天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

死を読むより命を詠む

2024-05-16 06:24:30 | 身辺雑記
                         


先日、書店に勤めるみい子からメールが来た。みい子は死んだ長男の友人だった女性で40代中ごろ。
「最近こんな本を読みました」として紹介してくれたのは、『寄り添う言葉』(永田和宏/小池真理子/垣添忠生/小池 光/徳永 進/¥890(本体)+税   発売日:2024年02月07日)であった。版元が、
天才歌人である妻・河野裕子を2010年に亡くした永田和宏が、同じく伴侶を喪った人たちや、多くの患者を看取ってきた医師と本音で語りあう魂の対話集。
 最愛の伴侶との思い出を語りあう遺されたもの同士の対談は、お互いの心の深層から飾りのない言の葉を導き出す。後悔や悲しみを抱えているすべての人に贈る1冊。
と謳う。
版元は以上のように紹介しているがみい子はおもしろいともためになるとも何も言わず、小生に向かってただ石を投げた感じ。君はどうこれを読んでどう思ったのだ、と問いたくなった。君は書店員ではないか。

小生はいま一番読みたくないテーマである。死から逃げ回っている。息子の死は衝撃であったがそうでなくてもそこらじゅうに老・病・死が蔓延している。
小生も73歳になり付き合う人たちも高齢化している。葬式などで彼らに会うと死んだ人より彼らの老いた様に呆然とする。そう思うのも不遜で自分もがたが来ている実感がある。
ゴールデンウイークが終わった5月6日精魂尽きた感じで、来年74歳で今年みたいに結と付き合えるかしばしぼーっと考えに耽った。
「(息子さんの死を)子守りでまぎれますね」とある人からよく言われる。が、結をみる熱量は息子が生きていようと亡くなろと無縁。関係ないのだ。「まぎれますね」といわれるたびに声を出さずに異を唱える。
今読んでいるのは、西條奈加『隠居すごろく』、時代小説である。
隠居した糸問屋の6代目徳兵衛だが遊び嫌いで無聊な生活に耐えられない。そこに9歳の孫が来て最初はうるさいと思ったが孫と新しい商いの道がひらけてゆく、という話。意表をついた展開が楽しくどんどん読める。もう深刻なものは読みたくない。そのようにみい子に伝えた。
ふいに、
けふあすは誰も死なない真葛原 飯島晴子
を思った。たぶんこれを書いたとき、晴子さんは夫を亡くしたであろう。加えてほかにも大切な人を亡くしたのだと思う。それが「けふあすは誰も死なない」という断定になっている。断定しても人は死ぬ。上五の「けふあすは」が切ない願いである。死なないでほしいという気持ちをここまで押し込んだ句はそうはない。絶品である。
死についてはこの1句で十分という心境である。

死から逃げるようにして生きているが命を考えないわけではない。世の中には人間以外にもろもろが生きている。かれらに関心を寄せるときうきうきする。これが俳句をやる賜物か。

ひくひくと波打つて来る毛虫かな
明日を期し孑孑嬉嬉と躍るなり
風を聴くか蛇鎌首を草に立て
蚊か蠅か来よ病室の白き壁
糸一閃ついーと蜘蛛の下りきたる
げぢげぢや汚泥ものかは照り映えて
櫃の底見えて穀象慌てをり
いぶせしや手の甲の蟻爪弾き
子燕の喉の奈落が虫を欲る
行く先々舟虫散つてよるべなし
雨燦燦青葉のうえの青蛙
団子虫突きまわす子緑さす

小さな命を受け止めて子守りをしている。そう悪い生き方ではないと思っている。

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