福ちゃんの散歩道

コロナ禍で関空での遊びも卒業、栂地区ウオーキングコースを中心に近場の日々の散歩で何か見つけよう。🚶‍♂️🚶‍♂️

天下茶屋(てんがちゃや)の地名の由来は何だろう??天下茶屋跡 があった。帝塚山を見て➡︎天下茶屋跡へ

2017-12-15 13:00:52 | ★気儘にぶらり 再発見😲 面白いなぁ?
快晴の14日
チョット気になる
①帝塚山はどんな山か?
②天下茶屋って由緒は何やろう?
という事で探索

①帝塚山 ➡︎標高20m 大阪5大低山の一つ
南海電鉄帝塚山で下車 無人駅だった

直ぐ小さな小山が見える


帝塚山古墳だったが、柵があり入る事は出来ない。



裏に回って見たら民家で見ることが出来ない。丁度、ご婦人が出かける所だったので、敷地内に入れさせて貰いました

昔は古墳に登ることが出来たとの事。此処には明治天皇が行行々


★歴史
現在は、帝塚山古墳は一つだけだが、明治時代までは、俗に「大帝塚」と「小帝塚」と呼ばれる大小二つの古墳があり、この地に館を持っていた古代豪族の大伴氏の大伴金村とその子の墓とされていた。ただし、大伴金村は6世紀前半の人物で年代が合致しない。5世紀ごろの大伴氏の系図は錯綜し実態が把握できないが、4世紀末の大伴氏の人物として大伴武以が見える。大帝塚の方は、現在の大阪市立住吉中学校の敷地となり、小帝塚の方が帝塚山古墳として現存している。前方後円墳。
帝塚山は、元はたんに「塚」または「手塚」「手塚山」と呼ばれていた。阪堺線の塚西停留場の名称は、塚の西という意味でその痕跡を伝えていると言えるかもしれない。
明治天皇が大阪に行幸し、かつての南朝の後村上天皇の御所だった住吉行宮に滞在し当地に足を運んだことを機縁に「帝塚山」という名称に改められたと伝えられる。その一方で、摂津名所図会(1796年)に「帝塚山」の記載がみられることから、江戸時代後期にはすでに「帝塚山」と呼ばれていたとも指摘されている
財団法人住吉村常盤会が管理している。

②天下茶屋跡 阪堺塚西駅まで歩く。メチャ近い


白線内が乗降場所

天神ノ森下車
天下茶屋天満宮がある。横を通り抜ける



道路を渡ると 大きな楠木が1本・・・・天下茶屋跡だ


天下茶屋の由来



狭い一画だ

歴史
★天下茶屋の地名は、かつてこの地にあった茶屋の名に由来する。(芽木(めぎ)小兵衛の茶亭)

この地は、古代には「天神の森」と呼ばれる鬱蒼とした森の茂った鄙びた土地だった。そこに湧く水の良さに着目して茶室を建て、森を切り開いて道をつけたのが、千利休の師にあたる武野紹鷗だった。以来この地は「紹鷗の森」とも呼ばれるようになった。
天正年間 (1573–92) には楠木正行の十世孫であるという初代芽木小兵衛光立がこの森の西側を開き、ここに茶屋を出した。そして三代目芽木小兵衛昌立のとき、住吉神社を参拝した関白・豊臣秀吉がこの地に立寄り、この芽木家の茶店から清泉を汲んでお伴の千利休に茶を点てさせたところ、味の良さに感激。そこでこの泉に「恵の水」の銘を、芽木家に玄米年三十俵の朱印を与えた。そこから関白殿下の「殿下茶屋」、天下人の「天下茶屋」などの名が知られるようになったという。
慶長十四年三月三日(1609年4月7日)には、父・林玄蕃を闇討ちにした当麻三郎右衛門を、玄蕃の遺児・重次郎と源三郎の兄弟が9年間におよぶ苦難の末に、この地で見事に討ち取っている。この「天下茶屋の仇討」は当時代表的な仇討ち事件として講談や歌舞伎などに取り上げられ、その結果「天下茶屋」の名が日本中に知れ渡ることになった。
もとは西成郡勝間村に含まれ、紀州街道に面した新家で「勝間新家」と呼ばれていたが、天明から寛政年間にかけて東成郡天王寺村に含まれるようになった。天下茶屋の集落は天王寺村の集落の一つとなったものの、天下茶屋の地名は現在の西成区岸里東二丁目付近を中心として、天王寺村・勝間村および西成郡今宮町の3村の境界付近を広く指す地名となっていた。
明治時代後期になり、地域の東部は郊外別荘地としての開発が進められた。また地域の西部でも、大阪市の発展に伴って住宅地へと変化していった。

これから、聖天山へ登る〜茶臼山へ 大阪5低山なのだ

次回 アップする。

✳️大阪5低山
大阪五低山めぐり. ネット見てたら!
五低山とは、生野区の 岡山(御勝山)標高14m、天王寺区の茶臼山・標高26m、住吉区の帝塚山・標高20m、 阿倍野区の聖天山・標高14m、港区の天保山・標高4.53mの五つです。