天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

兜太さんの「かな」は反則

2017-06-02 15:34:32 | 俳句


月刊誌『『俳句』6月号は「創刊65周年記念号」と銘打って有力俳人65名から寄稿を受けている。
「特別記念5句」である。
これを読み初めて最初の金子兜太さんでガクンとつまずいてしまった。

瀬を跳び越す春の人影平和かな 金子兜太

谷に堕ち無念の極み狐かな   同

5句のうちに「かな」の句が2句ありいずれも俳句としての形がよくないのである。
ぼくは「かなの句は野球でいうとフォークボールの球道」と初心者に教えている。「かな」にいたるまでの流れに段差があると最後の「かな」がまるで効かない。淀みなく流れてきてストンと手元で落ちるから効くのである。
しかるに、兜太さんの一句目は「人影」と「平和」の間に大きな段差がある。
二句目も「極み」で大きく切れてしまい「狐」に流れない。

「鷹」の創始者、藤田湘子は『20週俳句入門』(角川学芸出版)で俳句の典型的な四つの型に言及している。
「かな」のよい形の句として、

金色の佛ぞおはす蕨かな 水原秋桜子
帯解きてつかれいでたる蛍かな 久保田万太郎 
はなびらの欠けて久しき野菊かな 後藤夜半

などを挙げる。
下五の季語の前は動詞や形容詞の連体形が来ている。動詞の場合ぎりぎり終止形でなんとか下へ流れる、と説く。ほんとうは連体形でなくてはいけないが俳句の慣用で認めてもいいという考え方である。終止形でも切れる感じが少ない印象のときはOKということだ。

オムレツが上手に焼けて落葉かな 草間時彦

この句は上記3句と違い「焼けて」で軽い切れが入る。これは情緒の溜めがあってセーフ。切れはこの軽さまでである。
したがって湘子は「デリケートなかな」とこの型を呼ぶ。

われわれ鷹連衆からみて兜太さんの「かな」は邪道である。

長野冬季オリンピックでフランスのスルヤ・ボナリー選手がバックフリップをやって物議を醸した。彼女が黒人ゆえに採点が低く抑えられていることへの抗議であったが、フィギュアスケートに「縦方向の回転」は存在せず反則なのだ。


スルヤ・ボナリーの反則技


兜太さんの「かな」も鷹衆の美意識には存在しない。最初の句は「瀬を跳び越す春の人影平和なり」とでもしたいところ。
兜太さんのような大御所がこういった反則をお使いになると知らない人はまねをするので困る。先達は責任を持って欲しい。

兜太さんは伝統俳句協会の稲畑汀子さんと犬猿の仲で、しょっちゅう喧嘩していると聞く。
世界観や流儀の違いで論争するのはいいとして、俳句は畢竟、立ち姿の美しさが決め手になるのではないか。
表現する中身はさておき表現手段は老舗「ホトトギス」から学ぶものがあるのではないか。
あるいは石田波郷、藤田湘子、小川軽舟と立ち姿の美しさを重んじてきて現在に至る「鷹」を範にしてもいいのでは。

俳句は意味を伝えようとすれば汚れる。音感に托すときりりと立つのである。
コメント (1)
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