旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

テカポ湖からクライストチャーチへ

2020-08-31 22:11:40 | ニュージーランド
2005年11月ニュージーランドの旅より


11月のニュージーランドは春真っ盛り。

ルピナス(ノボリフジ)の花が鮮やかに、湖の青に映える。

テカポ湖は標高七百メートルほどに位置する。氷河が削った石灰岩質が含まれるので蒼く見える。
湖畔の「良き羊飼いの教会」は1935年ごろに建てられた。
この湖の周辺には大きなホテルがないので一般的なツアーは宿泊しないことが多いが、夜は世界屈指の星空が見られる場所とされている。晴天率も高く、空気も澄んでいて、天体観測所がある。
2021年秋には湖畔に泊まる《手造の旅》を実現したいです。
**
2005年のこの日は、朝クイーンズタウンを出発してマウントクックとこのテカポ湖を経由、クライストチャージまで行く行程。

宿泊するのはイギリスのマナーハウスを模したホテル。

荷物を置いてモナベイル庭園へ。

現在はクライストチャーチ市が所有・管理する4ヘクタールに及ぶ広大な庭園だが

もとは19世紀に個人の庭園としてははじまった。庭園内にエイヴォン川が流れて

11月は様々なバラが競演している


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モナベイル庭園のちかく、ハグレイ公園内のエイヴォン川でイギリス風のパンティングを楽しめる

イギリスのストラトフォードにも同じ名前=エイヴォン川がながれているが

もともと「エイヴォン」というのが、イングランド先住民の言葉で「川」という意味なのだ。

***
クライストチャーチは家々が競って庭園造りをたのしんでいる。

小グループならうけいれてくれる個人の家も多い。

ホーム・ビジットも楽しい(^.^)
****

クライストチャーチに港はない。南のリトルトン港への丘越えの峠にマナーハウスがある。

その名もポートヒル。

今はトンネルができたので観光客がゆっくりランチを楽しむレストランになっている。

丘からクライストチャーチを見晴らすと、きちんと計画的に設計された北海道のような街のようにみえる。
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石人と寺院の跡

2020-08-31 14:35:42 | モンゴル
2008年《手造の旅》モンゴルより
石人が草原に佇む

こういったシンプルな石人はチンギス・ハーンのはるか以前、六世紀ごろに唐から「突厥」と呼ばれた遊牧民が刻んだと推察されている。

その支配地域は中央アジアのウズベキスタンからカスピ海方面にまでの広範囲に至り、石人はこれらの草原に広く残されている。

七世紀に突厥は分裂して衰亡してしまうが、彼らの残した石人たちはチベット仏教の時代になっても神秘的なモノとして大事にされていた。社会主義時代に壊滅させられた寺の跡地に多く集められている。

↑これは仏教寺院の建物の一部にちがいない。

かつて斜面を埋めていた寺院群は1930年代にほぼ壊滅した。

ごく一部の建物だけが博物館として残された。

ソ連の社会主義政権がロシア正教に加えた大弾圧は、モンゴルではチベット仏教に対して行われた。

1990年に民主政体に移行し、チベット仏教は息を吹き返してきているが、ほぼ根絶されていた人はそう簡単に増やせない。

がらんとした本堂?のテラスからは、破壊された建物の基礎がみえた。

↑当時の写真が展示されていた

ツァム舞の面なども。
※ここで売られていた古いコインを見ると、メキシコのピラーコインやスイスの射的組合の記念コインなどもあってびっくり。これについては、別途かくつもりでおります。



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ラシャントの夜明け

2020-08-30 11:47:35 | モンゴル
2008年《手造の旅》モンゴルより

シンっと冷たく、透き通るような朝の空気。

ゲルのすぐ後ろの岩山が朝日に染まっていた。

道はないけれどのぼってゆく。

複雑な岩山をくぐり、よじのぼり

足下に我々の泊まったゲルがある。
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朝食をおえてゲルをチェックアウト

ひとなつこいニャんこがお見送りに

***



ウランバートルへ




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タイハル岩、ツェンケル温泉、ラシャント

2020-08-29 09:17:02 | モンゴル
2008年《手造の旅》モンゴルより
タイハルチョロー(タイハル大岩)が忽然と草原の中にあらわれる

なぜこんなところにあるのかは説明できないが、古代信仰の対象になったのは理解できる。

中世から現代にいたるまでの「落書き?」に埋め尽くされている。
最近の発見ではチンギス・ハーンの孫の時代のものも発見されたのだそうだ。

岩の頂上に石を投げ上げることができれば吉兆ということで、運転手さんが挑戦↑
何回かやって成功しました(^.^)
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ツーリストゲル


ゲル型の固定お土産物屋さんもあり

市場を見学

完成品というより多彩な材料がたくさん売られている。

つまり、自分でなんでも作ってしまう人がたくさんいるのだろう。

夜の雨がもたらした水たまりがまだ残っている。排水はどこでも課題。

***
草原を走るバスはあまりに自由なルートをとり、

車の馬力が足りないような上り坂に遭遇。

「ちょっと後ろから押しましょか」

草原には生き物がいっぱい。

遊牧民がゲルをはる場所は季節によってだいたい決まっている。
第一条件は、近くに水があること。


★温泉があるツェンケル



簡単な脱衣所

日差しはきついが空気はけっこう冷たい



****
本日の宿泊地ラシャントへ向かってさらに草原を走っていると

突然馬に乗った子供たちがやってきた。自在に操る姿はペットに対するものではない。

自転車に乗っているような感覚なのだろう。馬は役立つ道具のひとつか。
動物とこういう感覚で接しているモンゴルの人々と日本人の動物観が異なるのは当然だ。
*****
ツーリストゲルがちかづくと、草原のお土産物屋さんが出現。

本物ともニセモノともつかない…

旧日本軍の?

板垣征四郎って…それはないでしょ

ジブリの映画でみたようなキャラクターはもともとチベット仏教のものだった?







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ツェツェルレグ~抹殺された寺院群の記憶

2020-08-27 07:54:22 | モンゴル
2008年《手造の旅》モンゴルより
かつてこの斜面いっぱいに存在したチベット仏教寺院群のことを思う。

1930年代後半、ソ連の強い影響下にあった社会主義モンゴルは国中の寺院を破壊しはじめた。
破壊前のこの斜面の様子↓上の写真に写っているのはごく一部だとわかる。

★1930年代のモンゴルは人口七十万人なのに九万人もの僧侶がいた。
男性の四人に一人が僧侶だった計算になる。
寺は「ジャス」と呼ばれる直轄の寺領を持ち、それは全国で三千にものぼった。
チベット仏教のトップが政治的にも最大の権力を持つこのシステムを破壊するために、社会主義モンゴルはあの手この手で人々を寺院から離反させ、1939年にはここツェツェルレグの寺院は博物館に変えられた。

抵抗する者は強制的に排除された

我々が今見ているのはそういう場所なのだ。


1911年に辛亥革命で瓦解する清朝は遊牧とチベット仏教信仰のモンゴルを容認していた。
モンゴル人が遊牧の民だと誰もが知っているが、17世紀ごろまでは寺院も移動していたのである。
首都のウランバートルはその移動宗教都市「イフ・フレー」が1788年から六十年間動かなかったことにより定住がすすんで都市となった。
1930年代はじめ二階建ての住居はひとつもなかったそうである。

地方都市ツェツェルレグは2008年にもすべて平屋の町だった。
板塀の中に伝統的なゲルをつくって住んでいる人もまだまだ多かったようすがわかる。
**
2008年8月7日
朝、ハラホリン(=カラコルム)のツーリストゲルを出発

いつまで見ていても飽きない空と草原を走り出した。

さらに西にあるツェツェルレグを目指す


川原で休憩

崖の上にレプリカが

二時間弱で本日宿泊のツェツェルレグへ到着

ゲルでなくちゃんとした建物のホテルがある

1990年代に外国人が建てたのだ

内部はこんな

食堂でランチにしよう

わりにちゃんとした(失礼)メニューがある

なんだかヨーロッパの田舎風?

***
午後、町はずれのボルガン山斜面にある寺院へ。

あの斜面がそこ。
一見なにもないような場所だが

それは、冒頭に書いたような歴史があったからである。

再建された門をくぐり階段をのぼってゆく

すべては新しい

1990年に民主制の国に移行してから寺院の再生もはじまっている。


この木魚は新しい?古い?

そして、突き当りに残された、古い本堂?の前にたどりつくが

無残に破壊された跡がそのままだ

ここから町を見下ろすと、モンゴルはどこの町もチベット仏教が中心にあったことがうかがえる。

※2018年に訪れた人によるとこの建物は修復されて大きく新しくなっていた
****
アルハンガイ県立博物館へ

チベット仏教の寺ではあるが清朝時代の影響もはっきり感じられる。

ここで必ず見ておかねばならないのはこの「ブグト碑文」
六世紀、突厥と呼ばれていた時代のものとされる。

欠けてはいるが↑この部分はオオカミだとされている。左が顏で、足が四本見える。モンゴルはチンギスハーンの時代の「蒼き狼」の建国伝説が有名だが、この碑文はチンギスハーンの時代より五百年近くも古い。
中国では隋王朝の時代、モンゴルは敵対するだけでなく、碑文を立てるという中華的伝統にはならっていたのか。


博物館内部

17世紀までは寺も移動して、僧侶もゲルに暮していた。
定住してからのちも、今ツェツェルレグの町にゲルをつくって暮す人がいるように、ゲルの方が快適と感じる人は多かっただろう。

人は、民族は、生き方を簡単には変えられないものなのだ。



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