旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

唐崎の松

2022-03-21 07:54:14 | 国内
寛永十年(1633年)と刻まれた灯篭を覗くと対岸の「近江富士」がぴったり見えた。

芭蕉がここへやってきたのは貞亨2年(1685年)だから、この灯篭はすでにあった。
覗くためにとりつけられたように見える階段を上って、同じように「近江富士」を覗き見たかもしれない(^^)

4/6-8で催行することにした近江長浜と比叡山の旅で、
この近くのホテルに宿泊することに決めたので周辺リサーチに来た。
実際に現地を見ておくことで、旅の本番に役立つことが今まで何度もあった。
オンライン検索の情報と合わせることで旅の価値を何倍にも高めることができる。

唐崎は万葉集にも出てくるほど古くからの港で、初代の松は平安時代にはあった。
天正元年(1573)に倒れ、二代目が植えられたのが天正十九年(1591)
※日吉大社のHPに解説されています
芭蕉がやってきた時には植えられてから九十年を超えた「老木」になっていた。

↑この句ははじめ「辛崎の松は小町が身の朧」だったそうな。
年老いた小野小町のことだと解説されたものもある。
小野道風、小野妹子、で知られる小野家のルーツはここから北へ十キロほどの同名の地だとされている。

二代目の松は芭蕉が訪れた後も江戸時代を通じて大きくなり続け、枯れたのは大正十年(1921年)だそうだ。
枯れきる前の明治二十年(1887年)に三代目が植えられ、
↓それも百五十年近くたった令和の今↓枯れかけている。

2008年に撮影された写真が載せられているページにリンクします
2017年からさらに老いがすすみ、
2020年には高い枝は切られた。
※その時の様子が朝日新聞に載っています
かつて横にひろがっていた枝を支えていた石台がそこここに残されている。

「唐崎の松」はもう「インスタ映え」する場所ではなくなってしまったかもしれない。
それでもここには、芭蕉をはじめ飛鳥奈良平安といった時代から訪れた人々の残り香を感じられる。

鳥居の目の前にある、鎌倉時代から続くという「みたらし団子」発祥の店も、

開いていれば味わってみたかった(^^)
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ゾジラ峠~1988年インドの旅より

2022-03-14 16:08:40 | インド
立ち往生したトラックを後ろから押すなんて危険すぎる。ずり落ちてきて巻き込まれたりしたら…

標高約3500mのゾジラ峠の開通を15㎞手前のソナマルグで待つ車列に物売りが群がる。

1988年当時はまだ紛争地帯というより「高原のリゾート」だったカシミール地方のスリナガルから、ラダック地方のカルギルへの道。
半年近く雪で通行できない峠であるばかりか、インドとパキスタンの国境地域なので一日に数時間しかオープンしない状況だった。

↑英語、ヒンディー語、アラビア語の看板↑

開通予定時刻はあてにならない。あせらず待つしかない。

「まだ開かないなぁ」
人種も言葉も様々だが思うことは同じ。
スイス人の一行

子供たちにとっては楽しい時間?商売の時間?

↑花畑だと思ったが↑この写真を撮ったあとに鞭を持って追いかけられた。
作物の畑だったのかしらん…

「カンパコーラ」は↑ペプシの類似商品だけれど、イギリスから独立した直後のインドが外国製品を追い出し、それに似た国産品をつくりだそうとしていた時代の産物。
**
突然車列が動きはじめ、人々はそれぞれの車に戻る。

ジグザグの道をのぼってゆく度にギザギザの山頂が現れる。

どんどん道は険しくなり、谷は深くなる。

車列が頻繁に渋滞するようになり、ついに車外で休憩する

積載量無視のボロボロトラックにはきつすぎる坂道なのだ。
ぬかるんだ道に擦り減ったタイヤが空回りする。

七月でも残雪?氷河の先?


追い抜けるような道ではない。
一台でも立ち往生すると後続車も一蓮托生。
なので、冒頭の写真のようにみんなで押しあげる。

こんなルートだもの、事故はある。
どの神様でもよいからお護りください。

***
車列は止まり続け、陽は傾き夜になった。

街燈などまったくない。
真っ暗な山道で完全に止まった車を降りると、闇にカレーの匂いが漂ってきた。
匂いにひかれていくと、地元のドライバーたちが暗闇でカレーをつくっていた。
何度もこういう道を行き来している彼らはこういう事態を予想してもいたのだろう。
外国人の我々にも快く分けてくれたそのカレーは…

砂のような味がした。
※当時はスマホなどない。帰国後にフィルムを現像して様子がわかった。

この翌日、詳しい事情は忘れたが、
崖をよじ登っている時にカメラを谷に落とした。
今回掲載した写真はそこまでに撮影を終えていた三本のフィルムからのもの。
この後はまったく写真がないので、
おぼろげな記憶をはっきりさせる術がない。
コメント (1)
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スリナガルのボートハウス~1988年インドの旅より

2022-03-12 07:28:53 | インド
ダル湖にうかぶ快適なボートハウス群。

ムガール帝国時代からイギリス人たちも好んで滞在した人気観光地、なのだが…

小松が訪れた翌年1989年から激しくなった「カシミール紛争」で、2022年の現在に至るまで日本外務省の危険レベル4(退避勧告),レベル3(渡航中止勧告)に指定され続けている。

ボートハウスは豪華さを競って観光客を呼び込んでいた。

船の中とは思えない、広くて快適な室内。

完全に欧米風のサービス。

食事が終わってやってきたのは↑仕立て屋さん↑
インド人のテーラーはファッション雑誌の切り抜きを見せて「これがよい?」と勧める。
写真を見せるだけで受注・採寸して、翌日にはそっくりの服を縫い上げて持ってくる。


**

ダル湖をシカラとよばれるゴンドラのようなボートで遊覧する。

蓮や水草で覆われた水面。

湖は山にかこまれていて、山頂にはヨーロッパでも見たことがないほど長大な城壁と砦が見えていた。

写真には残っていなかったのだが、夜、日本では経験したことがない永遠に止まらないかと思われるような連続した雷を経験した。

スリナガルを含むジャンム・カシミールという地域は現在インドが実効支配しているが、イスラム教徒が過半数を占めるのでパキスタンも領有を主張している。インドが独立する前にラジャー(藩王)が支配していた地域の北部は現在中国が実行支配している。
三つの国と、三つの宗教(ヒンズー教、イスラム教、チベット仏教)が混在するカシミール。
民族や宗教が言語が愛国心と結びつけられて、非寛容な社会や人をつくりだす。

もう二度と、スリナガルへ行く機会はやってこないだろう。


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ガンゴトリの電気の無い夜、デリーへもどる~1988年インドの旅より

2022-03-10 13:51:44 | 国内
↑ダイニングにはガスランプがあったが↑ガンゴトリのツーリスト・バンガローには電気がきていなかった。手配会社の人が「予約するためにここまで来ました」と言っていたほど、当時は田舎だったのである。

早めに夕飯を終えて部屋に入るとロウソクが置かれていた↑
↑セルフタイマーでフラッシュを使っての撮影なのでロウソクの光は弱く見えるが、実際はこれがなければ部屋は真っ暗↑カセットウォークマンとチャイ(ミルクティー)用のマイカップがとなりに見える↑
洗面台さえない。

夜中に目が覚める。
ごうごうと雨風が薄い壁を打つ音がする。
トイレは外につくられている。
廊下に出て↓フラッシュを使って撮影した写真↓

↑ロウソクが小さく写っている。
奥の扉の外、十メートルほど離れてトイレの建物がある。
雨風の中、目覚まし時計の灯りだけで用を足してもどった。
**
翌朝

記憶ではガンゴトリ氷河まで歩いた。

デリーまで同じ道を戻った。

↑カフェテリアのメニュー表↑チーズ・トマト・サンドイッチ6.00↑当時1インド・ルピーは10円ほど。補助通貨100パイサ=1ルピー。
※2022年の今は1ルピー=1.5円ほどと大幅に下落している
***
デリーに戻り、亡命チベット人のための「チベット・デイ・スクール」を訪問した。

★チベットは清国の朝貢国だったが、辛亥革命後も一貫して独立国として存在してきた(チベット側の主張)。現在の中華人民共和国による統治を不服とするチベット蜂起(1959)がきっかけとなり、ダライラマ14世はインドに亡命した。ヒマラヤの中のダラムサラに今も「チベット亡命政府」がある。
小松が同行した1988年の旅は、「チベット亡命政府」に多額の寄付をした団体が招待をうけてのことだった。

独立国・チベットが発行していた↑紙幣

インド側で主にチベット亡命政府を支援しているのは大統領だったので、我々一行も最終日に大統領と懇親会があった。その席で「そろそろ飛行機の時間があるので失礼しなくてはなりません」と言うと、大統領は「飛行機を待たせておくよう、電話しておくから」と、答えたのだった。
***

●クトゥブ・ミナールには驚いた↑目を見張る建造物がたくさんあるインドにおいても指折りのひとつに違いない。
※2005年の訪問をブログに詳しめに書いております



↑マハトマ・ガンディーのガート↑
ヒンズー教徒は墓をつくらない。ガートとは火葬をした場所である。
そこがガンディーの墓のように、人々が集まる場所になっている。
※2005年に訪問した時の話を載せています

街中の交通はいつもカオス

↑公園で「耳かき屋」に声をかけられて、押しにまけてやってもらったっけ↑
なーんでも商売になる、インド。


↑日本から同行していたインド人の通訳さんが「インド人の仕立屋は腕が良いよ。行くかい?」と言う。
カシミアの上下を仕立ててもらったのは、どこにいってしまったんだろう。


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リシケシからガンゴトリへ~1988インドの旅より

2022-03-08 20:40:38 | インド
ガンジス川の水源とされるガンゴトリに向かう。

標高300mほどのリシケシから、標高3100m・ヒマラヤ山脈の南に位置するガンゴトリへ。
道はどんどんけわしくなる。
途中で休憩する村も↑こんな感じ↑
びっくりするほど大きな蛾がとまっていた。

チャーターしたよれよれバスに揺られる。

途中、いろんなサードゥー(ヒンズー教の修行者をそう呼ぶ)に出会う↑※右は我々のドライバーさん

ヒンズー教のサードゥーは日本のお坊さんのように型にはまっていない。
服装も性格も多様で、生き方も違う。
身綺麗な格好で暮しながらヒンドゥーの教えに従った生き方をし仕事もしている人もいれば、我々外国人がイメージする「修行者」然とした服装で山の洞窟に暮す人もいる。
洞窟で暮すサードゥーにも二種類あって、ほんとうに祈りと修行に明け暮れる者と、観光客と交わろうとする者と…。

道が細くなって整備ぐあいが心配。

お地蔵さんのような祠をよくみかける。

夕方、ガンゴトリに到着。荷物を置いて宿の周辺を歩く。

バーギラティ川(ガンジスの水源のひとつでシヴァ神の髪の毛から流れ出ているとされる)の川岸、ごろごろした石を登って、セルフタイマーで撮影。
七月半ばだが気温は低い。

突然!サードゥーが立っていた↓

「ウェルカム・トゥ・マイ・テンプル」と声をかけられ、
岩穴に連れて行かれた。
こういう時、へたに英語で会話すると後々やっかいなことになる…。

「プレイ・マイ・ゴッド(ワタシの神に祈れ」↑
確固たる信仰心のない日本人なのでついつい手を合わせる。
「オファリング(お布施)」
え、お金?
お賽銭なら2ルピーぐらいでじゅうぶんか。
※ミルクティ一杯1ルピーで飲める
「モア(もっと)」
じゃ、10ルピー
「モア・コントリビュート(もっと貢献しろ)」

結局100ルピー…。

これは、彼のビジネスなんだろう。
ならば楽しませてもらわなきゃ(笑)

**
この時、なんと名刺をくれた。
ババ・アショカ・ナンドと書かれていて
「センド・フォト(写真を送れ)」と言う。
こんな岩屋に手紙が届くのかと思ったが、帰国後に送った。
すると、なんと、返事がかえってきた。
「(英語で)今日本に居る。○月○日から東京の●●ホテルにいるから来てくれ。」
さすがに行きませんでした(笑)

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