旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

メトロポリタン美術館別館ザ・クロイスターズ

2021-05-30 11:30:48 | アメリカ東部
2006アメリカ東海岸の旅よりマンハッタン島のいちばん北にこんな「修道院」があるとは

いや、これはメトロポリタン美術館の別館「クロイスターズ=修道院の回廊中庭」。

20世紀の初めごろ、困窮して朽ちようとしていた南仏からスペインにかけての修道院四か所を買い取り、そこから運ばせたコレクションがここに再構成されている。
↑この塔は南仏とスペインにある修道院の塔をモデルにしている

↑なるほど似ている。
これら廃墟となっていた修道院から運ばれたモノをメインに収蔵しているのだ。

集めたのはGeorgy Grey Barnard(1863-1938)という彫刻家。
ロックフェラーJr.は1917年に取得していた土地を、1935年からこれらの修道院コレクションを再現するために使う事にしたのだ。

こういった柱頭の彫刻は、これだけを展示しても修道院の回廊を見たことのない多くのアメリカ人たちには理解できない。
それでこれだけ大掛かりな再現展示をしたのだ。

中世ロマネスクの彫刻は↑それが何を表しているのかよくわかっていないものも多いが、後のルネサンスの優美さとは違う魅力がある。

↑上の写真の回廊は柱はホンモノだが回廊はそれに合わせて場所を再現してある。
これは建設当時のモノクロ写真。
★こちら美術館のサイト内にある動画リンクで、ロックフェラーがどのようにこの土地を手に入れ(02:50あたりから)、修道院がもともとどのような場所にあったのか(12:45あたりから)、詳しく解説されています。


↑ここも展示室だが↑1175-1200年ごろのロマネスク様式の教会そのもの↑
スペインはマドリッドの北150㎞ほどのフエンティドゥエーニャにあった教会をそっくり解体し、
三千三百個のパーツをここでまた組みなおした。
だから「ホンモノ」と言ってよいかもしれない。

壁に直接えがかれたフレスコ画は↑こんなふうに壁ごと切り取って博物館に置かれることがおおい↑

↑こちらはゴシック様式の礼拝堂↑窓はフランスのものだが、
他に南オーストリアやスペインから同じ十四世紀の礼拝堂からもってきたものを組み合わせてひとつにしている。
***

ロックフェラーJr.がばらばらになっていたシリーズを買って同時にみられるようにしたという「ユニコーン・タピスリー」。
※パリにある「一角獣と貴婦人」を思い出す
15世紀半ばから16世紀に製作されたものと推察されている。


スペインの教会の向こうにハドソン川が流れている↑

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マイルス・デイヴィス、野口英世などが眠る~ウッドローン墓地

2021-05-29 06:41:20 | アメリカ東部
2006年アメリカ東海岸の旅よりマンハッタンの北、ブロンクスにある広大なウッドローン墓地。

ジャズの音楽家たちの墓があつまっている一角。

●イリノイ・ジャケーはマイルスより四歳年上なだけなのに、その熱くブロウするスタイルはずいぶん古典的に聴こえる。

ジャズ・ミュージシャンの墓がこのあたりに集まることになったのは●デューク・エリントンの近くだからではないかしらん。
本人の墓は一族の中に、ごくシンプルにプレートだけがおかれている↑

1863年から現在まで三十万人が埋葬されている。

ぱっと見て↑エジプトのフィラエ島にある「トラヤヌス帝のキオスク」そっくり
←2006年小松撮影
調べてみると、この墓は●Jules Bache1861-1944という人物のものだった。
ユダヤ系で十代から株の仲買人として働きはじめ、メリル・リンチに次ぐ資産を築いた。
その資産で数多くのヨーロッパ古典絵画を買い集め、それらは今NYのメトロポリタンとシカゴの目玉となっている。
自分の墓は1916年からデザインをはじめたのだそうな。
エジプトの旅でずいぶん印象に残ったのでしょう。

●野口英世1876-1928はロックフェラー財団の後援によってアフリカで黄熱病研究をしている時に亡くなった。

遺体はロックフェラーの指示によりアメリカに飛行機で移送され、ここに葬られた。

2018年にメキシコのメリダでも野口英世の像をみたっけ※こちらからごらんください

●高峰譲吉1854-1922

富山・高岡の出身でタカジアスターゼ、アドレナリンの発見者。
現第一三共製薬、元三共製薬の初代社長。
野口より二十歳以上年長だが共に在米日本人の地位向上のために尽力していた。
NYの「さくらパーク」はロックフェラーが土地を提供し、高峰譲吉らの日本人倶楽部が協力した。

廟の中には富士山と桜のステンドグラスが飾られていた。
故国から遠く離れたて生きた人ほど、ずっと故国を心にかけているのである。


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アッパーマンハッタンをめぐるり、ハーレムの音楽ミサに出席

2021-05-28 09:47:36 | アメリカ東部
2006年、アメリカ東海岸の旅より

セントラルパークの「ストロベリー・フィールズ」↑

すぐ近くにジョン・レノンが住んだダコタ・ハウス↑彼が撃たれた入口付近。
72丁目にあるこのマンションは1884年に完成した当時、アメリカの「ダコタ準州」みたいに遠いからその名前になったとか。
★マンハッタン島は南端のバッテリーパークからはじまり北上すると○○丁目の数字が増えていく。
ダコタ・ハウスはまだセントラル・パークの西側。
セントラル・パークが終わる110丁目からハーレムと呼ばれる地区。

ハーレムの中心は1860年に開業した「アポロ・シアター」↑のある125丁目↑現在のハコは1913年。
エラ・フィッツジェラルド、ジェームズ・ブラウン、マイケル・ジャクソンもここからキャリアをはじめた「アマチュア・ナイト」は水曜日に開催される。

かつては治安が悪くて、アポロ・シアターのショーを観に行くツアーバスに銃弾が撃たれたことまであったそうだが、今はそんな雰囲気は消え去った。

日曜日の朝、ポップ・アートの絵描きさんが店を出していた。
奥さんは日本人。観光客が買ってくれたTシャツにサイン(^.^)
**

↑CCNY=ニューヨーク・シティ・カレッジは1847年に開校した名門大学↑この建物は1906年。大学がダウンタウン(23丁目)からこの130-140丁目に移転した時に建設された。

学費無料ではじまりユダヤ人子弟やヒスパニックや黒人、アジア人の方が白人よりも多い。
ハーバードなどのアイビーリーグに対抗する存在。
創立者は初代日本公使を務めたタウンゼント・ハリス。


初代財務長官ハミルトンの家↑はもともとここにあったのではなくトレーラーで家ごとここに運んでこられた。

←ハミルトンはこの10ドル札の人物

マンハッタン島の北部、モリス・マウントと呼ばれた高台のこの家はイギリスと大陸植民地軍双方が使った家。

モリソンージュメル・マンションが建てられたのはまだ英国領だった1765年。
当時住んでいたのはロジャー・モリス大佐とその家族。
135エーカーの敷地がハドソン川まで続く農園だった。
1776年9月、後にアメリカ建国へと導く反乱が起きてモリスは退去し、代わってワシントンがここを大陸植民地軍の司令部にした。
9月16日襲ってきたイギリス軍五千人に対し千八百人の大陸軍が勝利。

↑上の古地図でいちばん右にワシントン、モリスの名前とこの家が画かれている。

ハーレム川を渡り、ブロンクス地区のヤンキースタジアムへ

ちょうど松井がヤンキースで活躍していた時代だった。

**
117丁目のハーレムまで戻り、教会ミサに出席しよう。

劇場のような建物。観光客や白人は二階席へ

下の階はすでに信徒たちが着席し、軽く演奏がはじまっている。

牧師の他に、タンバリンを持った女性が歩き回って鼓舞している。

イントロ?の説教と音楽がもりあがり…

白づくめのコーラス隊が入場!

厚い歌声がいっきにホールを満たす。
観客も立ち上がり、いっしよに歌っている。
※ごいっしょした方にいただいた動画をこちらからご覧ください

二階の我々観光客も総立ち!
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ボストンをもう少しみてからアムトラックでNYCへ

2021-05-26 22:48:23 | アメリカ東部
2006年アメリカ東海岸の旅より

ブルックリン側のレストランからイーストリバー越しに見るNYCマンハッタンの夜景。

朝、NYC行き列車アムトラックに乗る前にボストンをもう少し見学。

「クリスチャンサイエンス」は1879年にメアリー・ベイカー・エディという女性によってはじめられたキリスト教の宗派。彼女の著作は今も読まれ続けている。

ロビーで紹介されていた1850年ごろ撮影された彼女の写真。
当時のダゲレオタイプ=銀板写真に彩色し、服の部分は本物のビロードを張り付けて加工したそうだ。

ボストンを中心に世界・日本にもネットワークを拡げ、教会のよれば世界中で四十万人の信徒をもつそうな。

同名の新聞も発行している↑ちょうどイラクから解放されたアメリカ人の記事の日だった。

**
ボストンで一番の個人コレクション美術館(と思う)イザベラ・ガードナーも訪れた※内部撮影禁止

オーナーが作品の展示まで細かく指示する遺言を残してあるので、おいそれと環境を変えられない。
1990年に強奪されたフェルメールの「合奏」とレンブラント三点の場所には空になった額だけが飾られていた。
***
ボストン駅

アムトラックの車内は新幹線とはだいぶちがうけれどゆったりしている。

スーツケースはポーターさんがこんなふうに積んでくれた。


マンハッタンが近づく

ペンシルヴァニア駅の地下ホームに到着。
お迎えのガイドさんがポーターさんを待たせてくれていた。

ローワー・マンハッタンをドライブ

「フラット・アイロン・ビル」はその名前のとおりとっても平たい。

イーストリバーを渡り、ブルックリンのレストランへ。
ウィリアムズバーグ橋のすぐ下にあるレストランに入った時にはまだ明るかった↑

大きな店だがいっぱいの店内。


ステーキが人気の[Giando on the Water]

夕食後にレストラン前の桟橋を散歩。
イーストリバーには現在十本もの橋がかかっていて夜景スポットがたくさんある。
「もうひとつ見たい」と、1883年最初にかけられたブルックリン橋のたもとへ車で移動。

ぱっと見同じようにみえるがこれは↑ブルックリン橋からマンハッタン橋をみたところ↑
ブルックリン橋の二十年後・1903年に前出の夕食レストランGiando側ウィリアムズバーグ橋がかけられた。
****
夜景めぐりはまだ続く

エンパイアステートビルの上まであがることにした。

マンハッタンは碁盤の目状にまっすぐな道が整然と敷かれているので

上からみると光の筋が美しい

↑印象的なアールデコの尖塔はクライスラービル↑1928年建設の319m
眺め降ろしているこのエンパイアステートビルはその二年後の1931年完成381m
映画でキングコングが登ったのは1933年

ニューヨークに到着した午後をめいっぱい楽しんで、ペンシルヴァニア駅近くのホテルに戻った。

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2006ボストン・ポップスのコンサートへ

2021-05-24 07:39:40 | アメリカ東部
2006アメリカ東海岸の旅より

これまで観てきたなかでも指折りの楽しいコンサートだった。

1885年にはじまったボストン・ポップスは、「クラシック嫌いのためのコンサートを」というコンセプト。

ヨーロッパからの移民してきた人々は富裕層であってもクラシック音楽に親しんでいない人が多かった。
上の↑LPレコード「クラシック嫌いのためのクラシック音楽」のジャケットでは、ウィーン歌劇場の指揮者だったグスタフ・マーラーを思い出させる人物がタクトを振り、観客はカギ付きの椅子に縛られて身動きできない↑ これはボストン・ポップスの伝説的指揮者だったアーサー・フィドラー時代の作品。彼は1930‐79の四十九年間も首席指揮者を務めた。
マーラーはクラシック音楽の演奏会を飲食禁止にし、会場でのおしゃべりを禁止にし、「堅苦しい(と、思うかもしれない人は多いだろう)」スタイルに改革した。ちょっとした皮肉が込められたジャケットだ。
午後八時開演の会場。

指定された席にいくと丸テーブルにワインが置かれていた↑「当然飲むでしょ」という感じ(^^)

「やあ、どちらから?」小さな丸テーブルで同席になると、アジア人の我々にも気さくにはなしかけてくれるアメリカの人々。ウィーンのコンサートでこういう雰囲気になるかしらん。

コンサートがはじまるとステージにスクリーンが降りてきて、ボストンの名所が映し出される。

アメリカの歴史が誇らしげに語られ、ちなんだ曲が演奏される。


インターバル

フィドラーの跡を継いで1995年から現在2021まで人気指揮者でありつづけているキース・ロックハート。

演奏者は男女民族関係なく選ばれているのが感じられる。
ウィーンフィルとはだいぶんちがいます。

後半は映画音楽特集だった。

ロンドンが舞台の「マイ・フェア・レディ」もアメリカ映画。
一時常任指揮者だったジョーン・ウィリアムズの「JAWS」もやったっけ。

アンコールの定番曲は「星条旗よ永遠なれ」

天井から星条旗が降りてきてアメリカ人の愛国心は最高潮!
さらに、花火があがると、たまらずみんな立ち上がった(^^)
サーチライトが客席をぐるぐる照らし回る
※客席からのものをゆずっていただいたのでこちらのyoutubeからご覧ください※音ができます

動画を観て・聴いてもらうとわかるが、これはウィーンフィルのニューイヤーコンサートのアンコール曲「ラデツキー行進曲」を意識している。観客が拍手する様子、よく似ております(^^)

夜十時をだいぶまわってコンサートは終了。
ホテルを徒歩圏にしておいてほんとによかった(^^)
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