧市街」旅館群が温泉資源に影響が出るのを懸念して締結していた協約があったから。
事態は裁判となり2011年まで争われたが、掘削許可が出た。

この話をきいて2014年にアイスランドの地熱発電所で言われたことを思い出した。
「日本はアイスランドと同じぐらい地熱発電資源が豊かな国です」
※2014年アイスランドのブログにリンクします
アイスランドが地熱発電開発をどんどんすすめられるのは、日本のような温泉街がないからである。潜在能力があることと、それを利用できる環境にあることと、二つがそろわないとうまくいかないのだ。


↑「女生水(おんなしょうず)」という湧き水処があった↑

温泉はあっても水が湧くところは意外にすくなく、昭和31年に上水道が通るまでここが人々の重要な水場だった。

***

北大路廬山人が学んだ須田菁華の店

廬山人が描いた看板↓

小松が国内添乗をはじめた1986-7年は山代温泉に来ると必ず九谷焼会館と漆器会館へ行ったものだが、
最近の個人客はそういったものには興味のない人が多いそうな。


↑無料の休憩所にいろいろな情報がある。
こんな入浴剤をいただきました(^^)

さいごに、小松が山代温泉で見ていただきたかった「おんせん図書館みかん」へ

それぞれの想いが詰まった書架が集まる私設図書館↓

※こちらにもっと写真入りで書きました。どうぞご覧ください!(^.^)
こういう場所が日本中にひろがってゆけばよいと思うのです。

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《手造の旅》金沢・山代~西田記念館で水引アート体験をしてから山代温泉へ

2022-05-30 15:00:32 | 国内

西田幾多郎記念館の最上階からの眺め↑下見の時には入れなかった(^^)

↑まるでギリシャ神殿のような建物↑あの日、ひと目で「行程に入れたい」と思ったのだった。
※4月4日下見の日のブログにリンクします

↑内部も魅力的な空間↑ だが、今日は西田幾多郎氏について学ぶのではなく

研修室を借りて、金沢伝統の「水引アート」を井波さんにおしえていただくのです(^^)
※井波さんのHPにリンクします
※2019年にはじめてお会いして、小松が「水引のリング」をつくった時のブログにリンクします
↑今日はこんなコサージュをつくりましょう(^^)
金沢市内の小学校で、卒業生がそれぞれ自分でつくったコサージュを胸につけて式に出る取り組みがされているのだそうだ。

まずはそれぞれ好きな色の紙紐を選ぶ↑
これだけ多彩な紙紐のがつくられているのも伝統工芸の底力だと思う↑

三つ編みで二種類の紐をつくる↑

それをくるりと輪にして組み合わせ↑その前に別の色の紐でつくった花五つを重ねて配置する↑
それほどムズカシイ作業ではないのだが、小さな輪にもそれぞれの個性がでるのがおもしろい。

↑こちら完成品!
先生が仕上げをしてくださっているあいだに、記念館館内を一周した。

明治三年生まれー終戦の年の六月に亡くなった西田幾多郎は、石川県の現かほく市に生まれ京都大学で教鞭をとった。
京都の「哲学の道」は彼が毎日歩いた道なのである。
あぁ、時間がない。彼について学ぶのは次の機会にゆずる。

午後2時15分、金沢市内へむけて出発。
↑お昼ごはんは芝寿司の「金沢日記」にした。
井波さんによれば「芝寿司は北陸の人にとってイベントの時の定番弁当」。
「当日お天気が悪ければ、お弁当のキャンセルもできるんです」
え?それはすごいサービスだ。
HPをみると、確かに「雨天キャン」と書かれた商品は当日キャンセルOKになっている↓
※芝寿司のページにリンクします
この「金沢日記」も、雨天キャンセルができるもののひとつ↓

たしかにおいしいです(^^)
雨天キャンセルになっても商品を売りさばく自信があるからできるサービス。
実質、石川・富山・福井の北陸三県だけに弁当を届けて、地元から絶大な信頼を得ているのである。仕事というのは大きくすればよいというものではないですね。
**
午後三時過ぎ、金沢市内到着。

金沢市内では、通称「忍者寺」と呼ばれている妙立寺を見学した↑
↑ここは少人数の予約しか受けず、団体旅行にはなかなか組み込まれない場所↑
※妙立寺のHP`にリンクします
ガイドさん連れられてそれぞれの部屋の「仕掛け」を見せてもらいながら楽しめるのは、せいぜい十人といったところだろう。加賀前田家が万が一徳川幕府に攻め込まれることを警戒していたかを視覚的に知ることができる。
***
金沢市内から山代温泉まで一時間弱で到着。

ホテルはあえて素泊まりにして、地元の友人が勧めてくれたお店へ↑

メニューを見て、気になったモノを入れてコースにしていただいた。
旬のアスパラや↓

お店の看板メニューのフグや↓

なんといっても天然の岩牡蠣↓

これだけ濃厚で食べ応えのある牡蠣は日本でも海外でもたべたことがなかった↑★★★

北陸の味を満喫させていただきました(^^)

夕食の間にはだいぶん降っていたらしい。
楽しすぎてこの夜最後のお客になってしまった。
ホテルまで歩いて帰ろう。
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《手造の旅》富山高岡~勝興寺

2022-05-29 15:47:27 | 国内
遊び心が時代を超えて伝わってくる(^^)平成10年からの大修理の際につくられたレプリカ↑

↑上の写真中にある18世紀江戸時代のホンモノ、見つけられますでしょうか↑

「勝興寺の七不思議」のうち、四番目の「猿」がこれなのだが、本当は何?
↓レプリカを後ろからみるとわかる↓

↑このふんどしは「力士₌すもうとり」だ(^^)
2020年六月に羽黒山の本殿を支えていた真っ黒な「力士」を思い出した
※その日のブログにリンクします

**
午前十時少し前の「磯はなび」ロビー↓

昨夜はお祭で遅かったのでゆっくり出発
海を見ているのが気持ち良い。

↑伏木駅に●「如意の渡」の弁慶と義経の像↑安宅関の話はこの話がルーツにあるのではないかといわれている※「日本伝承大鑑」に詳しく解説されています
渡し舟が運航してた平成21年まで、この像は港にあったのだそうだ。

渡し船のあった河口からほどちかい高台は、奈良時代に大伴家持が五年間着任していた国府があった場所※高岡市万葉歴史館のHPにリンクします今回の旅では万葉歴史館まで言及する時間がありませんでした、次の機会にぜひ(^.^)
↓大伴家持が滞在した国府があった場所にある浄土真宗の寺院を訪ねる↓
●勝興寺↓この唐門はもともと京都の興正寺の勅使門だったのを明治に移築したもの↓↓通常は柵があって通れなくしていただろう名残の穴がある

寺のルーツは蓮如の時代にあるが、現在の場所に移転したのは天正12年(1854)
※高岡市のHPに分かりやすく書かれています
↑現在見られるものは前田家11代の治脩(まえだ はるなが)の時代=18世紀末のもの

なぜ彼がこの寺を立派に復興させたのか?↑ガイドのTさんが分かりやすく説明してくださった↑
治脩は六代藩主吉徳の十男だった。
兄がたくさんいるので藩主になることはないだろうと、9歳の時にこの寺の住職にさせられた。

↑小柄な少年はこの女性用の駕籠でこの寺に到着し↑その後の二十六年をここで生きた。
その間、兄たちの四人が藩主になったが三人は22歳、25歳、19歳で死去。
最後にすぐ上の兄が藩主についたが十五年経っても後嗣にめぐまれず、僧籍にあった弟を還俗させることにしたのである。
後嗣なく引退した兄を継いで藩主となった治脩は、自分を育ててくれた寺を立派に建てなおした。
※兄は引退の七年後に後嗣を相次いで二人得て、その両方が治脩の養子となっている

↑本堂内部 ↑全国の重要文化財建築のなかでも八番目の大きさ↑
1795年に京都西本願寺阿弥陀堂をモデルに建造されたもの。

↑正面の柱↑「龍が月を見ながら杯をかたむけているところ」だそうな(^.^)

↑こちらが冒頭にレプリカ写真を載せた
本堂の屋根四隅を支える「猿」の実物画像↑
ホンモノは改修を終えて元のところに戻されたようなので残念ながら見られません。
「七不思議」のひとつである三葉の松
←叩くとキンキンと音がするから本当に隕石かもしれない
←実成らずの銀杏


↑僧たちが生活していた「本坊」部分の台所を外側からみたところ↑
※伽藍全体の説明があるお寺のHPにリンクします

↑内部は豪快な木組みになっていて↑井戸まで備えている↑

↑書院↑一段上がった最上の席との間を立派な欄間が隔てている↑さらに横には勅使のための席が用意されている。
襖の緑と白のデザインは

↑残っていた18世紀当時のデザインを復元している。

本坊に使われている木材は、18世紀に建てなおされる以前の木材も再利用されていると考えられ、平成10年からの修復においてもできるだけ古い材料を使って行われている↑
費用も手間もかかるが、これによって富山県二番目の国宝指定もあるかもしれない、とか。


寺が所有している名品のひとつが京都の洛中洛外図↑
↑秀吉が建立した京都の大仏殿(焼失)↑一階部分の扉が開いて蓮の台座部分がちらりと見えている↑
※展示はレプリカ


奥の入れないエリアの建物↑寺を復興させてくれた11代治脩を祀ってあるそうだ↑
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富山・高岡「けんか山」2022

2022-05-27 06:01:01 | 国内
重さ8トンの山車が正面からぶつかり合う「カッチャ」※ぜひ動画で音をおききください!

最上の桟敷席をとってくださった(^^)

↑ぶつかる瞬間に飛び散る木片、火花まで間近に見えた。
**
21:30にホテルを出て

まずは祭のことがぎゅっと詰まった資料館を訪ねる。

↑いきなり巨大な寿老人に迎えられてびっくり。
昼間の山車はそれぞれ神様を乗せているが、夜「けんか山」でぶつかりあう時には下ろされ、花飾りのかわりに全面提灯で飾る。

↑これは人形のレプリカ↑右が昼間の山車、左がこれから見る夜の山車↑

二十年ほど前に山車を一か所に収蔵する蔵をつくり、散逸しそうになっていた昔の資料も集めたのだそうだ。これらは地域の人々がお金と力を出しあってしたこと。お役所仕事でできることではない。個人の情熱があって・場所や時間にも恵まれてはじめて可能になる。

金糸が織り込まれた豪華な衣装↑
間近に見ると年月を感じさせるが↑代々継がれてきた歴史そのもの。

↑「まとい」に似た飾り↑昔は木製に金箔だったがあまりに重いので今は発泡スチロールに金箔に換えられたのだそうだ。


「カッチャ」の会場まで歩く途中に

↑立派な山車の倉庫が見えた

会場へ向かう山車


間近に見ると↑練り歩くだけの山車とちがってがっしり頑強につくられているのがわかる。

両者、準備ほぼ完了!

山車の中からエンドレスのお囃子がずっと響いてくる。
ぶつかる山車の中に四五人は乗っている。

黄色いたすきを×にかけた両者の総代が集まり挨拶を交わす。
いったんさがった山車が、笛の音を合図に勢いをつけて動き出す(^.^)

花形は前のめりの二人!

お囃子が一瞬止んだ瞬間
ガシン!
文字では表現できない衝突音がして
丸太が裂けて破片が飛ぶ。
火花も見えた。
山車全体が大きく揺れる。
中のお囃子連もその瞬間は演奏を止めてしがみつくのだ。

両者の総代が登って相対し、あと何回カッチャするか決める。

「三回!」

勝敗は?
かつて提灯に本物の火が入っていた時には衝撃で山車が火事になったりして
明らかに勝ち負けが見えたりはしたが、
誰かが勝敗を判定するということはない。

最後は両者を讃えあい、双方「いやさか」を踊りだす。


山車の組み合わせは四回ほども変わり、
その度いったい何回「カッチャ」があっただろう。

裂けた木片を御守りにと渡してくださった。
22:30にはじまり、一時間以上続いた「カッチャ」もそろそろ終わり。
雨除けのビニールシートをかぶせてあったが、最後まで雨に降られず幸いだった。

倉庫へもどる山車の後を我々も歩く




★なぜ、山車をぶつけるようになったのか?
確実なことは分かっていないが、ご祝儀をくれる北前船の大店前で、なかなか場所を譲らない別の山車をどかそうとぶつけたのがはじまりではないかと言われている。

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《手造の旅》富山高岡~「能作」でぐい吞みをつくって使う

2022-05-26 15:18:08 | 国内
高岡の鋳物産業復活の中心が「能作」
2019年のカンブリア宮殿で知って※番組HPにリンクします

入ってすぐにこれまで製作につかってきた鋳型が天井まで並んでいる↑

↑多くは仏具関係だが、これらこそ今でも「能作」の財産そのもの。
仏具の「おりん」をつくっていたところから

音色の良い風鈴をおもいついたのが突破口だった。
冷酒にぴったりの錫製ぐい呑みが売れるようになる。

今日は↑それ作る体験を予約した↑※自分の名前を刻印して完成したところ↑

売り物の製品をつくる過程をそのまんま実践する↑型を完成させるまで一時間近くかかる。

指導の方が錫の棒を溶かして「湯」にして↑注ぎ込んでくれる

錫の融点は231.9℃だから早く溶けるし・早く固まる↑しばらくまって枠から外す瞬間

↑無事に羽根つきのぐい呑みがあらわれた↑

砂がつくった表面の模様はひとつひとつ違う。

密度の違うサンドペーパーで縁を磨き↑
裏に刻印した。

工場を上からのぞかせていただき
融点が低すぎてすぐに曲がってしまう性質を逆手にとった製品群の紹介↓

↑これは手の手術をする時に固定する台なのだそうだ↑
弱点と思われていた性質も、アイデア次第で長所になるということ。

ホテルに入り夕食の席で

マイぐい呑みをつかってみた(^.^)



はじめての↑ほたるイカのしゃぶしゃぶ↑また食べたい(^.^)

目の前の小釜で炊く米↑最高でした(^.^)

21:30にホテルを出て、いよいよお祭りへ




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