福ちゃんの散歩道

コロナ禍で関空での遊びも卒業、栂地区ウオーキングコースを中心に近場の日々の散歩で何か見つけよう。🚶‍♂️🚶‍♂️

豊国神社(ほうこくじんじゃ)はひっそりとしていた。➡︎神さんになった秀吉 昭和36年 現地に移る。

2017-12-09 12:00:00 | ★大阪城もメチャ面白い😄
旧石山本願寺跡周辺の銀杏が落葉しているかなぁと立ち寄ったが
チョット遅かった




豊国神社の秋の名残はどうかなぁ 終りでしたね〜〜
大阪城桜門方面はメチャ多い観光客だ

右奥に豊国神社だなぁ ひっそりと












チョット 寂しいな〜と呟いているようだ


2017.12.7. 大阪城周辺 散策(所用の序での時間待ちタイム)

●豊国神社の事は知らないのでネットで見てみたら、面白いなぁ

秀吉は神になっていた! 秀吉没後、朝廷から〝豊臣大明神〟の神号宣下があり、京都に豊国社が造営され神さんになった。全国各地に多くの分社が成立、慶長18年秀頼自ら大阪城内の山里丸に豊国社を勧請している。
元和元年夏の陣で豊臣家が滅びると、徳川家康は秀吉か〝豊国大明神〟の神号を略奪し、以降仏式で供養するように命じたとの事。各地の豊国社は破却。京都の本社についても破却を命じたが、高台院(北政所)の嘆願で認められて社殿は崩れ次第放置される。これが、復活するのは明治に入ってからとの事。

★由緒 history
当社は「豊臣秀吉公」「豊臣秀頼公」「豊臣秀長卿」を御祭神とする神社です。明治元年、明治天皇が大阪へ行幸された際、国家のために多大なる功労を残した豊臣秀吉公を大阪の清らかな地に奉祀するよう仰せになったことから、明治六年に京都の阿弥院峯墓前を本社として社殿を造営、大阪には明治十三年に別格官幣社豊國神社の別社として中之島字山崎の鼻(現在の中央公会堂の地点)に創立されました。大正元年に府立図書館の西方の公園内に移転。昭和二十年より宗教法人として神社本庁所属の神社となり、その後、大阪市の発展に伴う市庁舎増築にあたって、昭和三十六年一月に現在の地へ奉遷しました。
ここ大阪城跡は、かの有名な石山合戦にて石山本願寺の宗徒が十一年にも渡り、織田信長の猛攻に対抗し続けた場所です。さすがの信長も攻略をあきらめ、和睦を結ぶに至ったほど要害堅固な土地であったことから、秀吉公は天下を平定し居城を築くにあたってこの地を選んだという、御祭神に最も縁が深く奉祀するのに最適な神域とされています。

★京都 豊国神社 「とよくに」神社 に対し、大阪 「ほうこく」神社 と称するようになった。

●大阪夏の陣で山里丸の豊国社が焼亡して以来およそ350年ぶりに〝豊国大明神〟が大阪城に帰還した。

★山里丸
本丸北端部の一段低くなったエリアが山里丸である。この名称は豊臣時代から引き継がれたものだが、ただし豊臣時代には更に一段低くなった西側の芦田曲輪と東側の山里曲輪の二つに分かれていた。
豊臣時代には秀吉の命を受け千利休が造営した茶室を含む閑静な風情を湛えた一角だったというが秀吉没後には〝京都の豊国神社〟から分祀した〝豊国社〟がこの一角に祀られていた。徳川時代には大坂城を防衛する大番衆を補助する加番役の筆頭、山里加番小屋が置かれていたが戊辰戦争時に内堀沿いに二つあった二層の菱形櫓と両脇の多聞塀、極楽橋、極楽橋曲輪の御門、多聞櫓を含めて全て焼失している。