天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

天皇は崩御して替るのがいい

2016-10-22 05:45:59 | 世相


皇陛下自身が生前退位を希望された事案はその後の報道も過熱させている。
生前退位に関するさまざまな意見のなかで、きのう讀賣新聞の4面に掲載された八木秀次氏(麗沢大学教授)のものがいちばんぼくの考えるところに近かった。

教授は生前退位が政治に利用されてきたことから否定的で摂政を立てればいいという。
「陛下のご意向を受けて制度を作ることは、天皇の発言を禁じた憲法で定める象徴天皇の趣旨から大きく逸脱する」としている。
さらに天皇の公的行為を縮小するべきであるとしている。
世論の8割が生前退位に賛成であってもこれに流されるのはまずい、という見解である。

ぼくもほとんど彼の意見に同調する。
天皇がビデオ撮ったメッセージをテレビで流すなどえらく現代的だと思って見入りそのときは勇気があると感じた。
けれどこれはどえらい憲法問題に発展すると感じた。
ほかの案件で問題が山積している日本でなぜこんな厄介な問題を表ざたにするのだろうと、天皇とそれを許した宮内庁に疑問を感じたのであった。

天皇が象徴天皇を自らお考えになって行動されてきたのは尊い。
積極的に被災地慰問など外回りに励まれてきたのも尊いと思う。
けれどそれがおできにならなくなったという個人的な事情で降りたいと表明したのはかなり我慢がおできにならなかったと残念でならない。

「君が代」は次のように謳う。
千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
ぼくはこの詞が嫌いだが巌の盤石を謳歌しているのは確かであろう。
巌は物を言わず冷たく存在するというイメージである。
天皇は積極的に発言せず存在しているというのが憲法で定める「象徴天皇」ではなかろうか。
「象徴天皇」ではなくて「人間天皇」の色彩が最近強くなりすぎているのを感じる。

市井の人と気軽に交流するのはいい。
けれど天皇は際限なく人間になるのはよくないのではないか。
象徴天皇はもの言わぬ天皇ということではないか。
かの太平洋戦争末期の収拾において鈴木貫太郎首相は聖断を求めた。天皇に政治的決断を仰いだ。それも2度も。これは国民の側が求めたものでありこれは歴史に残る大事件であった。
それが今回は自ら政治的発言を行なったわけであり日本の歴史に特記される事件になるだろう。

生前退位などという発言なさるべきではなかったと思わざるを得ない。
鈴木貫太郎首相とは逆の立場に置かれた安倍晋三首相が答えなければならぬが特措法というわけにはいかない。憲法改正しかなさそうである。
そんな面倒を国家、政府にかけないで具合が悪いのであれば黙ってお休みになっているのがいいのではないだろうか。
職務を果たせないという人間的な気持を堪えて屈辱に耐えてお休みになっている、というのが巌の宿命を負った天皇の生きざまではかかろうか。
天皇が職務を果たせないならば摂政がこれに当ればいい。
何の支障もないのではないか。国民もおおかた納得する。
天皇は徹底的に人間にはなれない、なってはいけない身分と心得るべきだろう。

崩御によって天皇が替るということがいちばん問題が起こらない太平に通じると思っている。

コメント (2)
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