写真:毎日新聞
昨夜のボクシング、WABミドル級のタイトルマッチ、アッサン・エンダムVS村田諒太の判定は、問題を残した。
前者が後者を2-1で破ったのだが、テレビの解説者ならびにその影響を受けたぼくも村田の勝ちを信じて疑わなかった。たぶん村田自身も。
本日の讀賣新聞はそのことに触れ、「手数は有功打か判断割れる」という記事を掲げている。
9回以降の4ラウンドについて二人がエンダム有利の判定をしもう一人が村田優位を主張している。
その考え方の差がボクシング競技の判定基準のあいまいさであり、それを統一しないと禍根を残すという内容である。同感である。
ボクシングの判定は以前からたびたび問題になってきた。開催する場所によって判定が影響を受ける「ホームタウンディシジョン」などという不名誉な言葉も生まれている。
KO決着のない採点競技のフィギュアスケートの判定は細部にわたって基準が明確でそれで揉めることがボクシングより少ないように思う。
俳句にも判定が持ち込まれて「俳句甲子園大会」が成立し盛んになっている。
勝ち負けをつけるという競技性が案外選手たちのモチベーションを高めているのかもしれない。
ぼくがここの審査員に呼ばれた初期は、審判員が3人であった。
すると判定は必ず3-0か2-1になった。2-1のときは自分の挙げた旗色が白でなく赤であったらこの子たちの運命は変わっただろうなと思い、そうとうの負担がのしかかった。
やがて審判員を5人になったときこの重圧はかなり減り気持ちが楽になったものである。
ボクシングは判定基準があいまいのままならばジャッジの数を5人にしてはどうか。
俳句甲子園の松山の決勝大会の二日目の審査員は13人である。
いつだったか7-6の判定が出たケースがあって目を見張ったことがある。俳句は情操ゆえそうなっても不思議はない。
俳句甲子園の鑑賞点の判定はむつかしい。
作品の読みについて1点をどちらに与えるかということだが審査員により割れる。ここでもボクシングのように<手数>か<有効打>かがついて回る。
ぼくは有効打を取りたいのだが、どちらにもそれがない場合が少なくない。すると手数だが、いまの高校生はなにかを喋る能力は持って出てきているので片方が黙り込むことなどほぼない。
またむつかしい判定の日がやってくる。審査員のつとめはその日に向けて体調を整え、見逃さないこと、聞き逃さないことであろう。