天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

鷹6月号気になった句

2017-05-31 09:23:09 | 俳句


ただそこにある俳句は駅の掲示板のなにかの文言のようで頼りない。どんな俳句も出来はともかく読まれたがっていると思う。俳句を読むのは胡瓜の苗に添え木を与えるように積極的に句に加担することである。
ここに取り上げる句は評価する句もあるがそうとう疑問を感じた句もある。

天に乳含まするごと芽吹くかな 奥坂まや
小川軽舟と鷹を牽引する筆頭格の奥坂まや。
彼女の句の本質は比喩である。<嫁の座といふ冬瓜のごときもの 『列柱』><長々と尾のあるごとし秋の暮 『縄文』><鶏頭花聖なる愚者のごと立てる 『妣の国』>と、奥坂の切れ味のいい比喩はこれまで随所に見てきた。
取り上げた三句の比喩は凡百がついていけそうなレベルであるが、「天に乳含まするごと」は相手が天という無生物にて大胆。乳を含む赤子の口を抽象的な天に転じている。やや想念に走りすぎたかと思うほど意表を突く。
命を育む大地、地球というもののに並々ならぬ興味を抱く作者は常に天を仰ぐ人である。

ぶらんこを押してぼんやり父である 髙柳克弘
4年前、鷹の「俳壇の諸作」に原稿を書いていたとき髙柳編集長の家を訪れたことがある。新妻の紗希さんが冷えた麦茶を出してくれたから夏であったか。そのとき二人だけだった家に一人家族が増えたらしい。めでたいことである。
めでたいのだが男は女と違い、親となっても「ぼんやり父である」。女は傷みという実感を伴いすぐ親になれるが男は遅れて親になる。その感慨が正直に出ていて好ましい。女房にうんこの始末を任せて俳句つくりたいなあ、俺は俳人なんだぜ、という気持ちがうっすら見て取れるところがいい。


帰還兵若芝に亀歩ませて 竹岡一郎
竹岡は昭和38年生れ。26生れのぼくよりずっと若いのにずっと太平洋戦争を書き続けている。戦争の具体的な事象など見たこともないはずなのに「帰還兵」を出すことにまず驚く。それも自信をもって「若芝に亀歩ませて」として、兵が帰還する前の死体の腐敗する戦場へ読み手の意識を導こうとする。
竹岡の頭の中に常に太平洋戦争という命題があり、そこから演繹して戦争を書く心根というものにぼくはついていけない。俳句は大きな命題から具象を引っ張り出すのではなく今そこにある事象を細やかに詠むというものではなかろうか。
この作品の質はいいのであるが昭和38年生れの作者が書く句なのかという不可思議さを拭い切れない。


我等に似る彼等はいづこ春の星 南 十二国
一読して映画「未知との遭遇」を思った。この句は映画と同様、地球外生物がいると信じて書いている。「未知との遭遇」は俳句よりずっと長い文脈で地球外生物への想念を描いたのである。映画は地球人に似た姿という安易な発想を遠ざけて神秘性を出そうとしている。俳句という短い文脈でこのように書いてしまうと幼さばかり前面に出て来ないか。
作者は鷹俳句賞を受賞したときその選考座談会で選考委員の細谷ふみをから宇宙もの俳句はしらけるというようなコメントを受けたはずである。
南の宇宙意識ははまるとすごいと思うのだがこれはあからさま過ぎないか。細谷の苦言がよみがえる。


啓蟄や空家対策審議会 砂金祐年
現在の日本の状況を端的に描いている。「啓蟄」という季語に虫でない人間界の事情をからめたのがおもしろい。若い砂金君が虫は出るが人はいなくなるという皮肉な隠し味をよく出したものである。


閑話休題、
現在の鷹で有力な4人を挙げた。奥坂と髙柳は自分が見聞きする素材をこなしていてまっとうだと思う。竹岡と南は戦争と宇宙という想念に走りすぎていないかとやや心配になった。俳句はもっと身近で見聞する物をさりげなくまとめるものではないか。
竹岡や南のような若い人が想念に行くのはわかるが若い砂金が足元の素材をたんねんにこなすほうをよしとする。現実をきちんと見ても若さは出せると思うのである。

百千鳥男つぷりは喰ひつぷり 黒澤あき緒
この句を読んで喰ひっぷりがいいと信じるぼくはエールを送られた気がした。
妻は「喰ひっぷりがいいのと音を立てて喰うのはちがう」と反論するだろうが腹が減っている男が多少音を立てるのを咎めてどうするのだと言いたい。そういう男が女を正しく抱けるのだと思う。鳥たちだって飯をむしゃむしゃ食う男を称えているではないか。



春炬燵女が猫の名前呼ぶ 岸 孝信
巧まざるユーモアがある。女と作者と猫がいて女は男でなく猫を呼んだ。男と女の関係は性の抜けたたゴムみたいに伸びている。いつ切れても不思議ではない。猫のほうが好ましいのである。


仏壇のやさしき暗さ花の雨 大石香代子
まず仏壇の暗さを意識したこと、それを「やさしき暗さ」といったことが意表を突く。こういう卑近なところにポイントをつくるセンスがいい。「やさしき暗さ」で自分の世界にした。


震へつつ窓這ふ雨や春眠し 辻内京子
目が効いた句である。ぼくは車の窓ガラスでこういうところをよく目にする。エンジンの振動も加わり雨が振動する。車だとしたら助手席にいて眠ると隣の運転手もつられて眠いだろう、起きていなきゃと思いつつも眠ってしまったか…。

鍵穴のやうな山羊の眼春深し 桐山太志
ぼくは山羊が嫌いだ。なぜかと思っていてこの句の「鍵穴のやうな山羊の眼」に遭遇し、言い得て妙だと思った。そう、山羊の眼は鍵穴でありうろん。何を考えているのかわからない。いや、何も考えていないのではないか。山羊は飼う動物の中でいちばん知能が低いのではないか。山羊という動物を一点を見て鋭く描いている。


八方円満栄螺の腸のしゆると抜け 山地春眠子
そうです。栄螺の腸が切れずにきれいに抜けることはめったにない。よって「八方円満」なるやや大げさな字余りがのめる。


自首を促す上野公園の桜 加藤静夫
美的にとらえる桜の句が圧倒的に多いなか、加藤の発想、面目躍如である。桜咲く上野公園にはあらゆる種類の人間が集まるだろう。そこに住む路上生活者もゆっくり寝ていられない。それよりもっと悪質な、犯罪に加担した人もいるだろう。犯罪者はさっさと警察に出頭してくださいね、桜が咲いたのですから、というのは作者ならではの洒落である。


四方の山笑ふグランドピアノかな 志賀佳世子
窓は一方にあるのだろうがピアノのどこにも新緑が映っているような気がする。美しく気品があり広々とした空間を謳歌している。


春暁や大地に舫ふ熱気球 西嶋景子
ふつう船と岸に使う「舫ふ」を大地と熱気球に用いて言葉を刷新した。それが大げさにいうと読み手に別の世界を見せてくれた。「春暁」という季語が新世界を支える。


絶筆の裸婦の口紅冴返る 山岸文明
「絶筆の裸婦の口紅」で決まった。どういう画家か知らぬが画家が裸婦にかけた情念の凄さが伝わる。おまけに口だけ赤い裸婦である。「冴返る」は山岸の実直さが出た季語。画家の放埓を山岸が持っていたら別な季語がついたかもしれない。

竜天に登るみぎはの巌かな 宮下とほる
一読して<夏山の水際立ちし姿かな 高浜虚子>を連想した。宮下も虚子も水の際を詩のポイントと見ている。写真にしろ言葉にしろ恋にしろ、水と何かが接するところに気持ちが揺さぶられることが多い。この句はよさは説明しにくいが言葉が立っているのである。虚子の句もしかり。


いかのぼり切れて大樹に静まれり 鶴屋洋子
どういうこともない。切れた凧が大きな木に引っかかっているという景である。引っかかっていると書いたらまるで味気ないが「大樹に静まれり」というとにわかに情愛が生まれる。世間話でも俳句でも物は言い方ひとつである。
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1 コメント

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はじめまして (中山月波)
2017-06-01 08:18:24
わたるさん、初めまして。いつき組のご縁でこちらの存在を知りました。
私は俳句歴まだ9ケ月。(作句はもちろん)特に鑑賞が苦手です。
「春炬燵...」の句では、脳裏に女と猫しか浮かばず、面白みが分かりませんでした。
わたるさんの講評を読んで納得した次第です。

「俳句を読むのは胡瓜の苗に添え木を与えるように積極的に句に加担することである。」
この一説に感じ入りました。
分からないからと読み飛ばすのではなく、分かろうとする姿勢が大事なんですね。

私は大阪在住で、関東の吟行に参加できず残念ですが、
こちらのブログで勉強させていただきます。
よろしくお願い致します。

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