旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

カリフォルニアに残るスペイン~「セラ礼拝堂」バルセロナでつくられた祭壇

2023-06-10 12:04:14 | アメリカ西部
ミッション・サン・ファン・カピストラーノ②
※①はこちらからお読みください
「バルセロナでつくったものを解体して、船で運んできたものです」
礼拝堂のガイドさんが誇らしげに言う。
1776年、アメリカ合衆国建国と同じ年にフニペロ・セラが開設したミッション教会サン・ファン・カピストラーノ。
三年後には現在と同じような礼拝堂が完成していたと思われる。

カリフォルニアに残るもっとも古い礼拝堂。

↑中央に立つ赤い旗を持っている人物が
★聖者ファン・カピストラーノ=(イタリア人だからほんとうはジョヴァンニ・ダ・カピストラーノ)
1385年にイタリアのカピストラーノで生まれた。
ペルージア大学で法学を学び、ナポリで弁護士をしていた。
ナポリ王からペルージアの総督に任じられるほど信任を得たが、
近隣国との抗争で牢に入れられ、出てきたときには人が変わっていた。
俗世を捨て、フランチェスコ会に入信する。
説教の名手で、現在のロシアにまで布教活動をしていた。
1456年七十歳の高齢にもかかわらず、
オスマン・トルコによるベオグラード包囲を「十字軍」を率いて解放したと伝わる。
赤い旗を持つのはその時の姿をあらわしている。
スペイン人ローマ法皇カリストゥス3世に仕えていたので
スペインで人気があったのだろう。

セラ神父がこの場所にファン・カピストラーノの名前を選んだのは
未開の地の布教活動に積極的だったところに共感したのかもしれない。

セラ神父が先住民を「導く」姿は多くの像になっている。

「こんな人だったのですか」と訊ねると
「ほんとの肖像画は残っていないのよ」と冒頭のガイドさん。

↓細長い礼拝堂の土壁に見えるガタガタの線を指さして

「ここから先は継ぎ足したの」と言われた。
最初、なにを言っているのかわからなかったが、
歴史的な経緯をたどると見えてきた。

ミッション教会ができた当初は「継ぎ足す」前の小さな礼拝堂しかなかった。
集う人数もすくなかったから間に合ったのだろう。
三十年後の1797年、(今は廃墟になっている)巨大な教会の建設がスタートした。
巨大教会は1806年に完成したが、わずか六年後に大地震で倒壊。
古いこの礼拝堂でのミサをするしかなくなったが、
人数を収容するために「継ぎ足す」=増築したということだろう。
↑入口上に見えるパイプオルガンはいつごろのものかしらん。


ばらばらにして運ばれてきた「バルセロナでつくられた」祭壇↑ここで組みなおしてみると実は大きすぎて入らなかった↑
たしかに壁いっぱいだ↑入らなくてどうしたのか?
祭壇の一部をあきらめた?
なんと壁の方を一度壊して押し込んだ↑
↑左の壁にある説教壇もその時持ち込まれたもの?別の場所のもの?わかりません。

小松は最初
この礼拝堂を「押し込んだ」のは19世紀前半だと思った。
1812年の大地震で倒壊した大聖堂にあったものを古い小さな礼拝堂に「押し込んだ」のだと。

しかし、資料をよく読んでみると
「1922年、LA大司教区から350年の歴史ある祭壇を寄贈された」と書かれていた。
それは祭壇のカタチをしたものではなく、396の破片が10個の箱に分解されて入ったもので、
三ヶ月かけて復元してみると幅5.63m×6.7mになり、
当時のセラ礼拝堂に入らないと分かった。

・・・このバラバラで保管されていた祭壇が
1812年に倒壊した大聖堂にあったものかは、わからない。
次に訪れる8月に現地で質問してみようと思う。

**
塀の外にでると、21世紀のカリフォルニア。

スペイン領・メキシコ領だった18,19世紀の夢から覚めたようだ。

百メートルほど離れて、1985年に完成した現在の大聖堂がある。
↓アナハイムからの列車が、駅に到着する直前に見えたオレンジ色のドームだ↓

入口に掲げられた紋章は↓

↑現ローマ法皇フランシスコのもの。
↑彼は史上初のイエズス会出身法皇↑
ミッション教会サン・ファン・カピストラーノがフランチェスコ派によって設立される以前、
このあたりはイエズス会が布教活動を行っていたが
スペイン王カルロス三世のイエズス会追放政策によってフランチェスコ派にとってかわられた。
ちょっと皮肉な気がする。

重い扉を開くと

カソリックにしてはシンプルで白い空間がひろがる。

↑入ってすぐに大きな洗礼盤があるのはカトリックらしいけれど。

↑突き当りに見える金色の祭壇は、さっきセラ礼拝堂で見た祭壇を思い出させる↑
こちらの上段中心にあるのは十字架上のキリスト。
セラ礼拝堂では下にあった磔刑図とよく似ている※冒頭の写真と比べてみてください
下段にはメキシコで超人気の聖地となっている「グアダルーペの聖母」の絵。
※2018年「グアダルーペの聖母」を安置するメキシコシティの教会を訪れたブログにリンクします
形状は似せているが登場させている人物はちがう。


紫色の「南半球の桜」=ジャカランダの花が盛り

18世紀末のセラ神父も見ていただろうか。

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カリフォルニアに残るスペイン~ミッション・サン・ファン・カピストラーノ①

2023-06-10 11:09:39 | アメリカ西部
スペインの遺跡を見るようだ。

いや、実際にここはスペイン領だった。
1776年創立の「ミッション(訳せば【使命】)教会」。
ロサンゼルスにもこんな場所がある。

アナハイムに二泊する中日。
エンジェルス戦がはじまるまでの日中に、列車で観光に行くことにした↓

アナハイム駅は印象的な建物

やってきたのは二階建てのごっつい車両

時刻表より10分ほど遅れだが、メトロリンクは一日五本ほどしかないからそんなに問題ないのだろう(^^)

四十分ほどの乗車時間。座席は自由。

↑係留気球がオレンジ?↑巨大なEV車・トレーラーハウスのようなヤツの駐車場。

南欧風の建物が多くなる。
サンディエゴに近いサン・ファン・カピストラーノで下車。

↑駅に着く直前に現在の大聖堂が見えた。後でいってみよう↑ ※冒頭写真は19世紀の大聖堂が地震で倒壊した跡

駅のすぐ近くに「旧市街」がある。

車社会になる前は、アメリカも駅の周りこそが栄えていたのである。

五分も歩かず、冒頭のミッション教会「サン・ファン・カピストラーノ」が見えてくる。



よく整備されて、入場料を取る施設になっている。

入ると世界は一変。

1812年の大地震で倒壊した巨大な教会を背景によく整備された庭がひろがる。

↑倒壊する前の大聖堂の姿が↑写真右下の模型で示されている↑
ヨーロッパのロマネスク聖堂とおなじ石組みアーチ式で組み上げられていたのだ。

↑残された断面を見ると↑ヨーロッパでは中世に用いられたロマネスクのアーチのうえに、石を積んで平たい屋根を出現させている。だいぶん重たい天井だったのだろうと想像される。


1776年にスタートした布教活動は成果をあげ、
三十年後にはこの敷地に十七の建物が並んでいた記録がある。
1797年、増え続ける信者のために新たに大きな教会が建設されることになった。
資料によると1500人もの地元信徒(ネイティブ・アメリカンやクリオーリョ)たちが住んでいた。

大聖堂はそれまであった「セラ礼拝堂(後述)」に代わった。
だが、この「大聖堂」が存在できたのはわずか6年間だった。
1812年12月8日の朝、マグニチュード7超と推定される地震が襲い
↓40人の先住民キリスト教者が犠牲になった。
↓彼らの名前が記されている

↑先住民としての名前のあとに洗礼後のキリスト教者としての名前が併記されている。

↑先住民たちに西洋の楽器を教える修道士の図↑
ここを拓いたフニペロ・セラは子供の頃マヨルカ島で教会合唱団に所属していたんだっけ。
「未開の」人々を導く使命を信じていた修道士たちは、西欧の生活を実践してゆく。
先住民たちは否応なくそこに巻き込まれていっただろう。

家畜はそれぞれのミッション教会の焼き印を入れて管理された



↑獣脂を煮て、ロウソクや石鹸をつくった↑

鉄は貴重だったので溶かして再利用する炉をつくった。

キリスト教に欠かせないワインも自家生産しようと1779年にメキシコ副王から送ってもらい、はじめてのカリフォルニアワインが生産された。


その後途絶えたワインづくりは2004年に復活している↑

カソリック大国スペインの力を背景にして発展していたミッション教会
ところが
1821年にメキシコ革命が成功すると…

スペイン政府の建設したミッション教会はすべて「世俗化」され、土地や建物は売られた。
協力的だった先住民たちは離れていき、せっかく機能していた修道院の「工場」は、
メキシコ政府から派遣された役人たちの失政によって荒廃していった。

↑展示されていた1876年の写真~つまり最初にミッション教会が設立されて百年後↑
倒壊したまま半世紀以上放置された大聖堂と、
今も残るアーチが写っている。

アーチの一角に、
大聖堂が建設の1806年以前に建設された「セラ礼拝堂」があった↓

1776年にこのミッション教会をたちあげたフニペロ・セラ自身ここで祈ったという、
カリフォルニアに残るもっとも古い礼拝堂とされている。

・・・②に続く





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2023年大谷選手の17号 マリナーズ戦登板

2023-06-09 19:05:58 | アメリカ西部
その瞬間球場は総立ち!↑※左上にボールが写ってます(^^)

初回に打たれたツーランを自ら帳消しにする同点ホームラン!
直後の三塁側スタンドの動画をこちらに載せました
※試合内容はこちらの頁からごらんください


今日のマリナーズ戦は午後6時38開始とHPに書かれている。どうしてこんな中途半端な時間なのだろう?

二時間前にスタジアムに到着し三十分ほど入場待ち。

一時間半前に開場。

今日は「ギブアウェイ」=先着入場者プレゼントのある日

↑「アグリー・スウェター・Tシャツ」は現物を見るまでどんなものか分からなかったけれど

XLサイズのさらっと乾きやすいスポーツシャツ生地。
ぱっと見エンジェルスグッズだとわからないのも良い(^^)
↑3塁側ダグアウトが近い111エリアの席をとっておいた。

グッズ売り場はいつも長蛇の列。
モノがなくならないうちに買いにいこう。

ユニフォームとかはどれも二万円近くするから、もう少しお手頃のを探すのだが…

↑この透明なプールバッグが15ドルほどで実用性がある↑
「実用性」というのは↓持ち込み品が外から見える透明なバッグが推奨されているから

↑緑色の推奨例にこのバッグが載せられております↑
大谷の名前が入ったモノはどれも高くなる。いちばん安いと言うと…缶ホルダーかな。

**
試合開始三十分ほど前に、大谷選手が登板する日に恒例の壁打ちをはじめた↓


↑登板日に当ててツアーを企画することなどできない。幸運に感謝(^^)

けっこう入念に準備↑あとから詳しい友人曰く、最近はスライダーが狙い打ちされているので対策を考えていたようだ、とのこと。

ガールズがTシャツ弾をスタンドに打ち上げてまわっている間もずっと真剣に研究しているようだった。

やがてスターティングがコールされる


今日は「六月のクリスマス」がテーマになっているので

トップはサンタクロースでした(^^)

選手それぞれが扮装しております(^^)

国歌斉唱

トラウトなどアメリカ人選手たちの多くは出てきているが大谷はまだ

マウンドで投球練習をはじめ、


SHOW-TIMEのはじまったが…
たちあがり、いきなりツーランを打たれてしまう

本人があとから「今期これまででいちばんくるしいピッチングだった」と語っていたそうだ。たしかにはらはらさせられた。

6回三点目をとられたところで交代。
勝ち負けはつかず。

試合はその後もとったり取られたり。
二点リードで迎えた9回表にもソロホームランをくらったりして、最後まで見届けないと帰れない試合。

なんとか一点差で逃げ切って勝利の花火があがり

選手たちが嬉しそうに集まってきた


大谷選手の投げる姿もホームランも見られて、楽しめる試合で、勝って。ごきげんでホテルに歩いて帰る我々(^^)

車が球場を出るまでどのぐらいかかるのだろう。




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エンジェルになるLA

2023-06-09 12:43:38 | アメリカ西部
LOS ANGELESはもともとスペイン語「ロスアンヘレス=天使たち」。
みんなで天使になってみるのも楽しい(^^)

1769年からスペイン領時代最初の総督に任命されたガスパール・デ・ポルトラに同行した司祭ファン・クリスピが、このあたりでであった川沿いの小さな先住民村Yabitを “El Pueblo de Nuestra Señora la Reina de los Ángeles de Porciúncula.”と呼んだことから、この町はロサンゼルスになった。
長い…スペイン語名をそのまま訳せば「ポルツィウィンクラの天使たちの女王=聖母マリアの村」ということになる。
ポルツィウィンクラとは、13世紀初頭イタリアはアッシジの旧市街外で聖フランチェスコが住んだ場所。
ポルティウィンクラは元はイタリア語で、英語にすれば“little portion,”(=とても小さな)ぐらいの意味。※カソリック教会の英語解説ページにリンクします

カトリック国の探検は布教とセット。
初代総督ガスパール・ポルトラの遠征にもキリスト教司祭ファン・クレスピとその上司にあたるフニペロ・セラが同行していた。
二人はフランチェスコ会から派遣されており、それ以前に到達していたイエズス会を追放しフランチェスコ会の教会とする任務もあった。
カリフォルニアにはフランチェスコ会ゆかりの地名が多い。
いちばん有名なのはサン・フランシスコ。

↓ロサンゼルス発祥の地とされるオリベラ街に立つ十字架↓

1781年第4代総督フェリペ・ネヴァによって正式に命名された。

オリベラ街に残るロサンゼルス最古の土壁(アドベ)の家


1818年に現在のメキシコから移住してきたドン・フランチェスコ・アヴィラが建てたとされている。
1821年にメキシコはスペインから独立。
このあたりも当時はメキシコだった。

1848年、アメリカはメキシコとの戦争に勝利。
カリフォルニアはアメリカ合衆国領土となる。
金が発見されどっと人口が増え、1850年にはカリフォルニアは州となった。

村の近くを流れていた「ロサンゼルス川」は物流ルートとなり、
周辺は工場や倉庫が建てられた。

20世紀初頭の巨大な工場・倉庫の建物が今もたくさん見られる。

1917年に建設されたサザンパシフィックのビル↑
サザンパシフィックは1870年代に鉄道を普及させた会社。
↑表面の印象的なデザインは、アーティストRETNAによって2016年に完成した
※リンクします
100の店舗と15のレストランが入っているのだそうだ。

20世紀後半に栄えた工場・倉庫エリアは
製造業の海外移転によってさびれていった。
安い賃料にアーティスト達が集まるようになっていたのを
ロザンゼルス市が便乗し、
「アートディストリクト」として大小さまざまな壁画を画かせるようになった。

本格的な作品群がみられる

古い倉庫と壁画

ドライブ見学に楽しいルート



壁画と問屋街

メキシコの伝統ピニャータ用のはりぼても売っている↑こちらは落書きレベル?

生地の問屋がずらり


・・・続く


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スペースシャトルの本物があるカリフォルニア科学センター

2023-06-09 10:45:32 | アメリカ西部
スペースシャトルってフロリダから打ち上げられていたんじゃなかったっけ?
そう。そのフロリダのケネディ宇宙センターから、

なんと飛行機の背中に乗ってLAにやってきたスペースシャトル「エンデバー号」
LAXロサンゼルス国際空港から、このカリフォルニア科学センターへは

こんなふうに運ばれて、このカリフォルニア科学センターにやってきた。
スペースシャトル計画が終了した翌年、2012年10月のこと。

※昨年9月と今年2023年㋅に訪れた時の写真を使っています


もとは1889年にオープンした農業展示場だったが、戦後1951年に科学技術展示を主にするようになり
1998年にこのビルが完成した↑↓

圧巻の入口

入ると戦闘機が飛んでいる。

↑1960-70年代のジェミニ計画アポロ計画の本物が間近に見られる
↑この有名なハッチが宇宙でどんな場所にあったのかというと↓なるほどここか↓

↑エンブレムは右にロシア語で「ソユーズ」左に英語で「アポロ」と書かれている↑
当時「冷戦」の時代だったが、宇宙ではソ連と共同宇宙ステーションも運営し↑
それぞれの宇宙船で物資や人を運んで助け合っていたのだ↑
21世紀の今の方がよほど心配に思えてくる。

↓ハリケーン体験室できゃーきゃーさわいでる(^^)↓

学校の授業もこれなら楽しそう

↑歴代ハリケーンの名前一覧↑日本のように●号とつけていたのではこの展示は成り立たない


↑環境科学や持続性について↑地球の実例から知ること

↑こんな楽しい実例が目の前に


スペースシャトルを見に来ても、もっと楽しませて・学ばせてくれる場所。
**

エンデバー号は巨大な別棟になった格納庫に置かれている

↑間近に見ると傷だらけ↓耐熱タイルは生命線

1992年から2011年の間に25回も打ち上げられた機体
二回目のフライトで日本人初の宇宙飛行士毛利さんを乗せた↓

スペースシャトルに搭乗した外国人は日本人がはじめだったし、その後も圧倒的に日本人が多い。
壁には135回すべてのミッションがずらりと並べられている↓

それぞれの回に搭乗した全員の名前も。

2009年に若田さんが宇宙ステーション組み立てに行ったミッション。
「ISS UP」と書かれているのは、このフライトでISS国際宇宙ステーションに上がったという意味なのか。

↑若田さんはその年7月DOWN降りてきていた↑

シャトル計画は二回の悲劇があった。

一度目は1986年1月のチャレンジャー号↑発射73秒後、衆目見上げる前で青空に爆発した様子は衝撃的だった。

日系宇宙飛行士オニヅカ氏の記念碑がリトル東京にある。

二度目は2003年のコロンビア号

↑発射時にオレンジ色の燃料タンクの表面がはがれ、シャトルの左翼に当たって断熱タイルを破損させた。
大気圏突入時にそこから入り込んだ熱が機体を空中分解させたのである。

その、オレンジ色の燃料タンクと同じ実物が↓格納庫の外にあった↓

全長47m、直径8.4m の外部燃料タンク(External Tank 通称「ET」)圧倒される巨大さ。
ここに詰められた液体水素と酸素がスペースシャトルの推進力になっていた。
再利用が基本のスペースシャトル計画において、このタンクだけはバラバラになって墜落するので再利用されない。
つまり、ここにあるのは使用されなかった本物。

こちらは船で、パナマ海峡をこえて西海岸にやってきた。

カリフォルニア科学センターではこのETを直立させ、
発射時と同じようにスペースシャトルを立てて展示する計画をもっている。
今年2023年㋅には計画がうごきだしたようで、

↑こんなふうに近づけない状態になっておりました。

さて、次は2023年8月に再訪予定。
どうなったおりますかしらん(^^)



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