旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》奈良桜井エリア~橿原考古学博物館、飛鳥寺

2022-04-15 15:38:07 | 国内
「この鏡だけは近くに入れてね」と被葬者が言ったのかもしれない。
ほぼ未盗掘の黒塚古墳から発見された34枚の鏡のうち、いちばん小さなこの一枚だけが棺の中に置かれていた。

↑左下がそれ↑直径は13.5センチ「画紋帯神獣鏡」↑他は「三角縁神獣鏡」直径22センチ

2021年11月にリニューアル・オープンしたばかりの橿原考古学研究所付属博物館で、開館記念に34枚の鏡ぜんぶを展示してある。

これらの鏡はすべて大陸からのもので、後漢から三国時代につくられたと推察されている。
二世紀末から三世紀はじめ、古墳時代もはじめの頃にあたる。
貴重な鏡を相続もさせずに自分の墓に埋葬させることができるのはどんな人物だったのだろう。
日本でつくられる鏡もだんだん登場してくる※左がそれ


上の鏡と同じ時期にすでに猟犬としての愛犬?を丁寧に埋葬してあった↑
一度埋葬したのを掘りかえして骨の一部を壺にいれたようだ↑

時代は少しあとになるが埴輪になった動物たちの姿もおもしろい。

↑この「見返りの鹿」なんて動き出しそう(^.^)

埴輪が登場する前から、モノ造りへのこだわりは現代と変わらないと思える。

↑まるでエッシャーの「サークルリミット」のよう↑※リンクします
↑発掘された右下の残骸から復元制作されたものが上の円↑

縄文時代の器は

近江長浜で見た琵琶湖の湖底からみつかったものとそっくりに見えた
※その日のページにリンクします

縄文時代の造形のおもしろさ↓この博物館マスコットになった像にも感じられる

**

未盗掘の藤の木古墳からの馬具は圧巻だった↑

鞍の前後をきらびやかに装飾するのは、馬になど乗ることのない人々にも富と繁栄を見せる手段だっただろう。

↑何に使われたかよくわかっていない金で装飾された円筒形物。

↑これらが未盗掘で見つかった幸い↑

学芸員の方にみっちり解説していただくことで、自分で見て回るだけでは理解できない多くの価値に気付かされた。
**


2.4mの最大円筒形埴輪はメスリ山古墳のもの↑古墳の上にずらりと並んだ様子は壮観だったろう。

↑埴輪の時代にはそれをつくる職人が登場していて↑これは彼ら一族の棺だったと想像されている↑

***
古墳時代から飛鳥時代になるといっきに洗練されてくる

↑高松塚古墳の「白虎」の細部は筆勢まで感じられる

↑高松塚古墳の壁画↑発見当時の状態のレプリカが、手で触れて感じてもらえるように展示されていた。

↑これは天井に画かれていた星座↑触ってみると丹念に画かれたのがわかる↑

↑こういう官女たち?が使っていたかもしれない皮のカバン?↓

↑三塚古墳群出土の「朱塗り皮袋」

↑火葬して遺灰を納めたとおもわれる入れ物
****

平安時代の、日本最古の将棋の駒も

今ではなくなってしまった「酔象」などという駒もある

酔ったゾウ、どんな動きをしたのかしらん(^.^)
*****
橿原考古学博物館を訪れる直前に飛鳥寺を訪れていた。
この旅の最初に訪れた牧野古墳とここをつなぐ歴史を橿原考古学博物館で理解できた。

↑日本最古の大仏は推古天皇14年(西暦606)に製作されたとされる。
つまり、聖徳太子も深くかかわっていたはずだ。

↑近くで見ると年月が刻まれているのがわかる。

発掘調査で見つかった↑鬼瓦

↑百済からの渡来人によって建設されたとされる飛鳥寺からは
朝鮮半島と同じ様式の瓦もたくさん見つかるのだそうだ。

橿原考古学博物館、学芸員の方に解説していただいたことで、より知りたくなることにたくさん出会えました(^.^)
次回のチャンスがあればよいと思っております<(_ _)>

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《手造の旅》奈良桜井~談山神社

2022-04-15 10:48:22 | 国内
世界唯一の木造十三重の塔がそびえる談山神社は藤原鎌足を祀る

その朝、オーベルジュぷれざんす桜井を出発
※朝の散歩と朝食こちらに載せました

三十分ほどで到着。

中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を除くクーデター計画を「談じた山」にある。
「大化の改新」と呼ばれるようになる政体変革のスタート。
冒頭の十三重の塔は鎌足の息子たち(長男・定慧、次男・不比等)が678年に建立。現在のものは1532年の再建。※解説リーフレットより。

立派な石垣の名残があった。
以前は現在以上の建物群があったのだろう。

権禰宜の土居さんに迎えていただいた。
丁寧に案内していただけたおかげでこの場所の意味が何倍も理解できました。ありがとうございます。

↑「蹴鞠の庭」から十三重の塔が見える。ここでは今も4/29と11/3に蹴鞠が行われている。
中大兄皇子が蹴鞠で靴を脱ぎ飛ばしてしまい、鎌足がそれを拾ったのが二人の出会い。
他日、この山でクーデター計画を談じたということ。

「神廟拝所」は塔に向かっている。配置図をみると塔の後ろの山に鎌足公の墓所がある。
↓左には総社拝殿(江戸時代)があり、

↑その後ろに総社本殿(最初のものは平安時代・延長四年(九二六))が位置している。

一見、何気ない古びた建物だがよく見ると優雅な木彫がほどこされている↑かつて鮮やかに彩色されていた名残がある。
この建物は「寛文八年(一六六八)造替の談山神社本殿を、寛保二年(一七四二)に移築したものである。」※公式HPより

↑神殿拝所へご案内いただくと

↑はっきり寺院的な空気が感じられた。
明治の廃仏毀釈までここは妙楽寺(みょうらくじ)だった。

正面のパネルには洞窟で修業する仏教僧とおぼしき絵がたくさん画かれている↑
天女も飛んでいる
「この壁は廃仏毀釈により、しっくいで塗り込められていたのです」
藤原鎌足公が国を護るためにおわすこの場所は、神社でも寺でもある。どちらかである必要もない。
なので、廃仏毀釈の影響は比較的小さかったそうだが、それでも無傷ではすまなかったのである。
さらにおもしろかったのは、仏教寺院になる以前にはこのパネルは存在せず、そのまま十三重の塔を鎌足公の神廟として拝むことができた、ということ。
室生寺で見た如意輪観音像に似た姿の秘仏が厨子の中に安置されている↑

二体の狛犬は運慶作と伝えられている。

神殿拝所から出て石段を上がると↓さらに山に至る道がある↓

御破裂山(ごはれつやま)とは何?
「国家に大事が起きる時、山が鳴動する『御破裂』が起き、鎌足公の神像に亀裂が入るんです」
「御破裂」はこれまで三十回以上、最後の御破裂は慶長12年(1607年)。
鎌足公の神像は公開されていないが、

御前立というか、さっきそのお姿を垣間見た。
実際に亀裂が入っているのだそうだ。

十三重の塔の下に至る。
高さ十七メートルだがそれ以上の存在感。
内部内部は空洞で芯柱が振り子のように貫通し免震構造になっている。
現代の建築技術をもってしても難しい建築だとか。

本殿へのゆるい階段に花吹雪が散る。
桜は終わり、雨の落ちてきそうな空模様。
それでも、今日ここに来られてよかったと思わせてくれる。

↑本殿の西の宝物庫_校倉造りで元和五年(1619)造営※公式HPより

↑本殿前の拝殿は、朱塗舞台造拝殿は永正十七 年(1520)の造営※公式HPより
舞台のようにぐるりと本殿を囲んでいる。

釣灯籠がよく似合う

広々とした拝殿内部↑本殿に向かう折上格子天井はなんと↑伽羅の香木でつくられている。

ここに鎌足公のお像が安置されているのか。
↑本殿は日光東照宮造営のモデルになったとか。
さきほど見た総社本殿はもともとここにあったのを移築した。

↑拝殿では談山神社ゆかりの品々が多く展示されている。
十月の嘉吉祭で使われる「米御供(こめごく)=和稲(ねぎしね)」に驚いた↑
彩色したもち米の粒をひとつひとつ円筒形に積み重ねてある↑
「四十二粒でひとまわりなのですが、それぞれの段で設計図というか順番があるのです」

↑こちらは銀杏と零余子(むかご)の塔↑
「御神体の帰座を喜んだ一山の人々が多武峰の秋の収穫物をととのえて供えた神饌を百味の御食といいます」※公式HPより
なるほど、地域の人々がせいいっぱい喜びを表すために奉納したものだったのか。今も続けられているこのお祭りを訪ねてみたくなった。
●嘉吉祭(かきつさい)~奈良観光公式サイトより
南北朝合一ののち永享7年(1435)、南朝の遺臣が多武峰に拠って兵を起こしたため、同10年(1438)8月、足利幕府の大軍がこれを攻め、兵火によって一山が焼失しました。 この兵火を避けて御神体を一時、飛鳥の橘寺に遷座しましたが、3年後の嘉吉元年(1441)9月にもとの多武峰に帰座しました。 寛正6年には勅使が派遣され、嘉吉元年の御神体奉還の日をもって祭が営まれることになりました。そのために祭の名も嘉吉祭となりました。

↑嘉吉祭で先導役と務める室町時代の人形↑


↑蹴鞠の実物
他にも興味深いものがたくさんあったけれど、また別の機会に(^.^)


本殿拝殿を東に出ると↑東の宝物庫がある↑西と同様の校倉造↑
↑その前にカリンの木が植えられてる↑鎌足の長男・定慧は遣から薬になる木を持ち帰ったが、カリンもそれだと推察されている。当時のこの「寺」=妙楽寺は独自に遣唐使船を一艘仕立てられるほど財力があったのだそうだ。


↑江戸時代の「春日社」の彫刻が見事だったそうだが、ちょうど解体修復のタイミングで礎石だけだった↑
↑左に、神様の仮のお堂が建てられていた↑

秋の嘉吉祭、訪れてみたいものです。
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《手造の旅》奈良桜井~長谷寺

2022-04-14 16:36:53 | 国内
「実物大掛け軸」のデジタル複製が本坊大講堂で公開されていた↑
10mを超える長谷寺のご本尊・十一面観音像。
掛け軸は16.5mの大きさである。

↑今回、ご本尊の足に触れていただける特別公開期間中
↑入口右の写真のように身長10メートルを超える驚きのの大きさ↑
「奈良時代より七度の焼失・復興を繰り返し、現在の像は、室町時代の天文七年(1538年)に仏師運宗、運海らによって造られたことが、頭部内面から発見された墨書よりわかっている。(桜井市のHPの解説より)」

ホンモノの「実物大掛け軸」は、
焼けたご本尊を復興する際の実物大図面だったと考えられている。
さらに完成後、
持ち出せないご本尊に代わり出開帳していた。

凸版印刷が協力してこのデジタル版が完成したのは昨年2021年。
ホンモノの軸は老朽化して顔を上げてかけることもできないそうだ。
※2018年のホンモノ公開の新聞記事にリンクします

↓鎌倉時代の「長谷寺縁起絵巻」のデジタル複製も展示されていた。
↓解説がとっても分かりやすい

↑菅原道真が霊夢をみて書きはじめるところからはじまる。

吉野金峰山寺に祀られている蔵王権現が虹の橋を渡ってこの地にやってくる↑
※金峰山寺蔵王権現についてかかれたページにリンクします

↑この長谷寺を創設した道明上人のお墓は、入口を入って回廊をのぼりはじめてすぐのところにあった↓

↓複製だからぜいたくにも全部開いてずらっと展示され、

↑間近に読み進むことができる。

↑道明の弟子の徳道が最初の巨大十一面観音像製作を指揮した人物だった。

↑霊木が引かれていくシーン

完成した巨大観音像↑
マンガのように登場人物に吹き出しをつけて語らせる手法、この手の展示ではじめて見た。
長谷寺にはそうとう頭のやわらかい人がおられるのでしょうね(^.^)
**
飾られている絵も、解説がないと分からない↓

↑このカラスは何を咥えているの?
紙芝居のように絵で語ってくれると分かりやすい、
今回の旅のガイドMさんもよく理解されていて、
このカラスの話を画いてくださっていた↓※長谷寺のHPからも引用

平安時代、春日社の社司・中臣信清(なかとみののぶきよ)という人物の息子に、
「蛇目丁(じゃがんちょう)」という、できれば七日で死んでしまう瘡(「かさ」=できもの)ができた。
春日の神に神託をあおぐと、
神は傍にいた巫女に憑依して語り、
葉が二つ付いた榊(さかき)の枝を巫女の口の中から取り出して信清に持たせた。
信清は榊を持って長谷寺の仏前へ捧げ、昼夜祈りはじめる。
と、一羽のカラスがそれを咥えて飛び去ってしまった↑それが上の絵

六日が経ち瀕死の息子を囲んで悲嘆にくれているとカラスがやってきた。
「蛇目丁」をつつき・中から出てきた蛇を咥えて飛び去った↑
息子は平癒し、喜んだ信清は長谷寺に屋根付きの登り廊を寄進した。
それが二枚目の絵。
↑カラスは息子の命を脅かしていた蛇を咥えていたのか↑

↑今に続く有名な登り廊は、
長谷寺が派遣したカラスに息子の命を救われた中臣信清が寄進したのがはじまりだったのである。


本堂には横からしか入れない。

↑正面は絶景の「舞台」になっているから。

↑舞台にて、360度カメラで撮影↑

↑少し降りて、本坊大講堂から「舞台」を見たところ。
本坊大講堂で、冒頭の「実物大掛け軸」と「長谷寺縁起」のデジタル複製が公開されている。

長谷寺、まだまだ興味深いお話がある古刹です(^.^)




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《手造の旅》奈良桜井~宇陀の本葛、薬草料理

2022-04-14 14:25:19 | 国内
「昭和天皇が最後に口にされたのがここの葛湯だったようです」

葛は万葉の時代からの薬草で、かつては多くの地方でつくられていたが、今は全国でたった五軒。
そのうち三軒が奈良にある。
宇陀はそのうち二軒の江戸時代からの老舗が今も営業している。

それにしても…宇陀でつくっているのになぜ「吉野葛」なのでしょう?
★「吉野葛は、吉野の桜見物のお客様に葛のお菓子をたくさん販売していました。」「寒い時期に水に晒すことを吉野晒しと言います。」
「こちら森野さんも元々吉野で南朝に仕えていたと伝えられ、宇陀の水と寒冷な気候が葛作りに良いということで移って来られたのです」


なるほど、今は宇陀でしか製造していなくても「吉野葛」なのですね。
それにしても南北朝時代までさかのぼるお家とは。

買う時は「本葛」にしましょう↑
でないと、イモやらなんやら他のでんぷんが混ぜられているのだそうだ。

↑これと合せて高級胡麻豆腐ができるそうな
店舗はこぶりだが、裏の元工場が大きい↓

葛の根っこがたてかけられている。これを削って溶かして沈殿させて…粉にするのか

敷設された資料館には森野家が代々継いできた薬草への取り組みが解説されている。

特に十一代目の森野通貞がこの地で薬草研究をしていたのが幕府にみとめられた。
徳川吉宗はそれまで輸入だった高級漢方薬の国産化を命じ、材料の探索をするお役を与えられた。

↑裏山は日本中から集められた薬草の見本市のような場所である。
ちゃんと効能が書かれている(^.^)

クロモジって、養命酒の大事な成分だった
※1月に諏訪を訪れた時のブログにリンクします


↑幕府から下された最初の六品種↓

ここまで登ると

↑宇陀の瓦屋根が一望できる↑左下あたりに↑先ほど見た吉野葛の沈殿槽が見える↑

↑近くから見た沈殿槽がこれ↑

織田家の家紋がついた橋を渡り、
大願寺さんの「薬草料理」をいただきに


★薬草料理

↑右上
・吉野本葛をつかった胡麻豆腐
左へ
・ごぼう、にんじん、いたどりの炒め煮
・白あえ
○丸い器の五種は
・市松模様の羊羹はかぼちゃとトマト
・酵素玄米
・味噌田楽
・キンカンの中に黒豆を入れた「翡翠寄せ」
真ん中は・ごぼう
○下の横長の皿左から
・菊花、紅花、ヤブカンゾウの葉の酢のもの
・大豆をつかって肉そっくりにしたもの
・キクイモ?
・レンコン
・金針菜、クコの実
小松がうまく説明できないものもありますがご容赦ください

↑大豆の肉はたしかにお肉みたいだった

本葛の刺身!
「出されたらすぐ食べてくださいね(^.^)」
なるほど、食感がだいじなんですね。

・飛龍頭のあんかけ
※「ひろうす」はどこからきたにリンクします

ヨモギ、こごみ、ハッカ、カンゾウ、ユキノシタ、
そして甘いのはナツメだった↑
↑これだけ植物の個性がわかる天ぷらもめずらしい

↑イカ墨リゾットみたいに真っ黒なのは(笑)
・もち米の古代米
うるち米の古代米が赤米なのだそうだ。

左・ドクダミのシャーベット
右は甘酒!米の味わいがありました
箸袋の裏に書かれているメニューから季節によって変更されているものも多いし、どれがどれかはいちいち質問しないとわからない。名前だけきいても分からないものも多いのですが、しつこく訊いてすみません。

あ、天女が「大和ハープ」で「さくら さくら」を演奏してくださいました(^.^)
※「まほろば会」ガイドの松浦さんです(^.^)たいへんお世話になりました


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《手造の旅》奈良桜井~「又兵衛桜」と宇陀「薬の館」、「きみごろも」

2022-04-14 10:24:35 | 国内
「又兵衛桜」の盛りは先週だった。行ってもしかたないかとおもったが、近くまで来て遠望するとなにやら風情を感じる。交通規制は終わっていたのでドライバーさんが近くまで行ってくれた。
※その時の話をこちらに載せました



「黒門」から宇陀を歩きはじめる。この門は江戸時代からこの場所にある。

宇陀松山城と宇陀川の間に発展した城下町だった。
関ヶ原後に福島正則の弟・福島高晴が城主となったが、大坂夏の陣で敵方に内通した嫌疑をかけられ改易。
城はとりこわされた。これにより「城下」ではなくなったが街は栄え続ける。

まっすぐ見通せない道。
織田信長の次男が次の藩主として入ったが、四代目が事件を起こし廃藩⇒幕府直轄領となった。
織田四代の墓は今もあるそうな。
※その話がこのサイトに載っています
万葉の昔から薬の街で、江戸時代最盛期には五十三軒もの薬屋が軒をつらねていた。
全国から商人が行き交う場所だったので、あらゆる宗派の寺院があるのだそうだ。

↑植田家は木材商いの問屋だった↑奈良は木材の産地でもある。

↑明治になってできたこのモダンなビルは、表面だけ残して一般家屋に改築されているが…

↑かつては郵便局だったのですね(^^)


↑★「薬の館」は旧細川家が薬を商っていた場所↑今も看板が残っている。

中の見学をしていると、古い写真にまったく同じ看板が写っていた。
明治四十年(1907)に細川家にお嫁さんがやってきた時の写真だそうだ。
時代の熱気が写真の中に閉じ込められている。

入ってすぐのところに受付のような場所↑
下のほうに右から「くびよりうえのくすり」と書かれているが、これはいったいなに?

↑なんと、便秘の薬!↑このパッケージで今でも販売しるのだと、係員の人がおしえてくれた。

玄関先にもあったヒゲ面の大男はだれ?↓

↑「鍾馗様です」なるほどぉ
身体に「樟脳」と書かれているのを見て、昨年十二月に訪れた屋久島の樟脳工房をおもいだした。
※その日のブログにリンクします、後半に樟脳工房がでてきます
樟脳はクスノキから抽出される防虫剤として知られ(もっと多様な用途はあるが)、薬屋で扱われていたのだ。
そこで、悪い空気=瘴気を取り除いてくれる守り神として、おなじ発音の鍾馗をシンボルマークに使っているのである。
語呂合わせ大好き日本人(^^)

ありとあらゆる薬の看板がコレクションされている

↑街を歩いている時に解説していただいたこの看板は何の薬?
※こちらに書きました
★この「薬の館」についてはとても書ききれません…別の機会にまたとりあげます

「『きみごろも』というお菓子がありますよ」

薬じゃなくて、今楽しめるモノもある(^^)
下見の時から気になっていたのだが、今日はガイドさんのご主人が買ってとどけてくださった。

↑え?洋風?メレンゲのふんわり感は見た目とまったくちがう。
和菓子の売られ方だが、味はじゅうぶん今風で洋菓子的ではないかしらん。

その日のうちに食べないといけないので域外にはなかなか出ていけないが
それでよいとおもう。
大きな工場をつくって、日持ちするように加工されてしまったら、本来の「きみごろも」ではなくなってしまうのではないかしらん。

味わえてよかった!(^^)
※「きみごろも」のページにりんくします

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